解放の歌
「レン・イグニス、お前との婚約を破棄する」
(よっしゃ――――!!!!)
レンは心の中で盛大にガッツポーズをした。
顔には出さなかった。十七年間で培った、感情を表に出さない技術がここで光った。
「ザイン様……そうですか」
「ふん‥怒らないのか」
「まぁ。私には怒る理由がありません」
婚約者――ザイン・アッシュフォードは、どこか拍子抜けしたような顔をした。隣に座った女が、品定めするような目でレンを見ている。
赤みがかった金髪。滑らかな肌。魔力の高い者特有の、微かに光を帯びた雰囲気。美しかった。
ただ、レンを見据える瞳だけが笑っていなかった。
「イリス、これでやっと君と添い遂げられる」
ザインはイリスの真っ白い手をギュッと握る。
「ザイン様‥これが真実の愛ですもの」
イリスは涙ぐんでいるようだ。
一瞬だけ視線が合った。イリスはコロコロと表情が変わる。今度は意地悪そうに嘲笑しながら言った。
「イグニス様。あなたの物分かりの良さに感謝いたしますわ」
レンは笑い出したいのをグッと堪えて、穏やかに言った。
「ご縁がなかったということで。では、お幸せに」
立ち上がって、一礼した。それだけだった。
屋敷の廊下を歩きながら、レンはもう一度心の中で叫んだ。
(自由だ――――!!!!)
____
「こんな朝から呼びつけといて頭に来たけど、なんて清々しい朝かしら。あぁ、私は本当に‥自由なんだわ」
王都国立図書館まで、徒歩で二十分。
レンはいつも通りの道を歩いた。空が青かった。風が気持ちよかった。婚約破棄された朝とは思えないほど、足取りが軽かった。
正門をくぐると、受付カウンターの同僚たちの視線がちらりと向いた。
「うわ。今日も来たよ、コネ採用」
「魔力ゼロなのによく続けてられるよな」
聞こえているとわかっていて言っている。レンは足を止めなかった。
(どうとでも言ってもらって結構)
受付カウンターを過ぎて書庫整理の部屋を通り抜ける。作業室へ続く廊下に入る前には、婚約破棄の噂が広まっていることに気付いた。何がなんでも早過ぎないか?
「聞いた?第六王子と婚約破棄したって!」
「うわ、惨めすぎる‥」
「あんな根暗ブスだもん‥今までされなかったのが奇跡よ」
「婚約解消された日によく出社できるわね。わたしだったら耐えられないわ」
一瞥もくれず、レンは姿勢を正してコツコツと小気味良い音で歩いていく。
淡い色の癖毛は結んでも年中ボワボワだし、体型もこれといって別に、魅力的ではないこともわかっている。明るいオレンジ色の瞳は真っ直ぐに廊下の端を見た。唇だけ微かに動いた。
「噂って早いわねえ。別に私が冴えないのは今に始まったことじゃないし。ちゃんと身分相応に慎ましく暮らしてるし」
お気に入りのメガネをかけ直しながら歩く。
廊下の突き当たり、一番奥の扉。「古代語文献室」という小さな札がかかっている。この札を誰かが見に来ることは、ほとんどない。
扉を開けた。
天井まで届く本棚。積み上げられた古い文献。インクと羊皮紙の匂い。
レンは深く息を吸った。
(ただいま〜)
窓の外に、黒いカラスがいた。
丸々とした体に、ちょこんと潰れた嘴。金色の目がきゅるりと動いて、レンを見た。
「おはよう」
声をかけると、カラスが首を傾けた。
電気をつけ、コーヒーの湯を沸かす。レンは椅子を引いて、薄い詩集を開いた。毎朝の習慣だった。
表紙が擦り切れるほど読んだ、古代語の詩集。
「レリーズヨセル、ウェナ・ハルト、ソレイユ・カナン――」
古代語で綴られた短い詩。解放の意味を持つ言葉たちが、静かな部屋に溶けていく。
カラスが、羽を畳んだ。
いつもそうだ。この詩を読んでいる時だけ、カラスはじっとしている。金色の目が細くなって、ただそこにいる。
「今朝ね、婚約解消されたの」
詩を読み終えてから、レンはカラスに話しかけた。
カラスは首を傾けた。
「でもね。‥よかった!本当に」
レンは詩集を胸に抱えた。
「この詩を読んでいる時が一番幸せ。あなたがいるこの時間が、私の満ち足りた一日の始まりよ」
カラスの金色の目が、まっすぐレンを見ていた。
何も言わない。当たり前だ。でもその目が、いつも答えてくれている気がした。
