封印書庫と、禁止詩
定時が周ってとっぷり暗くなり、月が見え始めた頃。レンは封印書庫の前に立っていた。
「ふぅ、やるわよ!」(あの後、婚約解消の手続きの使者がきたから、時間がなくなっちゃったのよね)
早急に終わらせたからよかったけど、気になったのは先ほどすれ違った司書たち‥‥。レンは噂好きの女たちを渋い顔で思い出す。
「アルヴァ様‥!初めて拝めたわ‥!えぐいイケメンだったわね」
「えぇ、本当に!でも調査の一環って何かしら?」
「まさか先週の、ヒュー殿下の不審死の件?」
「えぇ、そうかもね。魔術師でもある第4王子のヒュー殿下が、全身の魔力を抜かれて亡くなった事件ね。まだ真相は掴めてないみたい‥‥あら?」
「魔力ナシは狙われずに済みそうね」
「気楽でいいわねえ〜」
作業でヘロヘロになったレンを見て、声高々にこう言ったのだ。レンは思い出しながらうんざりする。
そして、少しがっかりしている自分がいた。
自分なりに事件や依頼について調べてみたが、
どうやら、アルヴァは魔力ナシで古語が読める、都合の良い存在としてレンを見つけたらしい。
「まぁ、そうだよね。魔力ゼロは珍しい。禁術書の魔力に影響されないし。利用しない手はないわな」
レンの目の前の重い鉄扉に、複雑な魔術陣が刻まれている。普段は司書長でさえ滅多に開けない場所だ。レンが鍵を差し込むと、陣がかすかに光って、錠が外れた。
(特別許可、本当に取ってあったんだ)
アルヴァの仕事が早いことも、事件の信憑性を増す材料になった。レンは扉を押した。
ひんやりとした空気が流れ出した。
中は薄暗かった。魔力を帯びた文書が放つ微かな圧力が、空気に滲んでいる。
「うーん、暗いけど普通ね。何も感じないわ。これだけは便利よね。」
魔力が多い者が入れば、本によっては共鳴し動き出すものもあるそうだ。その点、魔力ゼロのレンには、本たちも何も反応しなさそうだ。
ランタンを持ち直して、棚を一つずつ確認した。
アルヴァのリストに書かれた文書を探す。
古代語の題名。どれも年代が古い。羊皮紙が黄ばんで、端がぼろぼろになっているものもある。
三冊目を見つけた。
四冊目も。
五冊目を棚から引き抜こうとした時、その隣に別の文書が挟まっているのに気づいた。
本にしては薄い、さらに妙に違和感があった。
引き抜いてみると、表紙に古代語で題名が書いてあった。
(禁止歌集 ウェナ・ライトの詠み手)
レンは目を細めた。
「ウェナ・ライト‥?」
毎朝読んでいる詩の一節と、同じ言葉が目に入った。
「なんで封印書庫に詩集が?」
間違って置き忘れたのだろうか。
パラパラとめくった。古代語で書かれた短い詩が、いくつか並んでいる。知っている言葉と、知らない言葉が混じっていた。
「全部読める‥。」
(持ち帰りは禁止されてるけど‥)
レンはしばらく文書と睨み合った。
詩集を手に持ちながら、ちらと隣の棚が目に入った。もう一冊気になるものがあった。これも古代語の表紙だ。題名を読む。
(収奪術の記録、禁断の魔術集より)
「収奪術。聞いたことがない言葉ね。」
でも、なんとなく嫌な予感がした。開いた。
(やっぱり、これも読める)
レンはハッとした。
「他者の魔力を強制的に奪い取る術式ーー!?使用者は奪った魔力を自分のものにできる。被害者は魔力を失い、やがて——」
(——死ぬ)
声に出せなかった。
封印書庫の中に佇むレンの胸に、その言葉が落ちた。
レンは文書を、微かに震えていた手で閉じた。
(誰かがこれを使ったら‥)
棚に戻そうとした。でも、手が止まった。
アルヴァのリストにはない。持ち帰る必要はない。
でも。
(知っておかなきゃいけない気がする)
気づいたら、禁止歌集と一緒に鞄に入っていた。
「‥‥持ち帰りは厳禁だけどな」
誰もいない書庫の中で、小さく呟いた。
翌朝、文献室に入ると、仕事が山積みだった。
昨夜家でアルヴァのリストを書き写した。資料をまとめながら、頭の片隅で禁止歌集のことを考えていた。
封印書庫の鍵を司書長に返し、返却届に記入しているとき、廊下が次第に騒がしくなった。
「聞いた?昨日、どこかの貴族が——」
「魔力が、根こそぎ——」
「——死んだって」
レンはペンを止めた。
廊下の声はすぐに遠ざかって、聞き取れなくなった。
(まさか)
