表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
半歩 ~守・破・離 短き刃 長き道~  作者: 止水


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/39

外伝 短き刃、長き道 その2 ― 隠遁前夜 ―


 夜は、やけに静かだった。

 家の道場は既に灯りを落とし、月だけが板間を青く照らしている。

 橘宗一郎は、ひとり正座していた。

 昼の立会いは、すでに噂になっている。

 名門を崩した無手の男。

 斬らずして勝った異端。


 門の外では、隣人が我が家のため、祝いの酒が交わされているらしい。


 だが宗一郎の胸にあるのは、歓喜ではなかった。

 ――あの瞬間。

 長太刀が振り下ろされた刹那。

 見えていた。

 刃の軌道。

 避けきれぬ角度。

 己の遅れ。

 斬られていた。

 それを知っているのは、自分だけだ。


「……未熟」


 低く、言葉が落ちる。

 彼はそっと自らの胸に触れた。

 本来、裂けていたはずの場所。

 だが、刃は止まった。

 なぜ止まったのか。

 情けか。

 驕りか。


 あるいは――

「殺意が、なかったか」

 己の目に。


 あのとき、宗一郎は崩しを選んだ。

 柄を押さえ、肘を入れ、体を制した。

 門人たちの前で、名門の当主を畳に伏せさせた。

 あれは、武だったか。

 それとも、示威だったか。

 無手が勝ったと歓声が上がる中、宗一郎は立ち尽くしていた。

 斬られなかった。

 だが、斬れなかったのではない。

 斬る価値がなかったのではないか。

 自分の無手は、斬るに値せぬ未熟さだったのではないか。

 胸の奥が、静かに軋む。

 鏡を前に立つ。

 映る男は、勝者の顔をしていない。


「お前は、何を求めている」


 問いかける。

 無手とは何だ。

 奪わぬことか。

 制することか。

 生かすことか。

 それならば今日の行為は、己の志に背いている。

 斬られなかった恩を、示威で返した。

 それは道ではない。

 畳に手をつき、深く頭を下げる。

 誰もいない道場で。


「……負けたのは、私だ」

 

 あの男は斬らなかった。

 自分は崩した。

 勝敗は逆だ。

 世は勝者と呼ぶだろう。

 だが、それを受け入れれば、自分は二度と鏡を見られぬ。


 夜風が障子を鳴らす。

 

 宗一郎は立ち上がる。

 脇に置かれた長い太刀を見る。

 当家の証しでもある野太刀 平安後期にまで遡る当家の誇り


 刃を打ち直す。

 そして、我も打ち直す。

 誇りを断ち、形を変え、もう一度、問い直す。

 斬るための武から、

 斬らぬための武へ。

 世を去ろう。

 名を捨てよう。

 勝者の評価を置いていこう。


 だが――

 志だけは、置いていかぬ。


 戸を開ける。

 夜の闇が、静かに待っている。

「次に会うときは」

 誰に向けたともなく呟く。

「斬られぬのではなく、斬らせぬ武で」


 宗一郎は、振り返らなかった。

 その背に、月光だけが落ちていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