01. ベッドメイクと誘惑
窓を開けると、陽光をたっぷりと含んだ昼下がりの風が、花の都フィオーレの香りを連れて舞い込んできた。
街中を彩る花々の芳しい吐息。
その生気に満ちた空気を胸いっぱいに吸い込み、チェリーは陽だまりのような微笑みを後ろへと向けた。
「さあ、お部屋のお掃除を始めましょうか」
この部屋の主、フィオーレ王国の第一王女サクラ。
その人こそが、チェリーが幼少期から二十年という歳月を専属メイドとして仕えてきた誇り高き御方だ。
携えてきた掃除道具の中から柔らかい布巾を取り出す。
豪奢な大ぶりの姿見を、一点の曇りもなきように磨き上げていると、鏡の中に映る自分のワインレッドの瞳と目があった。
低い位置できちりと結ばれたワインレッドの髪も、糊のきいた純白のエプロンも、主の威厳を損なわぬよう完璧に整っている。
よし、と小さく呟き、チェリーは鏡面を端まで磨き終えた。
「チェリーさん、ベッドメイクを手伝っていただけますか?」
背中に届いた、穏やかでありながら理知的な響きを湛えるその声に、チェリーはわずかに目を細めた。
この半年の間にようやく聞き慣れてきた、新しい同僚の声色だ。
「はい、わかりました」
チェリーは声を弾ませて応じると、ベッドの傍らへと歩み寄った。
対面のメイドが白く細い指でさらりとした絹地を差し出す。
その白い布の端を受け取りながら、チェリーは睫毛の隙間から同僚の姿をそっと盗み見た。
互いの指が触れそうなほどの至近距離。その人は端正な顔立ちを伏せて、手元のシーツへと視線を落としていた。
サクラの妃であるルリの専属メイド――キウイ。
城で唯一の宮廷魔術師という、本来なら掃除の真似事など必要のない身分でありながら、自ら望んでこの仕事に身を投じた稀有な人物だ。
まだ記憶に新しい、国中を祝福の渦に巻き込んだサクラとルリの結婚式。
人間と人魚という種族の壁を超え、真実の愛を誓いあった二人の仲睦まじさは、今や近隣国の間でも語り草となっている。
キウイがルリの専属メイドの身分を強く志願したのは、その幸福の象徴ともいえる人魚のルリ――類稀なる『魔力生命体』という存在への知的好奇心ゆえだという。
最初は拙かったその仕事ぶりも、半年の間にすっかり成長した。
宮廷魔術師としての重責を果たす傍ら、メイド服に身を包んでチェリーの隣に立ち、ルリの側仕えの役目を完璧に果たしている。
襟足を覗かせるほど短く整えられた茶髪は、風を孕んだような自然な流れを保ちながらも、王城に仕える者としての品格と清潔感を湛えている。
その奥にあるのは、常に新たな真理を求める玲瓏たる瞳。
――どこまでも深い好奇心の矛先が、時にチェリーの平穏を脅かすこともあるのだが。
床や壁の素材に合わせて、その摩擦係数まで計算し使用する布巾を厳選してみたり。
掃除の動線に一切の無駄が生じぬよう、緻密な行動計画を熱弁してみたり。
チェリーには思いもよらない、理知的で――けれど時に的外れな情熱が籠められた数々の提案には、感心させられることもあれば、激しい困惑に突き落とされることもあった。
『お二人が身軽に街歩きを楽しめるよう、荷物持ちとして随行しましょう』――そんな理由でサクラとルリのデートへの同行を真面目な顔で進言された時は、呆れながら却下するほかなかった。
その日のことも、やはり唐突なキウイの提案から始まった。
「サクラ様とルリ様のベッド……いつも思いますけど、とても気持ちよさそうであられますよね」
手際よくシーツの端をぴんと張るキウイが、不意に独り言のように零した。
「そうですね。王族のお二人がお休みになる場所ですから。私たち使用人のものとは文字通り、質が違いますね」
チェリーもその言葉に同意し、指先に触れるその柔らかな感触に意識を向けた。
