朝倉君の恋
中学二年の文化祭。そこで見た彼女の振る舞いが、俺の中に今まで感じたことのなかった感情を生んだ。長らくそれをどうしたらいいのか、どうなりたいのか。見当がつかなかった。
当時、俺は書道部に入っていた。文化祭の出し物の中で書道部の展示なんて、全く人気がなかった。展示を行なっていた教室は閑散としたもので、申し訳程度に、入り口に部員が一人座っているだけ。
俺が交代で受け付けに入った時、彼女は部屋の中で一人、展示を見て回っているところだった。直ぐに、書道教室で時々見かける子だ、ということには気付いた。別の中学の展示まで見に来るとは熱心だな、と思った。
ゆっくりと歩みを進めて彼女は、俺の書いた字の前で足を止めた。
その字は県の学生競書展で優秀賞をもらったものだったが、彼女ほどしげしげと見てくれる人はいなかった。
俺の字を空中で指を動かしてなぞりながら、時折うなずいたり、首を傾げたりと、その一枚を俺にも理解できないような方法で堪能した最後、微かに口の端をあげて、其れとは分からないくらいの微笑をこぼした。
その砂糖の粒のような笑みに、心臓がぎゅっと掴まれる。かわいい、と思った自分の顔が赤くなっていくのが分かり、思わず床に顔を向けた。
早くこのほてりが覚めますように、と祈っている間に、コツコツと軽い靴音をさせて彼女は退室してしまった。ばっと顔をあげると、彼女の細い背中が廊下の向こうに消えていくところだった。彼女は自分がいたことには気づかなかったのだろうか、全く気にするそぶりも見せなかった。
俺の心の中には、彼女の笑顔だけが残って、いつまで経っても消えなかった。
それから、書道教室でしか接点のない彼女のことが気にかかり始めた。
あんなに自分の字を見てくれていた彼女なのに、教室では全く目が合わないことがもどかしかった。書道教室で盗み見た彼女が、壁に貼られた俺の字を熱心に見ていたのは、一度や二度の事ではなかった。もしかして俺自身には興味がないのか。行きついた仮説に愕然としたことは、よく覚えている。
とにかく、彼女に関する情報を集めなければ。そう思い、彼女と同じ小学校出身の友達に彼女のことを聞いてみたりした。
そうして、彼女について分かったのは、ものすごく頭がいい人だということと、志望校は公立の山階高校だということ。それはこの地区における公立校で、三番手くらいの高校。
意外だった。
彼女だったらトップ校にも余裕で受かるだろうにと思ったが、どうやら家から近いという理由でそこを選んだらしい。
彼女のその選択と、まだ中学二年というこのタイミングの良さの両方に俺は感謝した。なぜなら、頑張れば届かないこともない高校だったからだ。それから書道漬けだった生活を変えて、勉強にも力を入れた。
その結果、中学三年の夏には山階高校の合格圏内に入った。中学生活最後の学生競書展では最優秀賞に選ばれ、書道漬けだからと言っていい結果が残せるわけではないのも分かった。
そして秋。迎えた文化祭では、去年のように彼女が来るのではないかと思って、当番以外の時も受付に居座った。先生や他の部員たちは、俺が賞を取った作品が展示されているので、その反応が気になってずっと受付にいると勘違いしていたが、好都合だった。
今年も彼女は同じくらいの時間にやってきて、受付でさらさらっと流れるような筆遣いで名前を書く。
『水上朝子』
彼女の雰囲気を表しているような、流水のような筆跡だった。
彼女が文字を書く間だけ、彼女との実空間が近くなって、自分の鼓動がやけに耳に響く。隣に誰もいない時間でよかった。うるさい音を抱えたまま、俺は胸をなでおろした。
彼女の肩まである少し癖っ気の髪の毛が、ふわっと風に流されるのに手を伸ばしたくなって、そんな自分の気持ちに赤面した。俺が一人悶えている間に、彼女は教室の端から端まで作品をゆっくりと見た。そして、一番最後に再度、俺の書いた字の前に立ち、去年と同じ様子でじっくりと見ていた。
俺の字のどこがそんなにいいのか。いや、自信作ではあるし、評価としても最優秀賞をもらったものではあるのだけれど。
