表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

私、水上朝子が彼、朝倉亮太と付き合うに至った経緯

テキレボEX2 試読巡り参加中。

URLコピペでお願いします。

https://rally.siestaweb.net/ex2/system/stamps.cgi?stamp=039YuzuAkutagawa

 

 ひと月、四千八百円。

 彼を知ってから付き合うまでの、約七年。彼と私を、緩やかに結ぶ為に必要だった金額。


 私が彼、朝倉亮太を認識したのは、小学校四年生の時だった。市内の小学校が合同で開催していた書道展。そこで作品を眺めていたら、一つ。私の目を惹く文字があった。

 他の作品が「子どもらしさ」とか「線の勢い」といったものを評価されているとしたら、この一枚だけは完全に、その筆致の素晴らしさにくだされた評価だと、私にですらはっきりわかるほどの違いだった。

 到底私と同学年だと思えない、完成された筆運び。線と線の間の、正しい息継ぎの痕跡。心奪われるような、美しい曲線。何より、半紙に書かれたたった二つの漢字の佇まいは、物語に登場する皇帝のような、気品と風格を兼ね備えていたのだ。

『朝倉亮太』

 作品に添えられた名には、見覚えがあった。当時、私が通い始めた書道教室で、出席名簿に書かれていた名前。一週間に何日やってきても自由。そういう教室に週一で通う私とは違って、彼の出席欄はほとんど丸で埋まっていた。

 彼の書いた他の文字も見てみたくなり、私は書道展を出てすぐ、書道教室に向かった。今まで教室に飾られた作品など、まともに見たことがなかったのに、どうしても気になった。

 私が違う曜日に来たことに、先生は少し驚いたようだった。けれども教室に通う頻度に関して、大雑把な取り決めをするような先生が、何か言うことはなかった。

 三和土(たたき)の土間から部屋へ上がると、墨の匂いが一層濃くなる。字を書く人の邪魔にならないように、私は壁に視線を走らせた。壁は端から端まで、文字で埋まっていた。今まで彼の書に気付かなかったのは当然だったと、それらを見て気づいた。彼の段位が私よりも相当上で、貼られている場所があまりに遠かったからだ。中学生、高校生、大人の作品と並んでも引けを取らない。たくさんの流麗な筆遣いの文字が並ぶ中、それでも私は、やはり彼の筆運びが好きだと思った。

 それからも文化祭や、競書の展示、そして書道教室の壁。私は自分の思いつく限りの場所で、彼の字を探すようになった。何度か、彼と同じ時間に教室で字を書くこともあり、その日は私にとって特別な日になった。彼があの文字を生み出す瞬間を共にできるから。

 そうして時が流れて、私たちは中学生になった。

 市の小学校から中学に上がると、近くの小学校が幾つかずつ合同となって、中学校の一学年を形成する。その決まりで、彼とは別の校区だった。しかし私は相変わらず、淡々と彼の書く字を見つけては、暫しそれを眺めて、幸せな気持ちになった。

 字を見るだけで満足していた私に変化をもたらしたのは、書道教室で見たある日の彼だった。

 いや、誤解を恐れずに言えば、彼の足背。その中で(くるぶし)にほど近いところが、濃い赤紫色になっていたのだ。楕円型にくっきりとついたそれは、今までなぜ気づかなかったのかと悔しく思うくらいに、彼の白い足背の中で、ひときわ存在を主張していた。その斑の声から、私はしばらく目を逸らせずにいた。

 それから私は、気が付けば彼の足を追うようになっていた。教室では字を書きつつ、彼が席を立った時には彼の足背を、そっと盗み見た。

 観察していて分かったのは、彼のその足の斑は、書道に向かっている時間によって、濃淡が変化するということだった。時間が長くなれば色は濃くなり、逆に時間が短ければピンクに近い赤紫に変わった。その色は、私の知りようがない時間における彼の、書に向かう様子を雄弁に語っていた。