指先を吸い付くように滑る絹の布地は、平民の身では一生縁のない贅沢な心地よさを伝えてくる。
「そうですよね……ねぇ、気になりませんか。この青空に浮かぶ雲のようなベッドの寝心地」
「ちょっと、キウイさん? また何か良からぬことを企んでいますね?」
チェリーが嗜めるように視線を向けると、キウイは至って真面目な――曇りなき探求者の顔つきで言葉を繋いだ。
「これは千載一遇の好機なのですよ。今日はお二人は公務にて外出していらっしゃり、夕方まで決して戻られません。つまり私たちがこのベッドを一時的に拝借しても、帰ってくるまでに完璧に整え直せば、因果関係は消失するということです。ほら、チェリーさん……胸のうちで沸々と好奇心が疼いてきませんか?」
「ふざけたことを言ってないで……ほら、お仕事を続けますよ、キウイさん。そちらをもう少し引っ張ってください」
じっとりと冷ややかな視線を送ると、キウイは大袈裟に肩を落とした。
「はぁ……チェリーさんは本当に真面目であられますね」
その言葉が午後の静寂に溶けると同時に、キウイはシーツを張る力を強めた。
その様子に安堵し、チェリーも目の前の作業へと意識を戻す。
洗濯したばかりの絹地を緩やかに波立たせ、空気を逃がしていく。
しばらく部屋を満たしたのは、風に揺れるカーテンの微かな音と、二人で広げるシーツが奏でる滑らかな衣擦れの音だけだった。
言葉を交わさずとも、互いの指先が次に求める場所を察している。
共に過ごした時間はまだ半年ほどだが、その静かな連帯感はチェリーにとって心地のよいものだった。
シーツを整えたあと、キウイが純白の羽毛布団を手に取った。
ふわりと膨らむ掛け布団を、二人で息を合わせてベッドの上へと広げる。
さらにその上から薄手の毛布を丁寧に重ね、皺一つ、埃一つ残さぬように丁寧に整えた。
眼前に広がる、完璧に仕上がった一点の隙もない王族のベッド。
それを見届け、チェリーは満足げに、ふう、と達成感の籠もった吐息を漏らす。
その、静寂が戻った瞬間だった。
「ふふっ、今日も完璧なベッドメイクです。……そして」
キウイの満足げな呟きとともに、その身体から、ふっと力が抜ける。
――ぼすっ。
羽毛布団にたっぷり含まれていた空気が一気に押し出され、重厚でいて柔らかい、安らぎの溜め息のような音が部屋に満ちた。
「あっ、ちょっと、キウイさんっ!」
咄嗟に伸ばしたチェリーの指先は空を切り、キウイの身体はベッドの中央へ吸い込まれるように沈み込んだ。
「いやあ……不可抗力です。足がもつれて倒れてしまい……ちょうどよくベッドが受け止めてくれたおかげで助かりました。しかし……ああ、これは、いけません。……全身の力が抜けてしまうほど、心地よい、です……」
キウイは蕩けるように目を細め、上質な絹地に頬を擦り寄せた。
白銀の平野に、無慈悲な皺が刻まれていく。
「も、もう、キウイさん! 早く起きてくださいっ! ああ……ベッドメイク、やり直しじゃないですかっ!」
「まあ落ち着きましょうよ、チェリーさん。私が転んでしまった以上、やり直しは確定事項です。ならば、その前に寝心地の検証を完遂させるのが合理的だとは思いませんか?」
キウイはベッドの上を転がって仰向けになると、悪戯っぽく、誘うような微笑みを浮かべながら、チェリーへとすらりとした指先を伸ばした。
「ほら、このベッド……独りで占めるには広すぎます。せっかくなので、チェリーさんも、どうぞ?」
「――――っ!!」
チェリーの喉が鳴った。
視界の先には、抗いがたい羽毛の誘惑。
主のために毎日整え続けてきた聖域が、今は無防備にその身を晒している。
規律正しいチェリーの心の中で、専属メイドとしての矜持と、剥き出しの好奇心がせめぎ合う。
「も、もう、ふざけてないで、はやく……」