彼女には俺の字を通して、何か別のものが見えているのではないかと勘ぐりたくなるほど、真剣な様子だった。ひとしきり俺の作品を堪能したのだろう。彼女は今年も俺に目をくれることもなく、にこにこしながら帰ってしまった。
やはり、自分がいることには全く気付いていないのか。いや、書道教室で一緒の時間もある。しかも中学三年生という、普通なら塾通いをしているのが普通なのに、書道に熱中している仲だ。いや、同志といってもいい。そんな俺を、少しくらい意識してくれていてもいいんじゃないか。
その日からしばらく、俺は彼女が自分のことを認識してくれているのかどうか、ということを悶々と考え続けた。
彼女の情報は、友人つながりで継続してもたらされていた。今現在、彼女に彼氏がいないと知って、同じ高校に入れば、何か進展があるかもしれない。
俺は、ようやく合格圏内に入ったばかりの自分の学力を、どうにかすることに専念した。余裕で合格するであろう彼女と、ぎりぎり引っかかったくらいの自分は、比べるべくもないのだから。
動機は不純だったものの、この受験勉強は自分に大きな変化をもたらしてくれた。
もともと書道以外に打ち込んだことはなかったが、進学校と呼べる高校を目指したことで自分の進路の選択肢に幅が広がったのだ。
無理して進学校に行かずとも書道の先生にはなれるしと、将来を深くは考えていなかったが、在学生のほとんどの進路選択が大学である高校を選んだことで、大学の教育学部にも書道の先生になるルートがあると知った。それに、芸術系の学部や学科を目指すというのもありだし、これまでの考え方と同様に進学せずに書道に打ち込むか、師範を目指すというルートも考えられる。
自分の視野が広がったことを、自分以上に喜んでくれたのは両親だった。ここでようやく、心配されていたことも同時に知って、申し訳なく思ったが、それでも自分の道を縛ることなく見守っていてくれたのだと思うと、嬉しかった。彼女が知らず知らずのうちに俺に与えてくれたものは、価値の付けられないくらい大きなものだった。
そして、無事受験を終えて俺は山階高校に進学することになる。入学時に配られた名簿で、真っ先に彼女の名前がある事を確認した。多分学年で一位二位くらいの成績で受かったであろう彼女は、もちろん特進クラスに名前を連ねていた。対する自分は普通の進学クラス。それでも、今まで学校が違ったことを考えればクラスが違うことくらいなんでもないと思えた、その時までは。高校最初の一年間で俺はクラスが違うことの残酷さを痛感することとなった。
中学までのように考えていたけれど、高校の一学年は中学時代よりも多い。人数でいえば、中学の一学年は百五十人だったのに対し、高校はその倍の三百人を超えている。そして、特進クラスと普通のクラスの交流なんてほとんどないに等しいくらいだったのだ。
彼女のことは偶に廊下ですれ違う時に見かけるか、書道部の展示にやって来るのを見かけるか、書道教室で見かけるか。前よりも物理的に距離が近くなった分、想いが伝わらない精神的な距離感が俺にかなりのダメージを与えていた。
ただ、彼女の名前だけなら、模試で配られる冊子にその名前が載っていることがちらほらあったので、彼女の進学先もうかがい知ることができた。
彼女が希望していたのはその冊子に名前が載るほどの好成績者には珍しい、国立大学の芸術系の学部であった。それで、てっきり俺は、彼女も書の道に進むのだと思っていたのだが、それにしては芸術の選択は美術だし、部活を強要されない高校では帰宅部という、不思議な選択をしていると思っていた。
友達伝手に聞いた話では、塾にも特に通っておらず、習い事は相変わらずあの書道教室だけ。もしこれで、彼女が書道部の展示を見に来てくれたときに俺と目が合うことが何度もあれば、彼女は俺のことを好きなのではないかと思いこむこともできたのだろうけれど、彼女と目が合ったことなんて思い出せる限りで一度もなかった。
そして高校二年生になったある日、友人の一人である内山が俺にこういった。
佐々岡のやつ、水上さんに気があるらしいぞ、と。
