第十三話 梅雨明けの道場 ー型無き一振りー
もうすぐ梅雨も明ける。
二年生の授業の中で、一年生が合同で入る科目は
週二回の「竹刀学」だけだった。
その都度、参加を選択できる科目のため、
毎回顔を出す一年生は春日だけである。
澪がふと尋ねた。
「春日って、本当に竹刀学を休まないよね」
いつの間にか、澪は春日を呼び捨てにしていた。
それくらい、二人の距離は近くなっていた。
春日は少し間を置いて答えた。
「竹刀学は、好きではありません」
「えっ?」
そうかもしれない。
この場所には、もう春日とまともにやり合える先輩はいない。
――私と雪を除けば、だけれど。
春日は雪と組み合うのを避けている。
なぜか、雪の方も春日を避けていた。
そのせいか、雪は竹刀学に来なくなった。
「なら、どうして来てるの?」
春日は迷いなく答えた。
「湊川先輩がいるからです」
「なっ!」
向こうで二年生がささやき合う。
「春日くん、ついに澪に告白?」
「恋バナ? 恋バナ?」
春日は気にした様子もなく続けた。
「湊川先輩は、すごく綺麗です」
澪は一瞬、固まった。
(そうですか~~。本人に向かって、さらっと言うか~~)
向こうから黄色い声が上がる。
「ただ、竹刀を振っている なのに、
それが、まるで演舞の居合刀のように見えるんです」
(ああ、そっちね。型の話ね)
「……どういたしまして」
春日は首を振った。
「自分には型がありません」
「え?」
「鍛錬があるだけです」
「鍛錬?」
「動作というか、動きというか……
一連の所作を練習することはありません」
「同じ動作を、ただ繰り返すだけです」
「それって、どんな動作? 見せてくれる?」
(ごめん。本当は知ってる)
何度も横から見ていた澪は知っていた。
春日の稽古は、ほとんど変わらない。
一歩。
半歩。
そして、振り下ろす。
ただそれだけ。
だが――その一振りが、異様だった。
「見せてもらえますか」
春日はうなずくと、竹刀を軽く握り直した。
道場の端、誰もいない場所へ歩いていく。
二年生たちの雑談が、少しずつ止まる。
春日は静かに立った。
構えはない。
足も決まっていない。
ただ、そこに立っているだけ。
一歩。
床板が小さく鳴る。
半歩。
次の瞬間。
――ヒュン。
空気が裂けた。
「……速っ」
誰かが小さくつぶやく。
竹刀は振り下ろされたあと、
すでに止まっていた。
風だけが、遅れて流れる。
澪は息を吐いた。
(やっぱり)
同じ振り。
同じ歩み。
同じ間合い。
だが、二度と同じにはならない。
春日は竹刀を下ろした。
「こんな感じです」
澪は苦笑した。
「……それだけで、あそこまで強くなるの?」
春日は少し考えてから答えた。
「まだ、強くありません」
「え?」
「湊川先輩には届きませんでした」
澪は思わず笑った。
「届かないって……」
(私の鞘、蹴り壊しておいてよく言うよ。
おまけに“雪には勝つ”なんて言い放つ人が、何を言ってるのよ)
その時だった。
道場の入口で、誰かが足を止めた。
空気が、わずかに変わる。
澪は振り返る。
――雪だった。
まっすぐ春日を見ている。
「……その振り」
何か言いたそうな、静かな声。
澪だけが気が付いた。
(……雪が、驚いてる)
道場が、しんと静まり返る。
春日はゆっくりと振り向いた。
だがその時には、
雪はすでに、いつもの物静かな表情に戻っていた。
梅雨明けの夕刻は、日が長い。
いつもより遅い時間の下校。
道を歩いているのは、雪と澪の二人だけだった。
澪が小さくつぶやく。
「ねえ雪」
「なに」
「春日とやらないの?」
雪は少しだけ目を細めた。
「やらない」
即答だった。
「なんで?」
ランキング一位の雪なら、
ああいう一年生は試してみたくなるはずだ。
だが雪は、竹刀袋を左手に持ったまま答えた。
「今やったら」
少し間が空く。
「たぶん、壊す」
澪は思わず足を止めた。
「……壊す?」
雪は何も答えない
(あの動きを、知ってる)
(止め方も、返し方も)
(そして、倒し方も…)
(父が言っていた意味は……ここに…)
本住吉流ではない。
だが――
雪は小さく息を吐いた。
そして、静かに言った。
「あの動き、知ってる…」
澪は黙って聞く。
梅雨が明ければ夏になる…
三人がともに過ごした時間
竹刀学の時間は もうすぐ終わる…