 斑の名前は「正座(せいざ)胼胝(たこ)」という。

 長時間固い床に座ると、皮膚の防衛反応でそこの皮膚が固くなり、黒ずんでくるみたいだ。

 せいざたこ。と、私は口に出してみた。

 見る者の肌を、ある時ふと泡立たせるような色。それにはとても可愛らしい名前がついていた。思わずにやけてしまうくらい。可愛い、と呟いて目を閉じてみる。まぶたの裏に映る色は、私の妄想の色だった。


 そして高校生になった今でも、私は毎月四千八百円を対価に、書道教室に通っている。高校の進学先は、彼と同じだった。そこの書道部に彼が入ったことで、彼の字を見る機会が更に増えた。

 中学の時と変わらない日常を過ごしながら、私たちは二年生になっていた。一年生の時は高校生という真新しい洋服を着て、どことなく浮ついた雰囲気が漂っていた。それが落ち着いて、本格的に進路に悩み始める頃。

 ゴールデンウィーク明けの書道教室の壁に貼られた一枚のポスター。

『書聖王羲之(おうぎし)と、日中の名筆展』

 大判の紙の表面に、絵画のような扱いで文字がちりばめられていた。その字の群れの中には、彼が書いている字と似ている文字があり、私は周りの様子も気にせず、それを見るのに没頭した。

 何年も教室に通っている癖に、そんなに熱心な生徒ではなかった私は、実は王羲之という言葉をうっすらとしか認識していなかった。たしか、字の上手な中国の昔の人、くらいの認識。王羲之が書いた『蘭亭序』の冒頭の模写くらいはやったことがあるけれど、書道界において彼がどれくらい価値がある人なのかというのは、全くわかっていなかった。だって、私にとって価値があるのは朝倉亮太の書く字であって、王羲之の字ではない。

 そうしていた私の隣に突然、大きな人影がぬっと現れた。

 教室の蛍光灯に照らされたポスターの字が、その影に少し沈む。私は影の主に抗議しようと、視線を斜め上に向けた。そこには彼が立っていた。

 私と同じく、学校帰りであろうことを思わせる学生服。目元に伸びてきた黒髪が、彼の表情をわかりにくくしている。彼の本体をちゃんと認識したことはなかったが、同じように横に並んだ彼は私よりもはるかに背が高く、ひょろりとした体つきをしていた。

「それ、興味あるの?」

 彼が初めて、明確に私としゃべる意思をもって、口にした言葉。その声のまとう色の軽さを、なぜか不満に思った。心にできたしこりは見ないフリして、私はポスターの字を指した。

「うん、この字、なんだか朝倉君の字と似てるよね」

水上(みかみ)さん、俺の字覚えてるんだ」

 驚いたような彼の声が耳に届く。

「だって朝倉君。競書でいっぱい賞とってるじゃない。みんな知ってるでしょう」

 無難な返答をしたつもりだったけど、彼はびっくりした表情のまま、切れ長の、筆の穂先のような瞳を、音がしそうなくらいはっきり、瞬きした。私は彼が何に驚いているのか分からず、ポスターに視線を戻した。彼の字は好きだけれど、彼自身には興味がない。そして、いつまでも柳のようにしなやかで高い彼を見上げているのも、首が疲れる。

「そんなに見たいなら、この展覧会に行く?」

 彼に聞かれて、私はポスターの文字を追いながら応えた。

「うーん、このポスターがあればそれでいいかな。展覧会が終わった後持って帰っていいか、先生に聞いてみる」

「それより、展覧会で売っている図録の方がいいと思うよ。本物も見られるし」

 彼の口から出た『図録』という言葉に、私は少なからず惹かれた。

 本当に欲しい彼の字は私の手に入らない。それなら彼の書く字にそっくりのこの字の数々を収めた本が手を手に入れるのもいいかもしれない。

 じゃあ行く、と返事をすると彼は、先生から割引券もらってこよう。ついてきて。と、私をポスターの前から引き離し、そのまま先生の座る机の前に行った。


 それから一週間と数日後の土曜日。私たちは展覧会の会場に一緒に立っていた。彼は時々書道教室で見るような、黒っぽいTシャツとカーゴパンツという、忍者のような格好で現れた。学校や書道教室で見る彼は、ひっそりとした性格の人で、そのしなやかで高い身長さえ除けば、本当に隠密みたいだ。

