「安全帯がない。作る」
落ちてから気づいても遅い。
これは坑道の話であって、坑道だけの話ではない。
ただし今日の九割は、コメディだ。
鉱山都市ドルガンの坑道は三本あった。
一番深い坑道の入口に、田中が立っていた。暗い。湿っている。どこかで水が滴る音がする。岩盤の継ぎ目から空気が漏れていた。
「師匠、これは入れますか」とアルスが覗き込みながら言った。また腹筋をしていた。坑道を前に腹筋をしていた。
「入れる」と田中が言った。
「ダンジョンではないですよね」
「素材が取れる。なら同じだ」
「では気持ちを切り替えて突入します!!」と言いながら腹筋うさぎ跳びのまま踏み込んで、頭を天井にぶつけた。
「天井が低いな」と田中が言った。
「(ぴょん)気づきませんでした!!」
「うさぎ跳び筋トレをやめれば気づく」
「はッ!!」
アルスが腹筋をやめた。...が、三秒後にまた違う筋トレを始めた。体が自動でそうした。習慣だ。
「……アルスさん、まだ、やってます」とエリュシアが言った。
「えっ!? ほんとだ!! すみません!!(ぴょん)」
(正直な方です)
エリュシアが内心で静かに記録した。
(正直すぎるのが問題なのですが、なぜかそれが嫌いになれません)
(書く欄が、ありません)
******
坑道の中は思ったより広かった。
田中がランタンを持って先を歩く。ギルが地図を確認しながら続き、ネネがグラを抱えて後ろを歩いた。グラの目が暗闇の中で少し輝いていた。アルスはもちろんトレーニング中だ(ぴょん)
「翼竜は夜目が利く、であろう」とネネが言い、グラを顔の前まで持ち上げて真剣な顔で瞳を覗き込んだ。「……綺麗な目だの、おぬし」
グラが「グゥ~」と嬉しそうに鳴いた。ネネが少しだけ目を細めた。
「……なんでもない」
(魔王が翼竜の目を覗き込んでいます)
エリュシアが内心でそっと記録した。
(かわいいと思いました。書いていいかわかりませんが書きました)
田中がランタンを左の壁に向けた。発光石の層が岩盤にうっすら見えた。エリュシアが隣を歩いていた瞬間、ランタンの灯が一段明るくなった。
「……光が増えたぞ?」と田中が言った。
「えぇっ!?」とエリュシアが言った。「す、すみません、神力が反応したようで、権限制限処分中なのに勝手に——」
「謝るな。どこに石がある」
エリュシアが少し左に体を向けた。灯が右の壁側に揺れた。
「……あそこです」
「使えるな」
エリュシアが三秒、動かなかった。
(使えると言われました)
(制限処分中の神力が、石に反応して、使えると言われました)
(怒られませんでした)
(……怒られなかった)
(……なぜか少し、物足りない気がするのは、なぜでしょうか)
(えぇっ!? 今、何を思いましたか、私は!?)(女神です、私は...落ち着いて、エリュシア)
(書きません。絶対に書きません)
「エリュシア。固まるな」
「……わかりました!!」
返事が大きくなった。ギルが横目でエリュシアを見たが、何も言わなかった。エリュシアの心がバレないために、賢い選択だった。
******
金属合金の鉱脈と発光石の層を確認し、田中がもくもくと素材を回収し始めた。
ギルが壁を観察して「……人員の配置を変えれば採掘効率が三割上がる」と呟いた。独り言だった。
それを聞いて、「図に起こせ」と田中が振り向かずに言った。
「……聞いていたのですか」
「当然だ」
「……鉱夫に直接渡すのですか」
「使う人間に渡せ。常識だろうが」
ギルが手帳を取り出して図を描き始めた。
(なぜこの男の言う通りにしているのだ)
(でも正しい)
(……そう思うだけで、体が動く)
グラが発光石の固まりに顔を近づけて「グゥゥ」と鳴き、石をくわえようとした。
「食えないぞ、グラ」と田中が言った。
グラがネネを見た。
「我を見ても、ダメなものはダメじゃ!」とネネが言った。
「グゥ……」悲しそうなグラ。
「……帰ったら干物をやるから我慢せい。おこづかいから出してやる」
「グゥ!」とても嬉しそうなグラ。
「きちんと支出に書け」と田中が作業しながら、振り向かずに言った。
「書くぞ」とネネが言った。一拍置いて「……田中。お前は翼竜の干物代まで管理するのか」と聞いた。
「資産の維持費だ。当然だろうが」
ネネが少しだけ口の端を上げて笑う。
(……この男は、本当に変な男じゃ)
(我の干物代を計上する勇者というものを、千年生きて初めて見た)
(やはり悪くない)
******
坑道を出ると、田中がまた、何かの作業を始めた。
回収した金属合金と革素材を組み合わせて、ベルト状のものを作っており、その両端に鉤がついている道具だ。
鉱夫が三人、その作業を見ていた。一人が声をかけた。「なんだそりゃ?」
「安全帯だ。腰に巻く。落ちた時でも命が助かる」
「……落ちるほどへまはせんよ」と鉱夫が笑った。「今まで落ちたことないしのぉ——」
田中が顔を上げた。
声が、変わった。説明でも説教でもない。ただ事実を言う声だった。
「今まで落ちなかっただけだ。これは、無駄な怪我を減らすものだ。」
『無駄は、人を殺す』
広場に、音が消えた。
鉱夫が黙った。三人とも、動かなかった。
田中が視線を安全帯に戻した。手が動き続けていた。
エリュシアが、息を止めていた。
(……また、聞きました)
