外伝 短き刃、長き道 その2 ― 隠遁前夜 ―
夜は、やけに静かだった。
家の道場は既に灯りを落とし、月だけが板間を青く照らしている。
橘宗一郎は、ひとり正座していた。
昼の立会いは、すでに噂になっている。
名門を崩した無手の男。
斬らずして勝った異端。
門の外では、隣人が我が家のため、祝いの酒が交わされているらしい。
だが宗一郎の胸にあるのは、歓喜ではなかった。
――あの瞬間。
長太刀が振り下ろされた刹那。
見えていた。
刃の軌道。
避けきれぬ角度。
己の遅れ。
斬られていた。
それを知っているのは、自分だけだ。
「……未熟」
低く、言葉が落ちる。
彼はそっと自らの胸に触れた。
本来、裂けていたはずの場所。
だが、刃は止まった。
なぜ止まったのか。
情けか。
驕りか。
あるいは――
「殺意が、なかったか」
己の目に。
あのとき、宗一郎は崩しを選んだ。
柄を押さえ、肘を入れ、体を制した。
門人たちの前で、名門の当主を畳に伏せさせた。
あれは、武だったか。
それとも、示威だったか。
無手が勝ったと歓声が上がる中、宗一郎は立ち尽くしていた。
斬られなかった。
だが、斬れなかったのではない。
斬る価値がなかったのではないか。
自分の無手は、斬るに値せぬ未熟さだったのではないか。
胸の奥が、静かに軋む。
鏡を前に立つ。
映る男は、勝者の顔をしていない。
「お前は、何を求めている」
問いかける。
無手とは何だ。
奪わぬことか。
制することか。
生かすことか。
それならば今日の行為は、己の志に背いている。
斬られなかった恩を、示威で返した。
それは道ではない。
畳に手をつき、深く頭を下げる。
誰もいない道場で。
「……負けたのは、私だ」
あの男は斬らなかった。
自分は崩した。
勝敗は逆だ。
世は勝者と呼ぶだろう。
だが、それを受け入れれば、自分は二度と鏡を見られぬ。
夜風が障子を鳴らす。
宗一郎は立ち上がる。
脇に置かれた長い太刀を見る。
当家の証しでもある野太刀 平安後期にまで遡る当家の誇り
刃を打ち直す。
そして、我も打ち直す。
誇りを断ち、形を変え、もう一度、問い直す。
斬るための武から、
斬らぬための武へ。
世を去ろう。
名を捨てよう。
勝者の評価を置いていこう。
だが――
志だけは、置いていかぬ。
戸を開ける。
夜の闇が、静かに待っている。
「次に会うときは」
誰に向けたともなく呟く。
「斬られぬのではなく、斬らせぬ武で」
宗一郎は、振り返らなかった。
その背に、月光だけが落ちていた。