 じゃあ、行こうかと言われて、六百円のチケットを買った。ふと、書道教室の月謝の八分の一だな、と思った。

 王羲之の書は入り口にほど近いところに展示されていた。

 私は、展覧会の説明を読むまで知らなかったのだが、王羲之の書の真跡は、現在残っていないという。彼には、「え、知らなかったの?」と驚かれてしまったのだが、仕方ないではないか。私が好きなのは彼の書いた字なのであって、王羲之のものではないのだ。しかし、王羲之についての逸話で私がすごく共感できたのは、王羲之の書を愛し集め続け、果てに自分の墓にまで一緒に埋葬させてしまったという皇帝の話。

 私は皇帝ではないけれど、皇帝が王羲之の書を愛した気持ちはよくわかる。

 彼にも私と同じように文字が生きているように見えていたのかもしれない。躍動する一画一画が人間の手足、臓物、血液、骨に見えて、どんどん愛おしくなってくる。他人の字ではだめなのだ。その人の生み出す字でないと。そういうところが、人と人がであう運命のようなものだと思う。

 文字を愛することは苦しみも伴う。王羲之を書聖たらしめた皇帝は、成就しない思いを抱え苦しかったのかもしれない。

 私も彼の生み出す文字を愛してしまったがために、それに雁字搦(がんじから)めにされてしまっている。成就しない愛に付随する苦しみさえも、喜びの一端となっていて、私はもう泣きながら笑えるくらいにおかしいのだ。

 もし、死んでしまった時に自分の骨の隣に彼の書があったら。そう考えると死んでも、ものすごく幸せになれる気がした。

 お金も権力もあり、私にとっては宝くじに当たるより難しいことを現実にしてしまえた皇帝は、本当に羨ましい。そんなことが許されるのなら、私だって皇帝になりたいくらいだ。

 (ひとえ)に自分の人生の最期に至った時、彼、朝倉亮太の書と共に眠るために。

 展覧会では、横で色々と解説してくれる彼の言葉を適当に聞き流しながら、この部分が彼の字に似ているな、とかそんなことばかり考えていた。ミュージアムショップで買ったのは図録ではなく、王羲之の『集字聖教序』だった。図録は思ったより王羲之に関するページが少なく、購入をやめた。だって五千円あれば、彼との緩やかな関係を続けるための一月分が賄える。

 彼は私が買った本を見て

「水上さんも、それ書くの?」

「ううん、今は三体千字文の行書やってる。これは、いつか書けるといいなと思って」

 売店のお姉さんから受け取った本を、私は大事にカバンにしまい込んだ。

 本当は、今彼がこれの臨書をしていることを知っているから買ったのだ。本当に欲しいものは手に入らないから、私は仕方なくまがい物を愛でる。それくらいしか、できない。

 展覧会の会場には、二時間以上滞在していた。書道教室にいるときは当たり前に経過する二時間という幅。彼と一緒にお互いをきちんと認識した状態で、これほど長く一緒にいたのは初めてなのではないだろうか。

 九時半の開場と同時に入館したので、もうすぐ正午。

 彼は左手首に付けた腕時計を見ていた。

「水上さん、お昼どうする?」

 展覧会に行く以外のことは全く考えていなかった。今日は気持ちのいい天気だし、外でご飯を食べるのもいいかなと思った。

「そうだね、食べるなら公園がいいな。コンビニかどこかでパンでも買って。ちょっと距離はあるけど、この近くに池があったよね。それ見ながら食べるのはどうかな」

 頭の中の地図をなぞりながら言うと、彼は意を得たという風に公園の方を指さした。

「池の方に歩いて行けば、途中に売店があるよ」

 そうして、彼と並んで目的地まで歩く。考えてみれば、展覧会に誘われた日まで話したこともなかった彼と、こうやって隣に並んで歩くなんて想像したこともなかった。

 ふと気になって彼の足元に目をやれば、真っ黒な服装には似合わない白いスニーカー。彼は忍びたいのか忍びたくないのか、いまいちわからない。でも、そのスニーカーの中には忍んでいるものもある。

