第十四話 蝉の鳴き始める場所 ー信頼ー
今日 竹刀学が終わった。
武道場の空気には、まだ熱気が残っている。
窓から入る風もぬるく、夏休みが始まることを知らせていた。
来週から夏休み。
剣士学園の生徒たちも、どこか浮き足立っている。
道場の端では、二年生が竹刀を片付けていた。
その少し離れた場所で、春日は自分の竹刀袋を見下ろしていた。
竹刀は入っていない。
春日は、竹刀をここ以外で振ったことがない。
それでも――
もう少し振ってみたい。
そんな感覚が、初めて胸に生まれていた。
「春日… 君」
振り返る。
澪先輩だった。
手に竹刀を一本持っている。
「これ」
無造作に差し出された。
「え?」
春日は戸惑う。
「しばらく使う? いいよ」
澪はそれだけ言った。
まるで春日の気持ちを見透かしたかのようだった。
差し出された竹刀は、よく使われたものだった。
「……いいんですか?」
「どうせ私は、家が近いからね」
澪は肩をすくめる。
「暇なとき、学校来て振るし」
確かに、湊川の家はここから遠くない。
「春日は帰るんでしょ」
「はい 八月に入ってからですが」
「なら、それ持っていっていいよ」
春日は竹刀を見つめた。
少し黙ってから、深く頭を下げる。
「ありがとうございます、湊川先輩。
実家に帰るまで、お借りしてもいいですか?」
その言葉を聞いて、澪は一瞬だけ眉を動かした。
「帰るまで? ……まぁ、そうかもね」
春日の実家にも、竹刀くらいあるのだろう。
「あの……」
春日が、何か言いたげな様子だった。
「……その……」
「はい?」
春日にしては、はっきりしない。
「なに?」
「いえ……すみません。やっぱり結構です」
澪はため息をついた。
「めんどくさいなぁ。
言いたいことあるなら言えば?」
「……」
「まぁ、ランキング戦。
演舞の相手してくれたし。
一つくらい希望、聞いてやらなくもないけどね」
その言葉で、春日の表情が少し変わった。
「その……呼び方なんですが」
「呼び方?」
澪が首をかしげる。
「誰の?」
「湊川先輩のことを……」
春日は一瞬言葉を止めた。
そして、意を決して言う。
「……澪先輩、とお呼びしてもよろしいでしょうか」
澪は少しだけ目を瞬かせた。
「私の周りの人、だいたい澪って呼んでるけど?」
ああ、確かにそうだ。
鷹宮先輩も、本山先輩も。
竹刀学の二年生も、みんなそう呼ぶ。
でも春日は一年生だ。
だから、ずっと
湊川先輩だった。
「……」
少し迷う。
言葉が喉の奥で止まる。
澪は黙って待っている。
やがて春日は、少し照れくさそうに言った。
「……本当に、いいんですか」
「なにが」
「澪先輩って」
春日は目を伏せた。
耳が、少し赤い。
澪は一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、すぐにいつもの表情に戻る。
「どうぞ」
そして一言付け加えた。
「先輩 は、ちゃんと付けるように」
ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。
春日は竹刀を握り直す。
「じゃあ」
一呼吸おいて言った。
「竹刀、お借りします。
澪先輩」
その言葉を聞いて、澪は小さく笑った。
道場の外から、蝉の声が聞こえ始める。
もうすぐ夏休みだ。
春日は竹刀を竹刀袋に入れる。
「春日」
澪が言う。
「はい」
「秋。
今度のランキング戦――」
少し間を置いて続けた。
「本気で来いよ」
春日は静かにうなずく。
「そして、必ず本戦に上がれ」
「はい」
外はもう、夏の光だった。
道場に残っていた熱気が、ゆっくり流れていった。