佐々岡啓規、俺と同じ中学だったから名前はもちろん知っている。そして、水彼女と同じ特進クラスの奴だ。内山は俺が中学の時から彼女のことを好きだったのを知っていて、俺にいろいろと情報を仕入れてきてくれていた。
お前、うかうかしてたら水上さんのこと、遠くで見てるだけで終わるんじゃないか、と忠告してくれたのだ。とはいえ、どうしたらいいかなんて、分かるはずもない。分かっていたら、こんなに悩んでいない。
生まれてこの方、女子と付き合ったのなんて、中一の時に一度だけ。それも自分から告白したのではなく、相手に言われたのだし、お互い恋に恋をしているようなものだったから、彼女がその理想に俺がそぐわないと思った時に、あっさりと振られてしまった。
曰く、朝倉君ずっと書道の事ばかりで面白くない、と。
そんなこと言われても、俺にはこれしかない。切り出された別れは、受け入れるしかなかった。
その後、水上さんのことが気になりだしてからは、告白されることがあってもずっと断っている。彼女のことを片隅に押しやって、誰かと付き合うなんて器用なこと、俺にはできないから。
今回内山が俺に忠告してくれたことで、心の中に焦りが出たけれども、かといって打つ手がすぐに思いつくほど、俺は狡猾でもなかった。また悶々と過ごす日が続いていたとき。ゴールデンウィーク明けの書道教室で、またとないチャンスが訪れる。
いつものように教室の木枠と格子で出来た繊細な扉をスライドさせると、一六畳ほどの教室に彼女がいた。彼女は教室の壁に貼られている展覧会のポスターを熱心に見ていた。俺も行きたいと思っていた書展。彼女も行きたいのだろうか。
これは、俺に与えられた最初で最後のチャンスかもしれない、と思うと自然に足がそちらへ向かう。
俺の影がポスターと彼女に落ちて、彼女が俺の方に振り向く。
初めて彼女と目が合って何も考えられなくなった。それで彼女に話しかけた言葉は、「それ、興味があるの?」という色気も何もないもの。頭が真っ白になって、ドキドキと心臓の音だけが酷かったけれど、彼女はそんな俺に自然に返答した。
「うん、この字、なんだか朝倉君の字と似てるよね」
その言葉に、とてつもない喜びが束になって、俺に襲い掛かってきた。もう、喜びに包まれるとかそういう生易しい感じじゃない、猛烈な攻撃のような喜びだ。
物心ついたときから俺はなぜか、漢字の形にやけに興味を持つ子供だった。三歳くらいでは母親に振り仮名を振ってもらって、五言絶句や七言律詩などの漢詩を読んでいた。幼稚園に上がった時、誕生日に買ってもらった王羲之の書に一目ぼれし、それ以来ずっと、王羲之が好きで筆を握って彼の書を臨書していた。
つまるところ、俺と王羲之の付き合いはもう十年以上になる。
その変遷を知る両親は、俺の字が王羲之の書くものに似ているというけれど、他人に指摘されたことはなかった。この時の彼女が、初めて。しかも、俺に興味がないと思っていた彼女は、俺の名前もちゃんと知っていた。
この感情を理解してもらえるだろうか。もう、その喜びに殴られて、起き上がれなくてもいいとさえ思えるくらい。
俺の胸中なんて知った風もない彼女は、その一言をのこしてすぐにポスターに視線を戻した。彼女は、俺の字を見るときと同じような感じで、王羲之の書を一つ一つ追っていた。これほど王羲之が好きなら、それに似せて書いている俺の字を、一生懸命見てくれていたというのも理解できる。
そして俺は、何事もない風を装って彼女に、俺の字、知ってたんだねと聞くと、彼女の口からは、みんな知ってるんじゃないの、という頓珍漢な答えが返ってきた。
いやいや、普通の高校生が、他人の字が誰かの字に似ているね、などという感想を抱くレベルで知っているはずもない。彼女が異常なんだ。
俺が驚いていると、彼女はまた俺に興味を失ったようで、ポスターに視線を戻す。その様子が「もう、話しかけないで」と言われているようで、喜びから一転絶望の谷へと突き落とされそうになったけれど、俺は何とか崖っぷちで立ち止まった。
もうチャンスは今しかない。ここで言わなければ一生後悔するぞ、行け朝倉亮太!