 彼の正座胼胝。

 今日はどんな色なんだろう。暴けるものなら暴いてみたい凶悪な心境になって、慌てて澄み渡った空に視線を逃がした。そうでもしないと、ちょっとごめんとか言って、彼のスニーカーの紐を解き、靴下をはぎ取って、斑の色を確認しそうだから。

 二人で、池のふちにあるベンチに座る。並んだ私たちの間には、拳三つ分くらいのスペースが開いている。自然にできたブランクは、私たちの関係そのものだった。

「水上さん」

 唐突に彼に名前を呼ばれて、私は緩慢な動作でそちらを振り向いた。口にサンドイッチが入っていたので、咀嚼しながら何と、軽く首をかしげてみる。

「水上さんって、進学するの?」

 高校二年生にもなると、お天気を聞くように出る話題。

 彼もこういう話題を振ってくるらしい。まあ無難だしね。私は咀嚼していたものを飲み込んで、

「うん、そのつもり」

「書道関係?」

「そう。芸術系に行きたくって。でも親には教育学部でもいいだろうって。確かにそのほうが、選べる大学が多いけどね」

 しかし、私は書を教えたいわけではない。両親に芸術で食べていけるとは思えないと言われたけれど、大学で専攻したことが、そのまま就職につながるかどうかは別の話だろう。

「良く調べてるんだね」

「そう?」

 自分の将来はよくわからない。でも、好きなものならはっきりしている。それを念頭に置いての進路選択だった。

 いつまでも、彼の字を追いかけるわけにはいかないってことぐらい、私にだって分かっている。私の前にも後ろにも彼はいなくって、ただ、電車に乗った時に飛んでいく景色のように、流れていく存在だってこと。

 彼の字は私に纏わりついて、私の興味の全てを瞬時に奪っていくほどに、狂おしく愛おしい存在。でもそれがずっと続いていくのは、変だろう、一般的には。

 高校卒業まで、二年足らず。タイムリミットを迎えたら、私は八年間追いかけ続けた景色のことは忘れて、現実を見ないといけない。車窓に映る景色をいくら欲しても、窓ガラスと電車のスピードに阻まれて、手に入らないのだから。今は高校生という枠に入っているおかげで、この嗜好は隠せているけれど、もうすぐその枠もなくなってしまう。だから私は一般に沿うのだ、自分が望んでいなくても、そうあるべきだと別の私が囁くから。

「水上さんは書道教室はいつまで行くの?」

「高校卒業まで。そのあとはどうしようかな、大学にそういう部活とかサークルがあれば入ってもいいかも。まあ、まずは志望校に受からないと」

「高校生になっても通ってる人ってあまりいないから、水上さんも書道の先生になりたいんだと思ってた」

「書くのは好きだけれど、教えるのはちょっと……」

 因みに、私がなりたいものは億万長者だ、実現可能かどうかは置いといて。そうしたら、有り余る財を湯水のように使い、彼を囲って、心ゆくまで文字を書いてもらいたい。私は一日中それを愛でて過ごす。王羲之の『蘭亭序』が書かれたような、竹林と水辺のある場所なんてどうだろうか。

 まあ、このままじゃ、それは無理なんだけど。

 そんな妄想をしていると隣でガサガサと音がした。彼の方に目をやると、もう食べ終わってごみを袋に入れていた。私は自分の膝に乗せたままだったサンドイッチを、急いで口に放り込む。

「慌てなくていいよ」

 そう言って、彼は笑った。

 ああ、朝倉君も笑うんだ、と当たり前のことに今気づいた。

 私が初めて見る彼の笑顔が、なんだかまぶしくて、そのまま初夏の光に溶けてしまいそうだった。

 もう食べ終わってしまっている彼を待たせるのは気が引けて、私はそのまま食事を終えた。

 急がせてごめんね、と彼は申し訳なさそうに眉根を下げた。私はううん、と首を横に振り立ち上がって、スカートについたパン屑を払った。

 ごみの入った袋を潰して、さっき買った本に触れないように注意して、カバンにいれる。

 先に立ち上がっていた彼が、私のことをじっと見ていた。なんだろう、口の周りに何かついているのだろうかと、手の甲でちょっと拭いてみた。けれど特に何もなかった。それでも、なお彼の視線がそらされないので、思い切って聞いてみた、私の顔に何かついてるって。

