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ある冒険者の話  作者: 整腸剤神
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待機任務 二

 二日目は雨だった。

 夜明け前から世界は灰色に塗りつぶされていた。空と地の境界線が曖昧な霧に包まれ、やがてそれは、音もなく冷たい雨へと変わった。冬の雨は冷たく、鋭い針のように肌を刺した。

 勢いを弱くした焚火の上に雨避けの布を張り、天幕の下でじっと身体を縮めて待つ。

 火の爆ぜる音も、呼吸も、雨が絶え間なく天幕を叩く雨音に飲み込まれていく。湿った薪が上げる灰色の煙が、天幕の下に滞る。

 視界は雨で煙る。

 このままでは、誰かが丘を登ってきても、見逃してしまうかも知れない。不安に駆られ、 外套を羽織り外に出る。三度ほど、雨に打たれながら丘の周囲を見回った。けれど、視界に入るのは泥濘と、項垂れた枯草だけだった。

 何も見付けられずに天幕に戻ると、焚火が冷たい灰に変わっている。

 指先が凍えて思うように動かない。濡れた服が氷の膜のように身体に張り付き、体温を奪い去っていく。それでもすぐに火を起こすことができた。濡れた上着を脱ぎ、予備の布で身体を拭い、火の前で身体を温める。いつか川岸で、必死に火を起こして身体を温めたことを思い出す。あの頃よりも幾分かは、火を起こすのが上手くなった。

 火の粉が爆ぜるたび、天幕の影が揺れる。天幕の外では雨がさらに勢いを増していた。

 座ったまま膝に顔を埋める。雨音だけが世界のすべてになった。

 身体を抱きしめるようにして眠る。

 雨が降るうちは、まだ雪は降らない。たぶんきっと。


 三日目。目を覚ますと雨音は止んでいた。

 目を擦りながら外へ出ると、昨日までの灰色が嘘のような、抜けるような蒼天が広がっている。雨に洗われた冬の太陽が、地平線の端から鋭く、けれど確かな光を投げかけていた。

 外套と布切れ、服と靴下。昨日散々濡れてしまった諸々を測量標柱に繋げた紐にぶら下げて干す。

 ここ数日の無理がたたったのか、お気に入りの靴下に穴が空いているのを見付け、小さく落胆する。冒険者とは、こうして少しずつ、自分の持ち物が削り取られていくものなのだろう。

 乾燥させた麺麭を火の傍らでじっくりと炙り、表面が色づくのを待つ。湯を沸かし、持参した唐辛子の粉をたっぷりと振り入れた。一口啜ると、喉から胃にかけて熱い刺激が走り、凍りついていた身体の芯が、内側からほぐされていくようだった。

 食事を終えるとまた待機が始まる。

 空気が澄んでいるせいか、丘の下にある村の生活音が、驚くほど近くに感じられる。誰かが薪を割る音。

 それらの音に耳を澄ませながら、依頼人のことを考える。

 ――初雪が降るまでには戻ると言った恋人。

 待ち人は今、どこにいるのだろう。道中で何か不測の事態に巻き込まれたのだろうか。それともまさか、約束を忘れてしまったのだろうか。

 考えてみれば、依頼人も、どうして自分で待たないのだろう。ああでも丘はずいぶん寒いから、体調を崩すか何かして、ここで待つことが難しいのだろうか。

 そこまで考えて首を左右に振る。いつか誰かが言ったとおり、依頼の背景を問うのは三流だ──その時、がさり、と背後の茂みが鳴った。

 慌てて立ち上がり音がした方へ走る。誰何の声をかけても返事はない。またがさがさと葉が擦れる音が鳴って、現したのは一羽の野兎だった。兎は長い耳をぴくりと動かし、丸い目でこちらを一度だけ見つめると、小馬鹿にするような素早さで森の奥へと消えていった。 大きなため息が白い霧になって冬に漏れる。

 兎が去った後の静寂の中に、まだ誰かの気配が混じっているような気がして、しばらくの間その場を離れることができず、何度も周囲を見回した。

 結局、その日も太陽は無関心に沈み、約束の人は現れなかった。

 夜が訪れる。空には、零れ落ちそうなほどの星が冷たく光を放ちながら瞬いていた。

 その夜は眠らずに待った。もしかしたら、待ち人が夜に訪れるかも知れなかった。


 四日を過ぎ、五日目。曇天の下で、息を吸って吐く。今日は一段と冷え込みが強い。風はなかったが空気は氷のようだった。足先の感覚が鈍くなり、靴底で土を押し小さく震わせて体温を取り戻す。

 夕餉の煙が村の家々から上がり、慎ましい教会の鐘の音が一度、二度。周囲が夕闇に染まっていく。

 何も見つけられないまま、また一日が過ぎる。終わりが訪れたのはそう思った時だった。

 砂粒ほどの何かが頬に触れてすぐに溶けた。

 視線は上げない。けれど目を逸らすこともない。

 二つ目の雪粒が、手袋の甲に落ちて細い星型に滲んで消える。三つ目はしばらく宙を舞ってから靴先に落ち、白く留まりしばらく動かない。四つ。五つ。草原に一つずつ、白い点が静かに増えていく。

 ――着雪確認。

 依頼票に書かれた無機質な達成条件が、胸の中に落ち込んでいく。

 雪が降り始め、それでもしばらくの間、約束の丘の上で姿の見えない誰かを待った。

 白い雪が降り積もっていく中、夕食に賑わうはずの家々の音も、鳥の声も、やわらかい布の向こう側に押し込まれたように遠い。

 指先が寒さに痺れていく。自分の形だけをくり抜くようにして、ところどころ枯れた草花に雪が積み重なる。

 まだもう少し。

 雪が肩に降り、髪に積もり、睫毛のうえで細かく震えるまで…丘の上でただひとり名前も声も知らない誰かを待った。


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