自分を叱咤し、なんとか彼女を書展に誘う文言を口から吐き出すことができた。一旦は渋る彼女に何とか
「じゃあ、行こうかな」
そう言わせることができた。彼女の気が変わらないうちにと、先生の座る長机へ一緒に行く。
「先生、あの書展に行きたいので、割引券二枚ください」
「え、朝倉君だけじゃなくて、水上さんも行くの?」
先生に振り向かれた彼女は、はい、と答えた。
俺は先生を証人にした気になって、胸中で何度もガッツポーズをした。そのあと、何食わぬ顔で彼女と連絡先を交換し、書展に行く約束を取り付ける。
舞い上がったせいで、待ち合わせ場所を書展の会場にしてしまったことだけは後悔しそうになった。しかし、ここから電車を乗り継いで一時間以上かかるそこまで、彼女と一緒に行くことになったら。それはそれで緊張でおかしなことをするかもしれない。
とにかく、デートの約束はしたんだ、彼女はそう思っていないかもしれないが。後は当日どうにかして、彼女に告白する。当たって砕けた後のことなど、構っていられるか。
俺は、ポジティブとネガティブが混ざり合った状態で、何度も何度も、当日の挙動をシミュレーションして過ごした。
そして約束の日。
彼女より早く着くであろう時間に家を出て、俺は書展会場前で彼女を待った。それは、競書の結果を知る時よりも緊張する時間だった。
書展の開場時間より三十分も前から、そわそわしながら待っていると、待ち合わせの五分前に彼女がやってきた。
白いブラウスに紺色のカーディガン、そしてふわっとした紺色のスカート、ハイソックスは黒色で学校指定の靴を履いていた。
あまり飾り気のないその姿が、とても可愛かった。
癖毛は気にしていないのか、肩までの長さで、少しはねていた。
おはよう、と彼女は気負った様子もなく、ただただ自然に俺の前で、彼女の丁度いいと思う距離をとって立ち止まった。
学校や書道教室という慣れた場所から離れても、彼女は彼女のまま。きっと俺は、書展に一緒に行く人、という認識しかされてないだろう。俺は、浮ついたり沈んだりを繰り返す、せわしない気持ちを何とか収まらせて、彼女と一緒に入口へ向かった。彼女はすっとカバンから割引券を出し、用意しておいたかのような六百円を、あまりにスムーズな動作で出していた。対して俺は、千円札と割引券。俺がお釣りを受け取っている間、彼女は少し体をそらして、書展の入り口をぼんやりと見つめて静かに立っていた。
書展の入り口には王羲之の書と説明が展示されていた。王羲之の説明については、俺はざっと目を通したが、知っていることばかりだったので、作品の方へ行こうと彼女の方を向いた。しかし彼女は、その説明をじーっと読んだ後
「へえ、真跡って残ってないんだね」
と言った。
そのあまりに自然な物言いに、俺は一瞬思考が止まった。そして、え、知らなかったの、と思わず聞いてしまった。彼女は別に気を害した風でもなく、だってそういうところには興味がなかったんだもの、と可愛らしく首をかしげて、何か問題でも、という風に言った。
じゃあ、あの一生懸命ポスターを眺めていたのは、何だったんだ。あの文字への向き合い方は、どう見たって王羲之のファンにしか見えなかったんだが。
そう思っていると、彼女は作品の方へと歩みを進めていく。俺は慌てて、その小さくも悠然とした背中を追いかけた。
彼女に王羲之のことを少し話してみれば、彼女はどの話のことも知らなかったようで、俺の話に耳を傾けてくれた。他人に、こんなに王羲之の話をしたのは初めてだった。
彼女は特に、王羲之の書が失われた経緯について興味を持ったらしい。唐の二代目の皇帝太宗が自分の墓に、あの有名な王羲之の『蘭亭序』を収めさせたという逸話があり、その話の時には彼女の目は輝いていた。そして、いいなぁとぽつりといった。
それに関しては俺も同感だ。自分の死に際してはぜひ、真筆ではなくとも、王羲之の書と友に墓に入りたい。