「そうじゃないよ」

 彼はそう言って、私からようやく視線を外した。

 しばし、私たちの間に奇妙な沈黙が流れた。

「私はもう帰るけど、朝倉君はどうする? このあたりに用事ある?」

「いや、ない」

「そう、じゃあ一緒に帰る? 最寄駅も一緒だよね、確か」

「そりゃね」

 彼は、はーっとため息をついて、手で顔の半分を覆った。その手の爪の間に、墨の色が付着していた。


 電車内は軽く混雑していて、私たちは隣同士で吊革につかまっていた。私は吊革に手を伸ばし、彼は目の前にある丸い物体を掴む。そしてその間には、やはり規定値のブランクが存在していた。ブランクはきっと、二人の間を阻む気はないのだろうけど、私たちは何もしゃべらなかった。

 そのうちにだんだん電車の中の人が減り、ついに目の前の席が空いた。しかし、彼は座る様子を見せない。座らないのって聞いたら、水上さんこそって笑われた。確かにそうだ。私はくるりと体を反転させて、座席にこしかける。それを見て、彼も隣に座った。隣同士の座席が、私たちの間にあったブランクを、そっと消した。だというのに、どちらもやっぱりしゃべらない。

 そういうものなのだろうか。

 私は、学校の教室を想像した。そこにいるのは私と同じ服を着た、クラスメート。

 彼女らは表情も言葉も行動も、非常に饒舌だ。私が何も求めなくても、情報を垂れ流し続ける、さながらテレビのよう。誰と誰が付き合ってるのは似合わないとか、あの子あの人のこと好きなんだって身の程知らず、とか。不要な情報にえぐい感情を付随して。口から出ている言葉は残酷なほど計算されていなくて。もしかしたら、自分が一体何を言っているか、わかっていないのかもしれない。

 私はその言葉に眉を顰めそうになるのを我慢して、張り付けた笑顔で流す。

 彼女らも、私にとっては車窓を流れていく景色そのもの。時が来れば走り去っていく。だから、私はBGMよろしくそれを聞き流し続ける。そのスイッチが切れる時を待ちながら。

 隣に座る彼は、ただ静かに、私に何を伝えることもなく、ただ隣にいる、本当にそれだけ。久しぶりに、車窓からいい景色を眺めることができた。彼の雰囲気のおかげで。

 そして、今現実に電車に揺られているのも気持ちよくて、その相乗効果のせいか私はだんだんと眠たくなってきた。

 突然の、電車の揺れの激しさに目を開けると、彼が私の肩を揺らしていた。

「水上さん、次降りる駅だよ」

 ああ寝ちゃっていたんだ、と私は体を起こしたところで

「ごめんね、私もたれてなかった? 大丈夫?」

「気にしなくていいよ」

 彼は小さな声でそう言った。

 駅名のアナウンスが流れる。彼はキリンの首のように細い体を、座席から離して立ち上がった。電車が軋んで止まり、空気を吐き出すような音と共にドアが開く。広く開いたそこから、私たちは並んで降りた。

