第十二話 薫陶 ー先達ー
春のランキングから一か月が過ぎた
梅雨のじめついた日が続く中…
「湊川!」
澪が校舎の廊下を歩いていると、後ろから声を掛けられた。
振り返ると、合戦歴史学の楠木先生だった。
剣士学園では珍しい、剣を使わない先生である。
実家が近いこともあり、澪はこの先生に悪い印象を持っていない。
「はい、なんでしょう」
「湊川のクラスは、昼から竹刀学だったよな」
「そうですが……先生、何か?」
楠木先生は少し困ったように笑った。
「すまないが、うちのクラスから十名ほど参加することになった」
(楠木先生のクラス……確か一年の担任だったはず……)
(ん? もしかして……春日君に絡んでくるのかしら)
「少し問題児がいてなぁ……湊川も知っていると思うのだが。
うちの生徒が言うには、その問題児は『湊川先輩の言うことなら絶対聞く』そうなんだ」
――ああ、やっぱり春日君のことだな、これは。
澪は小さく息をついた。
「先生、雪もいますから、そちらに頼んだ方が安心だと思います。
学園筆頭の言うことなら、問題児でも聞くでしょう」
「本山さんか……確かにそうだろうが、さて、どうなるかな。
湊川、頼むよ」
(本山さん……雪には“さん”付けで、私には無し……?)
「わかりました。でも、問題児が何か起こしても、私、責任は取りませんからね」
(なんだか釈然としないけれど……まあ、仕方ないか)
「ありがとう、湊川。あとは頼むよ」
「ちょっと、先生!」
楠木先生は笑いながら、逃げるように去っていった。
春日君は、澪との演舞以来、澪の中で印象が大きく変わっていた。
以前から、特別大きな問題を起こす生徒ではない。
約束は守るし、規則も破らない。
学園を抜け出すこともなく、風紀を乱すこともない。
それでも――彼は、自分の在り方を決して変えない。
自分から人に話しかけることはなく、
過度に試合を求め、勝つことに極端なほど執着していた。
聞くところによれば、自分の戦い方に病的なほどこだわり、
稽古でも竹刀を持つことさえ嫌がることがあるらしい。
「竹刀も持たない剣士学園の生徒って……変わってる」
澪は小さくため息をついた。
だが同時に、どこか興味深くもあった。
ーーーーーーーーーー
昼休みが終わり、道場には楠木先生のクラスから数名の一年生が集まった。
澪はすでに整列して待っていた。
「おはようございます、湊川先輩」
一礼して、春日の方から澪に挨拶をしてきた。
「……おはよう」
澪は少しだけ驚きながらも、短く返す。
春日はそれ以上何も言わない。
挨拶だけを残し、すっと列へ戻る。
二年生たちは、その様子に少し戸惑っている。
だが――むしろ驚いているのは一年生たちだった。
(……本当に、クラスで浮いていたんだ……)
澪は小さく息をつく。
それでも、春日がそこに立っているだけで、道場の空気が自然と締まるのを感じた。
楠木先生の合図で、軽い組手が始まる。
春日は竹刀を構え、相手の動きを静かに観察する。
(あれ……?
竹刀を握るの、嫌がっていたんじゃなかった?)
聞いていた話と違う。
「行くぞ!」
二年生の一人が踏み込む。
春日は淡々と間合いを測り、相手の竹刀を受け止めた。
次の瞬間。
軽く竹刀を弾かれ、相手が戸惑う。
「……えっ」
春日は表情を変えない。
わずかに踏み込み――
相手の小手を、手刀で制した。
(……速い……)
二年生たちが小さくざわつく。
思わず顔を見合わせた。
(真横で見ると……想像していたより、ずっと上手い)
澪は春日の動きを見つめながら思う。
(前から見てきたけど……やっぱり、強い)
心の奥で、少しだけ興味が膨らむ。
次の相手が踏み込む。
だが春日は余裕を持って受け止める。
ただし、打ち込むことはしない。
必要な間合いだけを保っている。
「……ほう」
楠木先生も目を丸くした。
「春日、見事だな……」
澪は小さく頷く。
(やっぱり、あの子……自分の道を曲げない)
(でも、その芯の強さは……本物だ)
組手が一通り終わると、春日は端へ戻り、何事もなかったかのように次の稽古の準備を始めた。
春日が最後まで竹刀の稽古を行ったことに、一年生たちはざわついている。
しかも組み手では二年生を全て制圧してた おのずと視線は春日に集まっていた。
澪はその背中を見ながら、静かに思う。
(この子、どれだけ問題児だったの?)