鞄の中に入っていた収奪術の禁書が、急に重く感じた。
仕事に追われながら作業をしていると、アルヴァが文献室に来た。
昨日と同じ黒い騎士服。でも昨日と違って、飄々とした笑顔がなかった。
「書き写しは終わったか」
「はい。これで全部です」
レンは束ねた紙を渡した。アルヴァは受け取って、ざっと確認した。
「うん、助かったよ。」
「あの」
レンは言うべきことを言うか迷っていた。その様子に気付いたアルヴァは率直に聞く。
「‥どうした?」
「今日、廊下で聞こえたんですけど——魔力が、根こそぎ奪われて死んだ人がいると」
アルヴァの金色の目が、細く鋭くなった。
「どこで聞いた」
「廊下で。詳しくは聞き取れなかったんですけど」
アルヴァはしばらく黙っていた。窓の外を見た。夕暮れが、王都の屋根を橙色に染めていた。
「——君に言うべきかわからないが」
低い声だった。
「呪いの類だと思っていたが、原因がわからないんだ。もう一件、同じような死が昨日あった」
レンはごくっと息を呑む。
「魔力をほとんど持たない状態で、死んでいた」
レンの胸に、嫌な感触が広がった。
(収奪術)
鞄の中の禁書の重さを、また感じた。
言うべきか。言うべきじゃないか。
「——アルヴァ副団長」
「なんだ」
「封印書庫で、リスト以外の文書を見てしまいました」
アルヴァがレンを見た。レンは震えている。
「収奪術、というものの記録です。他者の魔力を奪い、死に至らしめる術式——」
「それは」
アルヴァが、一歩近づいた。長い指が、レンの頬に触れる。
「今、どこにある?」
「……手元に、あります」
「持ってきたのか」
「‥はい。思わず‥」
アルヴァはしばらくレンを見ていた。責める目じゃなかった。何か、考えている目だった。レンの頬に触れた手は温かく、そのまま金色の瞳に吸い込まれそうになった。
「見せてくれる?」
ハッとして手を払いのけ、レンは鞄から禁書を取り出した。外に持ち出す罪悪感から、「魔力ナシカバー」をかけている。これはレンのお得意のカバーで、大概は魔力が無しになるのだ。アルヴァが受け取る。
ページをめくった。古代語だから読めないはずだが、術式の図だけは確認できるらしく、目が止まった。
「——これは」
「心当たりがありますか?」
アルヴァは答えなかった。
でも、その横顔が、昨日とは全然違った。飄々とした表情ではなく、何か固い意思のようなものが見えた。
「もう一冊、持ち帰ってしまったものがあって」
「なんだ?」
「禁止歌集、というものです。リストにはなかったんですけど、ウェナ・ライトという言葉が入っていて、気になってしまって」
アルヴァがレンを見た。
「ウェナ・ライト。それは」
「はい。わたしが毎朝読んでいる詩と、同じ言葉なんです」
アルヴァは少し黙った。
「——その詩を、今読めるかい?」
「え?」
「レリーズヨセル。今、読んでくれ」
突然だった。やっぱり昨日とは打って変わって、真剣な目だった。
レンは少し戸惑ってから、詩集を取り出した。
オレンジの瞳が揺れながら、擦り切れた本に視線を落とす。
「レリーズヨセル、ウェナ・ライト、ソレイユ・カナン——」
読み始めた瞬間、アルヴァの肩から力が抜けたようだ。目が、かすかに閉じた。
何かが、緩んでいくような。金色の目が揺れる。
詩が終わった。
アルヴァはしばらく動かなかった。
「これを聞くと、なぜか楽になるな」
レンはアルヴァを見た。
騎士団一の魔力量を持つ男が、根暗メガネの司書の詩を聴いて、楽になると言っている。
意味がわからなかった。
部屋に、静寂があった。
「——ありがとう」
初めて言った言葉だった。昨日の「変わった女だな」より、ずっと、人間らしい声だと思った。
アルヴァは禁書を抱えて立ち上がった。
「この文書は預かる。禁止歌集も、後で見せてくれ」
「あ、はい」
「それと」
扉に向かいながら、振り返らずに言った。
「持ち帰りは今後厳禁だぞ、司書」
「……はい。申し訳ありません。以後、気をつけます」
扉が閉まった。
レンはしばらく、閉まった扉を見ていた。
(楽になる、か)
意味はわからない。
でも、あの目は——本物だった。
いつも飄々としたアルヴァが、初めて仮面を外した瞬間を見た気がした。
窓の外はもう夕焼けでオレンジに染まっていた。
カラスは、今日は来なかった。