 車窓から見えていた景色がそのまま、目の前に佇んでいた。


 見知った駅からの帰路。すっかり緑色になってしまった桜の木や、花が終わりかけたツツジの植え込みが、もうすぐ雨季がくると教えてくれる。

 五月に一度汗ばむ季節になったかと思えば、夏を迎える前に、インターバルのような梅雨がある。それがあるから、私たちは夏を越えていけるのかもしれない。

「水上さん」

 夏に思いを馳せていた私は、彼の言葉で現実に引き戻された。隣を歩いていたはずの彼はいつの間にか、私の少し後ろで立ち止まっていた。それで、私は後ろを振り返る。

 今日はよく苗字を呼ばれる。彼と私の関係性がそうだから、当然なのだけれど。

 彼の顔は逆光と、その背の高さのせいで丁度太陽を見る角度に当たってしまって、顔が黒っぽく塗りつぶされていた。

「ねえ、水上さん」

「なに?」

「俺と付き合って」

 彼の声は少し硬くて震えていた。そんなに緊張するようなことなのだろうかと首をかしげて、私は言った。

「いいよ」

 その瞬間、彼が息をのんだのが分かったが、私は構わず続けた。

「どこに行くの?」

 まだ、時間はあったはずだ。一応五時までには戻ると家には伝えてある。

 そう頭の中で予定を確認している私の前で、彼は目に見えてわかるくらい、ガクッと顔を地面の方に向けて、目のあたりを片手で覆った。


 その後、彼は「水上さんの行きたいところ」と絞り出すように口にした。おかしな人だと思いながら、これは千載一遇のチャンスかもしれないという、天啓ものようなものも感じ、

「行きたいところは特にないけれど、朝倉君の書いた字が見たい、毛筆の」

 彼は暫し逡巡した後、じゃあうちに来る? そうボソッと言った。私は高揚する気持ちを抑えつつ、首を縦に振った。

 彼はポケットからスマホを出し、するするっと指をスライドさせてしばらく待っていたが、

「母に連絡した。いいって」

 そう言って文明の機器をポケットにしまう。王羲之の書を手本にしているであろう彼の、墨で染めた指先が、スマホの画面に触れているのがなんだか可笑しかった。


 朝倉という表札が、厳めしい石造りの門柱に掲げられている。それを一瞥もせずに、その家にとっては異邦人である私を連れて、当然のようにずんずんと進んでいく。

「ただいま」

 彼が玄関を跨ぐ後ろで私は、彼が彼の家の人に私のことを伝えてくれるのを待った。

「この子がさっき連絡した水上さん。水上さん、うちの母です」

 彼のお母さんだと紹介された女性は、笑顔で私を迎え入れてくれた。目元が彼にそっくりだった。

「まあまあ、いらっしゃい。どうぞ上がって。お友達を連れてくるっていうから、てっきり男の子だと思っていたの」

「水上朝子といいます。突然お邪魔してすみません」

 彼のお母さんは、いいのよ、亮太がお友達を連れてくるなんて今までなかったもの、と嬉しそうに笑っていた。その後ろで彼は、少し困ったような顔をして立ちすくんでいた。

 彼の家は典型的な昭和の日本家屋で、家の中に長い縁側の廊下が存在するような家だった。上がってすぐに、二階の彼の部屋に招かれた。彼がふすまを開けると、その六畳くらいの部屋に、勉強机と書棚、少し広めの四角いローテーブルが置いてあった。部屋の中に染み付いた墨の香りは、調度品のようだった。

 今日、出かけるまで書いていたのであろう書が、部屋のいたるところで乾かされていて、私の鼓動が速くなる。漸く巡り合うことのできた運命の恋人がそこに佇んでいたら、きっとこんな気分。

 少し待ってて、片付けるから。そういって部屋の入口の高さを超える身長をかがめて部屋に入り、もう乾いている書を集め始めた。

 ああ、もう少し、その字を見ていたい。

 私は涎を垂らしそうになりながら、彼の手の中に在る字を凝視する。そして、まがい物でなく、彼の書いたものでなければだめだということを再認識した。

 惜しかったのは、彼が今日は靴下を履いていたこと。彼が書を書くために机に向かう時、靴下を脱ぐ癖があることを、私は知っていた。そのおかげで、教室では彼の足背を観察することができるのだけど、さすがに今ここでは脱いでくれないだろう。私が脱いでというのもなんだか変な話だ。せっかくなので眺めたいし、できれば触りたい。