そうして彼女と二時間くらい書展をまわった。彼女は最後の博物館のショップで結局図録ではなく王羲之の『集字聖教序』を購入していた。書くのではなく見て楽しむらしい。本当に王羲之の書が好きみたいだ。ふと、俺の字を見る彼女を思い出した。ああやってこの本も楽しむのかと考えると、心がちくりと痛んだ。
書展を出れば、昼にさしかかっていた。腕時計に目を落としてから、昼食を一緒にどうかと誘うと、彼女はその提案に乗ってくれた。どこかのお店に入ろうと言われれば、かなり緊張するのだろうけれど、彼女は近くの公園がいいな、と言った。こちらのことを考えてというよりは、彼女もその方が気安かったのだろう。そういう何でもない共通点がうれしかった。
池の辺りのベンチに、並んで座った俺たちの間には、ほんの少しの隙間があった。その隙間が、彼女にそれ以上の接近を許されていないようで、気持ちがしぼんでいく。
彼女はサンドイッチのビニルを破いて、一旦それをひざに置いて手を合わせていた。それを横目に見て、また少し彼女のことを知ることができたようで。心はまた少し膨らんだ。
さて、菓子パンに勢いよくかじりついたものの、味がするわけがない。これからの計画を反芻たことで緊張が高まり、俺は咀嚼して飲み込むということを機械的に行っていた。
俺が考えついた計画なんてなんて、まず、彼女の名前を呼ぶ。その後、付き合ってくださいの「つ」さえ言えれば、あとは勝手に続きが口から出てくるだろう、というなんともお粗末なものだった。
大丈夫だ、この間だってポスターを見ていた彼女を、ここに誘えたじゃないか。
まずは「彼女の名前を呼ぶ」というミッション。何度も、喉の奥までせりあがる水上さんの「み」の音。これを発音すべく、奮闘する。声が通ってくる道が熱くなり、ようやく彼女の名前を、口から出すことができた。
彼女が俺の呼びかけに、こちらを振り向く。パンを咀嚼する口元が可愛すぎて、思わず唾を飲み込んだ。
そしてその後、俺が言ったのは
「水上さんって、進学するの?」
ちょっと待て、俺。そうじゃないだろう。その情報も知りたいけど、今はそれどころじゃないんだって。
漸く名前を呼べたというのに、思ってすらなかったことを口走って、愕然とした。
彼女はそんな俺の胸中も知らないで、すらすらと受け答えしていく。俺は失態で頭が真っ白になってしまったが、彼女の様子を見ていると無難な受け答えができてはいたようだ。呆然としてごみを片付けていると、まだ食事途中だった彼女は、慌てたようにサンドイッチを口に入れ始めた。
いそがなくていいよ、と言えば彼女は一瞬止まったけれど、その動きを再開させたときには、やはり慌てた速さのままだった。
俺はどうやって挽回しよう、と考えながら立っていた。
ぼんやりとした視界には、片付けをする彼女が映っている。
ふと、彼女が口元を手の甲で拭った。何をしているのかと思えば、口元に何かついているから俺が彼女のことを見ていると思ったらしい。
そうじゃない、というと彼女と俺の間になんとも微妙な間がながれた。それを壊すようにしゃべったのは彼女で。家の最寄り駅までは一緒に帰ることになり、まだチャンスはつながったようだ。
俺は気持ちを切り替えるべく、息をついた。
電車の中では告白できるだろうか、いや人がいたら無理だろう、と考えている俺の隣で、彼女はいつの間にか眠ってしまったらしく、うつらうつらとしていた。電車の停車と共にこちらに体が倒れてきた。俺は肩より下に当たった彼女の頭に鼓動が痛いほど早く動くのを感じた。
そしてそれはあまりにも幸せな時間だった。
電車の中はさっきの駅を過ぎてからはかなり空いている。
少しくらい髪の毛を触ってもいいだろうか、いや、そんなことをしていて変態扱いされて嫌われるのも嫌だ。
そんな葛藤をしているうちに、駅が近づいてくる。流石に起こさないといけない。憂鬱な気分になりつつも、彼女の肩を軽くゆすって起こしてあげた。
