外伝 短き刃、長き道 その1 ― 刃、止まる ―
板間を渡る風が、わずかに鳴った。
――静かだ。
立会いは、静寂の中心にあった。
誰もが息を潜めている。
足の裏が板に触れる感覚さえ、やけに鮮明だった。
本住吉一刀流本山家当主・本山景綱の長刀が、天に掲げられる。
真剣
その切っ先は、微動だにしない。
風さえ、そこだけ避けているかのように。
対するは、無手の男――橘宗一郎。
構えは、ない。
ただ立っているだけ。
――いや。
全身が、構えだった。
視線が交わる。
その瞬間、間合いが決まる。
逃げ場は、もうない。
間合いは、すでに死地。
宗一郎の呼吸が、ひとつ落ちる。
踏み込む。
だが――
半歩、遅い。
景綱は理解した。
――入った。
刃は落ちる。
重く、正確に、迷いなく。
宗一郎の胸元へ。
――その瞬間。
景綱の眼に映った。
無手の男の眼。
怯えがない。
怒りがない。
名を上げる野心もない。
――では、何だ。
あるのはただ――
問い。
武とは何か。
その問いだけが、澄んでいる。
景綱の胸中で、何かが軋んだ。
この男は――
斬るために立っていない。
奪うために立っていない。
己を試すために立っている。
その純度が、あまりにも剥き出しだった。
刃は、すでに届く位置にある。
斬れる。
確実に。
景綱は知っている。
ここで斬れば、名門の威は保たれる。
無手の異端は、ここで終わる。
それが――正しい。
……だが。
この芽を、斬るのか。
武の問いそのものを、断つのか。
刃筋が、わずかに揺らぐ。
ほんの、紙一枚分。
それだけで――致命の線は外れる。
――刹那。
宗一郎の体が沈む。
柄を制し、肘を打ち、体を崩す。
景綱は床に伏した。
――どよめき。
「当主!」
「勝負あり!」
声が飛ぶ。
だが景綱は、動かなかった。
床に頬をつけたまま、静かに目を閉じる。
――私は、斬らなかった。
……いや。
斬れなかったのか。
あの眼を。
あの、未完成の武を。
立ち上がった宗一郎の気配が、わずかに震えているのが分かる。
歓声の中で――
ただ一人、勝者の顔をしていない。
景綱は理解する。
この男は、今日を誇れぬ。
そして――自分もまた。
立会いは終わった。
だが、問いは残った。
斬ることが武か。
斬らぬことが武か。
景綱は、ゆっくりと起き上がる。
宗一郎と目が合う。
言葉はない。
ただ一瞬――
互いに、同じ場所を見ていることだけが、伝わる。
――その瞬間。
二人にとっての、真の武だった。