 悲しいかな、自分はそういう行為をする自分を想像できても、実行には移せない。

 そんなことをしたら、変態か狂っているか、そういう判定が下される、と頭のどこかで冷静な水上朝子が、欲望に忠実な水上朝子にストップをかけている。

 私が一人悶々としている間に、彼は手際よく片づけを終えた。どうぞ、と彼は部屋の片隅に布団と共に積んであった座布団を、私に敷いてくれた。

「朝倉君は座布団いらないの?」

「俺は、いつも座布団は使ってないから」

 さっさと胡坐をかいて、敷いた座布団の真向かいに座った。

 友達も来ないとさっき彼のお母さんが言っていたのに、じゃあ何にこの座布団を使うのだろう、と気になったけれど、それは別に聞かなければならないことでもなし。私は彼の勧めに従って、部屋の入り口から遠い窓側の方に座った。

 向かい合わせで座ったところで、彼のお母さんが麦茶を持ってきてくれた。

「ごめんなさいね、こんなものしかないのだけれど」

「いいえ、こちらこそ突然お邪魔してしまってすみませんでした」

 私は、もしかしてとんでもない提案をしてしまったのかと、今更後悔をしたが、彼はその無表情を崩さずに、自分の前に置かれた麦茶を眺めていた。

 彼のお母さんは、どうぞごゆっくりと言い残して、階下へ降りて行った。

 彼女の歩みが鳴らしていた階段の軋みがなくなると、彼は私の目前ではぁっとため息をついた。

「ごめんね、もしかして迷惑だった?」

「いや、なんかこういう状況に慣れてないから、ちょっと戸惑ってるだけ」

 そう言って彼は立ち上がって、新聞紙が積んであるところに行ってそれを繰り始めた。その膨大な新聞紙の間には、一枚一枚半紙が挟まっていた。

 彼の書いた字だ。

「どうぞ」

 手渡されたものとテーブルを、交互に見る。ここに置くのはかなり気が引ける。さっきお母さんが持ってきてくれた麦茶には氷が入っていて、既にグラスが汗をかいているのだ。もし半紙についたら、墨が滲んでしまう。

 私は少し考えてから、座布団の位置を移動させて、畳の上にその新聞を置き、一枚一枚繰ることにした。緊張の瞬間だった。この間に彼の書いた字が詰まっていると思うと、その一枚目をめくるのに非常に勇気を要する。しかし、その勇気さえ出せれば。

 小学四年生の時に出会った衝撃のまま、彼の字は私の中に飛び込んできた。

 ああ、こんなに間近で見られるなんて。しかも触れられる距離。

 思わず指先で、黒い部分をなぞった。

 昔読んだ、フランダースの犬のラストシーンが頭をよぎる。私ももう、いつ死んでもいいや。

 しばらく彼の筆致を堪能していた私は、ふと思いついたことを彼に聞いてみる。昔に書いたものって残っていない、と。彼は少し考えて、どれくらい前のが見たいの、と私に聞いた。

「小学校四年生の時に、朝倉君。小学校の合同文化祭で金賞取ったの覚えてる? もしあるのなら、あれをもう一回見たい」

 そういった私を、彼は信じられないという風に凝視した。

「そんな昔の事覚えてるの?」

「うん」

 変だろうか。でも、記憶にある字と本物の字がどれくらい乖離があるのかも興味深い。もしかしたら、私の中で美化されているかもしれないし、逆に実はもっと素晴らしい出来だったりするかもしれない。

 彼は私をまじまじと見つめた後、すっと立ち上がって押入れのふすまを開けた。

 布団が部屋の片隅に積まれていた理由が、その中を見てようやくわかった。彼の部屋の押入れの中には沢山のプラスチックケース。それらは全て、彼の書いたもので埋まっていた。

 彼はその高い背を少し丸めて押入れの中を探っていたが、しばらくすると、プラスチックケースを一つ取り出した。

「小学校の時に賞を取ったのは、全部この中に入れてる」

 彼はそう言って、畳の上でそのケースの蓋をとる。その動作は儀式のようで、終始厳かだった。私はそれを当然のことだと眺めた。彼の字を愛するものとしては、たとえそれが書いた本人であっても丁重にそれを扱ってほしいと思うのだ。