「いやあ……ふかふかすぎて、なかなか抜け出せません。私ばかりこんなにいい思いをして申し訳ないですねぇ。せめてチェリーさんが一緒なら、罪悪感も和らぐのですけれど」
キウイがわざとらしく、甘い台詞を紡ぐ。
(そんな、ダメですっ。…………でも、ほんの、少しだけなら、サクラ様も、きっと……)
自分に言い訳を唱えるようにして、チェリーは吸い寄せられるようにベッドへと歩み寄る。
そして、キウイの隣にある悪魔的な余白へと、恐る恐るその身を投げ出した。
――ぽすっ。
羽毛が優しく空気を逃がし、身体がゆっくりと深奥へ沈んでいく。
想像を遥かに超えた極上の柔らかさに、全身の強張りが嘘のように解けていった。
二つに結ばれたワインレッドの髪が、純白の布の上に音もなく広がる。
それはまるでこぼれた葡萄酒のように、白いシーツと鮮やかな対比を描き出していた。
柔らかに波打つ布団に刻まれた皺が、昼下がりの光を受けて淡い影を落としている。
(ああ……やってしまいました)
悪いことをしているという自覚はある。
だがそれ以上に、心の内側から抑えられない愉快さと可笑しさが込み上がってくるのを止められなかった。
「……ふふっ。キウイさんを見ていたら、私も足を滑らせてしまいました。たしかにこれは、気持ちがよいものですね」
目を閉じて深呼吸をする。
胸を満たす清涼な空気と、全身を包み込む羽毛の柔らかな感触に、日々の疲れが溶け出していくようだ。
しばしの極上の休息を堪能してから、チェリーは仕事に戻るべく隣の同僚へと視線を向けた。
「さあ、キウイさん、おふざけはいい加減にして…………っ、ひゃっ」
目を開けた瞬間――至近距離でキウイの緑色の瞳に射抜かれていた。
そこに宿っていたのは、いつもの純粋な探究心とは違う――ほんの一瞬だけ仮面の奥から零れたような、ひどく切実な熱だった。
とくん、と心臓が跳ね、肺から空気が消え失せる。
その瞳が微かに揺れたように見えたが、今のチェリーにはその理由を考える余裕などない。
「な、なな、なんですかっ」
「…………っ」
キウイが喉を鳴らし、わずかに息をのむ気配が伝わってくる。
まるで次の言葉を忘れてしまったかのような、ほんの一瞬の沈黙。
けれどキウイはすぐに、いつもの飄々とした笑みをその唇に貼り付けた。
「…………いえ。まさかチェリーさんが私の誘いに乗ってくださるとは、想定外でした」
その声が、ほんの一瞬だけ震えたように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「ふふ……これは思いがけない収穫です。よく見ておくことにしましょう。私たちは……共犯、ですから」
悪戯っぽく細められた瞳に吸い込まれてしまいそうで、チェリーの胸の中では心臓が早鐘のように鳴り響いていた。
共犯――そんな甘い毒を含んだ言葉が耳元で熱を帯びて弾け、冷静さをじわりじわりと蝕んでいく。
「わ、悪いことはしていませんっ! 私も、転んでしまっただけなのですからっ」
必死に紡いだ言い訳は、自分でも驚くほど上擦っていた。
この顔の熱と、服の上からでも漏れ出しそうな鼓動の音をキウイに悟られれば、間違いなくからかわれてしまう。
一刻も早くこの場を離れようと、チェリーは強張った指先で身体の下に広がる滑らかな絹地を掴もうとした。
けれど、激しい鼓動から伝播した震えに支配された手足は、まったく言うことをきかない。
逃げるどころか、顔を背けるのが精一杯だった。
そうしたがゆえに、チェリーは見ていない。
逸らした視線のすぐ側で、逃げ場を奪うように自分を捕らえて離さない、キウイの眼差し。
その奥に、理性を溶かすほどのどうしようもない渇望が宿っていたことを。
シーツに沈んだまま震えが止まらないチェリーが、その瞳の奥に宿った決意に気づく術は、まだ、なかった。