にっこりと笑ってその目を見返す。
「今日から私はニューなのよ、新しい人生の一歩なの」
「さぁて!仕事に取り掛かりますか」
作業台に腰を下ろす。
名門イグニス家は炎の加護を授けられ、この国随一の魔術貴族だ。四女として生を受けたレンは、魔力ゼロで生まれた。そのせいで家から見放され、最後の慈悲としてコネで入った職場で疎まれている。
婚約者には都合よく使われて、今日捨てられた。
それでも。
幼少期、今は亡き祖母が見かねて、レンに古代語の本をくれた。そのおかげで今、古い言葉が読める。大好きな本がある。友達のカラスがいる。
それだけで、レンの一日は満ち足りていた。
作業に没頭しながらお昼に差し掛かるだろう時に、コンコン、と扉が鳴った。
(来客?珍しい)
この部屋に来る人間など、ほとんどいない。レンは首を傾けながら立ち上がった。
「はい、どうぞ」
扉が開いた。
男が立っていた。
レンははじめに、黒い騎士服が目に入った。腰には兼帯した剣。肩に金の階級章。涼やかな漆黒の髪が無造作に分けられ、また目元にかかっている。長身で、しっかりとした体躯。どこか飄々とした雰囲気があった。
そして、灰がかった金色の瞳。
(あ)
レンは固まった。
見たことがある顔だった。
兄の執務室で、何度か見かけたことがある。
いつも笑っていて、いつもどこか掴みどころがなくて、部下たちに妙に慕われている男。女の取り巻きがいつもいる、巷で人気の男。
魔術騎士団副団長アルヴァ=フロイデンタールだった。
(げっ)
レンは顔に出やすいタイプだが、男は爽やかな笑顔で言った。
「やあ」飄々としていた。
「ここが古代語文献室?ふーん。室内は思ったより小さいな」
狭い部屋を見渡してから、レンに視線を戻した。
「いつもお兄様にはお世話になっております」
胸に手を当てて男が形式的な挨拶をする。
にっこりと調子のいい笑顔が張り付いている。
「……はぁ。特に兄とは仲良くもないので‥」
お世話になっているかどうかも知らない。でもこの階級章を持つ男に「はぁ」は流石にやり過ぎたかもしれない。レンは反省する前に、ギョッとした。
アルヴァは部屋にもう一歩入ってきたからだ。本棚を一瞥してから、レンの前に折り畳んだ紙を出した。
「依頼があるんだ」
「……依頼、ですか」
「この図書館の封印書庫に、古代語で書かれた文書がある。読めるのは君だけだと聞いた」
アルヴァは紙を広げて見せた。文書のリストだった。確かに古代語の題名が並んでいる。
「ど、どれも、聞いたことのない文書です」
「呪いに関する記述があれば、全て書き写してほしい。もちろん、報酬は出すよ」
「…あの、なぜ副団長がわたしに直接?」
「んー。信用できる人間が少ないんだ」
肩を上げながらさらりと言った。
レンはリストを受け取り、もう一度見た。封印書庫。普段は厳重に鍵がかかっている場所だ。
「き、禁書なので、私の階級では入出も出来ません。特別司書長の許可を取らないと‥」
「もう取ってあるよ」
「悪いけど、急いでる。明日までに出来るかな?」
アルヴァは微笑んでいるが、有無を言わさない顔をしていた。金色の目がレンを見据える。
「はい、承知しました。」(断る選択肢ないじゃない)
アルヴァは頷いて、満足して踵を返す。
その瞬間、足が止まった。レンに振り返る。
「あ、そういえば。婚約破棄、おめでとう」
「‥‥。」
長い沈黙があった。
「あ、ありがとうございます‥?」
レンは苦笑いしながら思った。
(何この人‥)
アルヴァはレンの後ろの窓を見ていた。
「……カラスがよく来る、みたいだね?」
「あ、毎日来ます。友達なんです」
「へえ、友達」アルヴァは小さく繰り返した。何か言いかけて、やめた。
「変わった人だね」
それだけ言って、出て行った。
扉が閉まった。
「なっ‥」
(この、この、パーティ大好き破廉恥男め‥!!)
レンは扉を睨め付けた。
アルヴァの噂は派手だ。毎日どこかのパーティー会場にいるとか、愛人が常に何人も侍らせてるとか。
「(あんな奴に)私の気持ちがわかってたまるもんですか」
婚約破棄をされた時よりも血圧が上がった。