寝起きの彼女は、寝ていたことに気付いていなかったようで、眼を何度か瞬きさせていた。
結局電車の中でもきっかけがつかめず、一緒に改札を出たときには、もう俺に残されたチャンスは彼女の家と俺の家の道の分岐点まで。
高校への道を進みながら、何度もこの一週間でシミュレーションしたことを頭の中で繰り返し、大きく息を一つ。
「水上さん」
少し前を行く彼女を呼び止める。彼女がこちらを振り返ったので、もう一度彼女を呼ぶ。
「ねえ、水上さん」
「なに?」
「俺と付き合って」
そう、ようやく言えた。俺の声は少し硬くて震えていたが、きっと彼女には聞こえているはず。
彼女は少し考えた後に、いいよ、と短く言った。俺は思わず息をのんだ、告白を了承してもらえたのだと思って。でもその後、彼女はあろうことか、どこに行くの、と俺に聞いた。
その時の俺の気持ちがわかるだろうか。この世に神はないのかとすら思った。こんなことってあるのか、とその場に崩れ落ちたかった。
目の前の彼女は首をかしげている。
まさか、天然キャラだったなんて。
俺はやっとのことで、水上さんの行きたいところ、という謎の返答を口から絞り出した。
彼女に思いを伝えるどころか、当たって砕けるよりも酷い結果を突きつけられた俺は、彼女を連れてなぜか自分の家へ向かっていた。
こんなことになったのは、彼女が俺の書を見たいと言ったから。告白が失敗したことによる幻聴なのかと、何度も頭の中で確認したが、どうやら現実のようだった。
それで、俺は友達すら来たことのない自分の家に、友達を飛び越えた女の子を連れて行くかどうかということを、数学の問題を解くよりも素早く、且つ丁寧に思考した。
俺の部屋には、学校の部室や書道教室なんかよりもたくさん自分の書があるし、しかも、幸か不幸か学校も教室も今日は休みだ。
ただ、気持ち悪くないだろうか、今日初めて一緒にいたような、ほとんど接点もないような男に、じゃあうちに、とか言われて彼女は引かないだろうか。
そんな、誘うか誘うまいかということを悩むこと数秒。一世一代の告白が彼女の前に、一瞬にして無に帰してしまったのだから、誘ってみて断られることくらい、先ほどのダメージに比べれば塵のようなものだろうと、結論を出した。
そして、悩んだのが馬鹿になるほど彼女はすんなり首肯する。
後は、今日は家にいるはずの母がなんと言うか、だ。
自分の母の性格を鑑みれば、駄目とは言わない。むしろ喜々として、連れておいでというのが目に見えている。
一瞬、女の子を連れて行くと連絡しようかと思ったけれど、変な勘違いをされそうなので、友達を連れて行く、と伝えた。彼女に確認してはいないけど、きっと友達くらいではいてくれるだろう。
家の門の前について、俺は慣れた家の入り口を、今までになく緊張した心地で通り抜けた。躊躇すれば何か、自分が変なことをやらかすんじゃないかと心配して。彼女が後ろからついてくる気配を敏感に感じながら、俺は玄関のドアをスライドさせた。
俺が母に彼女のことを伝えている間、彼女は玄関の敷居を跨ごうとはせず、外側で待っていた。そして、彼女は玄関で靴を脱ぐ。母と彼女のやり取りを聞きながら、母の嬉しそうな声に俺は内心ため息をついた。
自分の部屋には、教科書と書道関係のものしかなくて、そんなところを彼女が面白いと思ってくれるのだろうか。朝、起き掛けに少し臨書をしていたので、部屋はお世辞にも、綺麗と言える状態にはなっていない。
部屋のふすまを開けて中に入り、彼女に廊下で待っていてもらい、その間に書を手早くまとめる。
朝書いていたものはもう乾いていて、半紙についた墨は、半紙が柔らかくなびこうとするのを阻害して、手の中でカサカサとやかましく音を立てている。彼女に見られているのかと思うと、いつもやっている当たり前の動作が、彼女にどう映っているのかが気になって、右手と右足を一緒に出しそうになるくらい、何をやってもぎこちなく感じた。