 彼はゆっくりとその中の作品を、自分でも確かめるように一枚一枚見ていたが、ああこれだ、とつぶやいて私の前にそれを出した。

『流星』

 その二文字が、流麗な筆遣いで書かれている。私の人生を一変させたと言ってもいい一枚。今見ても十分に美しい字だった。形、バランス、筆運びなど、愛でるべき点は幾つもあるけれども。

「触っていい?」

 私は彼に許可をもらってから、流の字を書き順通りになぞった。そして彼に言う。

「あの時は気づかなかったけど、ここ、あなたが息継ぎしたところだ」

 そう、彼は文字の途中の息継ぎが、絶妙で美しい。目を凝らし幾度も筆をたどって、ようやくその痕跡を見つけられるくらいだけど、この時はまだそれが分かる。分かるからこそ、よけいに惹きつけられるのかもしれない、生きているように思えて。彼の字は生物そのもの。私の愛すべき生き物は、彼の手から様々な形で生み出され、紙の中で生きている。

 私はその生物の呼吸を感じながら、愛しいその形を指で撫で続けた。


 彼の家から私の家までは歩いて三十分くらいの距離だった。彼のお母さんにお暇の挨拶をすると、また遊びに来てねと言われた。

 私はそれに曖昧に笑って、はい、とうなずいた。

「亮太、途中まで送って行ってあげたら?」

 そういわれて私は慌てて首を横に振る。

「いえいえ、突然お邪魔してしまったのに、そんなお気遣いなく。まだ明るい時間ですし」

 私の言葉に彼のお母さんが何か返すより早く、彼は私たちの隣をすり抜けて、玄関でさっさと靴を履いてしまった。

 家を出てしばらく歩いてから、彼を見上げた。

「送ってもらうの悪いから、適当なところでユーターンしてね」

「いい、ちゃんと近くまで送るから」

「三十分くらいかかるよ」

「知ってる」

「あれ、私、朝倉君に私の家の場所言ったっけ?」

「いや」

 彼はしまったという表情になり、私より高い所にある彼の首が、ふいと逸らされる。

「じゃあ、なんで知ってるの?」

「……水上さんと同じ中学だった人が教えてくれた」

「ふーん?」

 それで? という意味を込めて彼に返す。

「水上さん」

 と彼は、体ごと私の方に向けた。けれどもその視線は、少し泳いでいる。

「好きです。俺と付き合ってください」

 彼の視線は微妙に私とずれたところに位置している。その顔は赤い。

「ええと、罰ゲームとかドッキリとかそういうの?」

「……違う。本気」

 あ、そうなんだ。

 人生初の告白シーンだというのに、私は彼が少し可哀想で愛おしくなった。

 よりによって私か、と。

 彼、朝倉亮太にとって、私、水上朝子は鬼門だと思う。でも、それを伝えてこの機会をふいにするほど私は馬鹿じゃない。今日、初めて自分は彼の書く文字と、彼の足背以外を知ることとなったが、彼の隣は今までにない心地よさを私に与えてくれるものだった。

 私はあまり、人との付き合いを深くできる方じゃない。いつも探りを入れては、ああ無理かもしれないと思って引き返すような性格なのだ。でも、今日は全然だめだとか思わなかった。

 うん、決めた。

 私は彼に向き直る。

「いいよ、付き合っても。いいんだけど、ねえ、聞いていい?」

「何?」

「朝倉君には私がどう見えてるの?」

 それを聞いて、彼は困惑したように首を傾げた。キリンのように細い彼の首はキリンよりかなり短いのだけれど、ああ、あの首筋も好きになれそうだ、と思いながら私は彼に言った。

「私の事、何で好きなんだろうって」

 何でって、と彼は口元を彼の右手で覆って、うつむき加減で考え込んだ。その指先の墨の方が、彼よりもよく私のことを見てくれていて、私はおかしくって笑った。

「また、思いついたら教えて」

 彼が眉根を寄せて立ちすくんでしまったから私は、下にだらんと落ちた彼の左手を、自分の両手で柔らかくとって

「じゃあ、これからよろしくお願いします」

 そう言ってから、ぎゅっと握った。


 こうして私、水上朝子は彼、朝倉亮太と付き合うに至ったのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