道場の空気は、少しだけ引き締まったまま、時間が過ぎていった。
(……やっぱり 速い)
遅れて道場に入ってきた雪
視線は、まっすぐ春日に向いていた。
ただ速いだけではない。
無駄がない。
竹刀を持っていても、持っていない時と同じ体の使い方をしている。
(あの子……竹刀の稽古をしていないって聞いたけど)
それでも動きに迷いはない。
むしろ――
(竹刀に合わせている)
雪は小さく目を細めた。
竹刀を操るのではなく。
竹刀に自分の動きを重ねてる。
普通は逆だ。
「……変な子」
小さく呟く。
稽古が終わり、生徒たちは竹刀を片付け始めていた。
澪も雪と並んで名簿をまとめながら、軽く息をつく。
(思ったより、何も起こらなかったな)
その時。
「湊川先輩」
後ろから声がした。
振り向くと、春日が立っていた。
「……どうしたの?」
春日は少しだけ考えるように間を置いた。
「先ほどの稽古、ご指導ありがとうございました」
「鎬の使い方のこと?」
澪は少し肩をすくめる。
「まあ、楠木先生に頼まれただけだけど」
「勉強になりました」
澪は少し驚いた。
その様子を見て、横で書類を見ていた楠木先生も目を丸くしている。
春日が誰かに礼を言うところを、あまり見たことがない。
「別に大したことしてないけど?」
「それでもです」
短く言う。
それ以上、言葉は続かない。
沈黙が落ちた。
澪はふと気になって聞く。
「……ねえ、春日君」
「はい」
「竹刀、嫌いなんじゃなかった?」
春日は一瞬だけ視線を落とした。
「はい」
即答だった。
澪は思わず笑う。
「じゃあ、なんで持ってるの?」
春日は少し考えてから答えた。
「学園の稽古だからです。
それに……今日は湊川先輩がいると楠木先生から伺っていました」
「学園の稽古はわかるけど……私がいるから?」
「はい」
「それだけ?」
「それだけです」
一瞬、間を置き――
「それが大切でした」
澪は小さく息をつく。
(本当に、この子は変わってる)
だが、不思議と嫌な感じはしない。
むしろ少し面白い。
「……まあいいや」
澪は書類をまとめながら言った。
「でもね」
隣に立つ雪の方を軽く見る。
「本校筆頭の本山さんも、春日君の動き見てたよ」
春日の表情が、ほんのわずかだけ変わった。
「気づいてたでしょ?」
「はい」
短い返事。
春日は静かに雪を見る。
雪もまた、何も言わずに春日を見ていた。
澪は少しだけ笑う。
「気になる?」
春日は一瞬考えた。
そして、静かに答える。
「本山先輩は、学園の筆頭ですから」
わずかに間を置く。
「そのうち、手合わせをお願いしたいと思います」
「そして、勝ちます」
それだけ言うと、軽く一礼する。
「では、失礼します」
春日はそのまま道場を出ていった。
静かに閉まる戸。
澪はその背中を見送りながら、小さく息をつく。
「ふーん……」
そして横に立つ雪をちらりと見る。
「雪には勝ちます だって。どうする?」
雪はしばらく春日が去った入口を見ていた。
そして、ふっと小さく笑う。
「……別に」
「逃げる気はないよ そして、私は負けません」
澪は肩をすくめる。
「だと思った」
道場には、もう夕方の光が差し始めていた。
雪は静かに呟く。
「でも」
「本当に……変な子」
その声は、少しだけ楽しそうだった。