最後に硯や文鎮を、自分の勉強机の上に移して振り向くと、彼女はじーっとさっき俺がまとめた新聞紙と半紙の束を見つめていた。
そんなに見たいのだろうか。若干彼女の視線が気になったが、俺の思い過ごしかもしれないと思うことにした。
布団の上に積んであった、この部屋唯一の座布団を彼女に出す。と言っても、友達が誰も来たことのないこの部屋なので、いつもは自分が寝るときに枕代わりにしているものだ。未だ継続している緊張を持て余しながら、俺は彼女の向かい側に位置する場所に座った。
そこにタイミングを見計らったように、母がお茶を出してくれる。実際にタイミングを見計られていたのだろう。
何だか母が嬉しそうな顔で彼女と言葉を交わすのを視界の端に入れてしまって、今更ながら友達、それも異性の友達を連れてくるという状況を作ってしまったことが恥ずかしくなってきた。
既に水滴を付けはじめているグラスの側面の水の粒を、俺は意味もなくカウントすることにした。
母が退室して階段の軋みが聞こえなくなると、自分の中で詰めていた空気が緩み、思わず息をついてしまう。それが彼女に誤解を与えてしまったようで、俺は慌てて否定した。
気まずくなった雰囲気を何とかすべく、俺は彼女に見せるための書を見繕うことにした。
最近家ではずっと、王羲之の『集字聖教序』の臨書をやっているので、その中に入っている字が多い。大きい作品のほとんどは学校の部活で製作するもので、家で書くのはもっぱら王羲之の臨書か、書道教室での課題。最近は教室の課題も王羲之の臨書になってきたので、いまめくっている新聞紙の間に入っているものは全てそれを模したもの。
その中で、今度先生に見てもらおうと思っている字が入った新聞紙を、彼女の方に手渡す。
彼女は俺から受け取ったものを両手で柔らかくもって、暫し机の上を見ていたが、そこに有る麦茶が気にかかったのだろう。
座布団の位置を移動させて、畳の上で新聞紙を繰ることにしたらしい。同じく書道を長くやっている者同士、そういう細かい気遣いがうれしかった。
彼女はしばらく、新聞の表紙をただじっと見ていたが、おもむろに一番上の一枚をそっとめくった。パリッと軽い音を立てて、新聞が繰られた。彼女はそこに有る半紙を、微動だにせず見つめている。そして、中指と薬指の二本をゆっくりと、筆の動きに沿ってなぞらせはじめた。
俺が話しかける隙を作ることもなく、彼女はその新聞紙に挟まれた何枚もの書を堪能した後、床から顔をあげてふっと瞼を閉じ、震える吐息を吐き出した。その唇の動きが艶めかしくて、俺は思わず息をのんだ。
それからも、彼女は俺の方に話しかけることなく、ただひたすらに書を見ていた。
王羲之の字が好きなのだと思っていたが、それだけではなく模写したものも好きなのか。彼女の王羲之好きは俺の度合いを超えている。俺は彼の字を好んで臨書するけれど、彼女は見るだけでそれはそれは幸せそうなのだ。
王羲之に嫉妬を覚えつつ、かといって彼女の邪魔もできるわけもなく。手持ち無沙汰になった俺は、自分の存在を殺して、ちびちびと麦茶を飲んでいた。
そうしていると、急に彼女がこちらへ顔を向ける。
「ねえ、朝倉君が昔書いたものって残ってないの?」
「いつの?」
「小学校四年生の時に、朝倉君、小学校の合同文化祭で金賞取ったの覚えてる? あれがもしあるのなら、もう一回見たい」
一瞬彼女が何を言っているのか分からなかった。
小学四年生の時の、合同文化祭の時の字。それを「もう一回見たい」と言ったか。つまり、そんな昔のことが記憶に残っているということ。彼女にそれを確認すると、覚えているという。
驚いて不躾に彼女を見てしまったが、彼女はいつもの様子でこちらを見つめ返している。あるのかないのか、ということを問うてくる視線。
俺は立ち上がり、押入れの扉を開けた。ここに、今までの作品で自分が残しておこうと思ったものが入っている。小学生の時に書いたものを見返すことはほとんどないので、押入れの奥の方に入れてあったはずだ。そこにあったプラスチックケースを一つ取り出して、畳の上に置き、慎重に蓋を取った。
俺もこのケースの中身を見るのは久しぶりだ。
蓋を開けると防虫剤のにおいが鼻についた。一枚一枚めくっていくと、確かに昔書いた記憶がある懐かしい字たちがその中で変わらぬ姿のまま眠っていた。そして、その最下層のあたりに目的のものがあった。
「ああ、これだ」
俺は彼女の前に、その紙を出す。彼女は先ほどまでと同じように、それをまじまじと見つめた後、
「触ってもいい?」
と聞いた。
俺が頷くと、彼女はまた中指と薬指の二本を使って、その線をなぞりはじめた。今見ると、稚拙な俺の字。でも、彼女は違う感想を抱いたようだ。
「あの時は気づかなかったけど、ここ、あなたが息継ぎしたところだ」
そういって、文字の一点を指さした。そして、初めて彼女の強い意志をもって、俺と視線を合わせてきた。俺がその強いまなざしに怯んだすきに、彼女はまたその書に目を落として、愛おしそうに一画一画を指でなぞり続けた。彼女が稚い存在を慈しむように、恋人と愛をはぐくむように。
彼女を家の近くまで送り届けてから、俺は家に戻ってきた。
ただいま、とボソッと口に出して玄関で靴を脱いでいると母がおかえり、と顔を出した。
「ご飯出来てるわよ。少し早いけど食べる?」
その言葉に俺は、頷いた。彼女との関係が、お互いの存在を認識しているというものから、俗にいう彼氏彼女の関係になって、まだそれが夢みたいで、俺はふわふわした気持ちのままご飯を口に運んだ。いつものように美味しいのだけれど、なんだか味がしない。
そんな俺を見て母はふふっと笑った。
「朝子ちゃん、かわいい子だったわね」
突然そういわれて、白米をのどに詰まらせそうになった。目を白黒させてお茶で流し込み母を見ると
「ね。お付き合いしてるの?」
そう聞かれて、思わず顔が熱くなる。答えるまでもなく、分かりやすすぎる俺の顔。
多分期待して、答えを待っているであろう母に、小さく「うん」と言った。
それから、自分の部屋に戻ったのはご飯も風呂も済んで、八時前くらいになって。
部屋の中に在ったはずの、麦茶の入っていたグラスは二つともなくなっていた。母が下げてくれたのだろう。しかし、いつもと違う半紙の散らばり方が、俺以外の人がそこにいたことを教えてくれていた。
部屋に入って、いつものようにちゃぶ台の前に座ると、その向かいには彼女の座っていた座布団だけが置き去りにされていた。彼女が畳に手をついて真剣に字を見ていた様子が、目に焼き付いている。
可愛かったな。
彼女の姿を思い出すと不埒な考えを抱きそうで、思いっきりかぶりを振った。
プラスチックケースはいつものところに戻し、俺が広げていた半紙も手早くまとめて、いつもの俺の部屋に無理やりに戻す。
ちゃぶ台を壁に付けるようにして、いつものように布団を敷く、そういつものように。
本当にここまではいつも通りだったのだが、部屋の電気を消して寝ようとしたその時に、はたと気づいた。
今枕にしようとしているこの座布団に、彼女が座っていたということを。座っていたということは、彼女の脚とかお尻とかが……
寝そべろうとしていた自分の体に、急ブレーキをかけて止める。
危うく頭をつけるところだった。でも、どっちの面に彼女が座っていたのかが全くわからない。
どっちを内にして折りたためばいいんだ!
悶々と考え続けた俺は、結局階下にその座布団を持っていき、兄が昔使っていた枕をひっつかんで部屋に戻ってきた。母にまた笑われた気がしたけれど、心の平穏には替えられない。
未だおさまらない動悸を抱え。つかめない心臓を抑えて、布団に転がり込んだ。
今日で思い知った、これまでの時間でどれだけ、彼女にどっぷり嵌ってしまっていたのかということ。こんなので、これから大丈夫なんだろうか。
この時感じた不安が杞憂だとわかるのは、まだまだ先のことだった。