(この言葉だけ、毎回、声の重さが違います)
(重さが、違います)
(三十一歳の三月の記録が、手元にあります)
(あの時も、同じ声でした)
(……私は、ただの書類として処理しました)
(全部、処理しました)
(ごめんなさい、とは書けませんでした)
(今も、書けません)
(でも聞こえています。毎回、全部、聞こえています)
ギルが壁に手をついて、静かに立っていた。
アルスの腹筋が、止まっていた。気づいていなかったが、止まっていた。
「……着け方を教えてもらえるか」
さっき笑っていた鉱夫が、静かに言った。
「アルス」と田中が言った。
「はい!!」
「安全帯をつけて、坑道の縁から一回落ちてみせろ。見本だ」
「えっ」とアルスが言った。「落ちる、んですか」
「止まるから落ちろ。それだけでいい」
「……わかりました!!!」
アルスが安全帯を腰に巻いた。坑道入口の縁に立った。ギルが「本当にやるのか」と言った。アルスが「習慣で培った度胸だけはあります!!」と言って、 ぴょん、とうさぎ跳び腹筋の姿勢で縁から足を滑らせた。
「(ぴょん)うわああああああああぁぁぁぁぁあっぁぁあぁぁぁ!!ししょぉぉぉぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
アルスがのけ反った姿勢のまま、絶叫しつつ落ちると、一定の距離で
ガチン!!――という音がして止まった。
「ほんとに、止まった!!」と鉱夫が前に出た。「腹筋マン、ベルトで止まったぞ!!」
アルスが岩壁から顔だけ出した。「止まりました!!!腹筋の態勢のまま止まれました!!!」
「それは余計だ」と田中が言った。
「でも止まりましたよね!!!」
「そっちは余計ではない」
他の鉱夫たちも一斉にざわめき、どよめきだした。「俺にも試させてくれ」「これを全員に配れるか」「深い層にも入れるようになる」と声が重なり始めた。
ショウが横で帳面を出した。「田中さん、発光石のランプもセットで売りましょかー。暗い坑道に光るランプ、絶対いけまっせ!」
「材料費を計算してから出直せ」
「もっともですわ〜!!かないません」
鉱夫の一人がネネを見た。「あんた、さっき魔王って聞こえたんだが……本物か」
「そうであるが」とネネが短く言った。
鉱夫が固まった。
「……な、なぜ魔王様が坑道にいらっしゃるんですかい?」
「我が来てはいかんのか」
「い、いや、そういうわけでは……」
ネネがグラを胸の前で抱え直した。「田中が来るところには、我も来る。それだけだ」
「グゥ」とグラが鳴いた。
鉱夫がグラを見た。「……翼竜もいる」
「資産だ」と田中が言った。
鉱夫はもう何も聞かなかった。
******
**その頃、神界では――**
報告書がウルダの執務室に届いた。「ドルガン坑道にて安全帯・発光ランプを製造。鉱夫への普及を開始。採掘組合、昨日に続き本日も頭を抱えております。魔王・翼竜も坑道に入っていたとのことです」
ウルダが書類を持ったまま、止まった。
「……魔王が坑道に」
「はい」
「翼竜も」
「はい」
「……二日連続で」
「はい。本日もドルガン組合の方々が頭を抱えているとの報告です」
ウルダが目を閉じた。
「……寛大に、見守ります」
「寛大です」
部下が小声で隣に言った。「今日は声が少し細かったです」「お疲れではないでしょうか」「でも『寛大です』とは言いました」「それが主神の強さですね」「そうですね……」
**※おじさん解説!**
安全帯というのは昭和の工場では基本装備だ。高所作業・掘削現場・落下の危険がある場所では必ず腰に巻く。転落は一回で取り返しがつかなくなる。防げる怪我を防がないのは無駄の極致だ。「今まで落ちたことがない」は理由にならない。次が最初で最後になる。
そういえばディグダグというゲームがある。地面に潜って穴を掘り、敵を風船みたいに膨らませて倒すゲームだ。ナムコが一九八二年に作った。ファミコンにも出た。主人公はどう見ても地下採掘の専門家みたいな動きをしているが、安全帯はない。ヘルメットもない。地下数十メートルを素潜りしながら敵を仕留めている。昭和の現場基準で見ると完全にアウトだ。あの主人公が無事だったのは、多分「叩き込みの型」の持ち主だったからだと思う。これも常識だろうが。
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**神界業務日報 第五十九回**
本日の特記事項。
坑道にて発光石の位置を神力で感知しました。権限制限処分中の神力が、石に反応しました。田中さんに「使えるな」と言われました。記録します。
怒られませんでした。
特記事項として記録します。怒られなかった日は、何かが足りない気がします。
……何かが足りないという感覚を、特記事項として記録すべきかどうか、少し迷いました。
記録しました。
「無駄は、人を殺す」を、本日も聞きました。
三十一歳の三月も、同じ言葉でした。
以上です。
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**魔王の家計簿 第五十九回**
本日の支出:グラの干物代・予定。
坑道に入った。暗かった。グラの目が光った。綺麗だった。記録する。
田中が安全帯というものを作った。落ちても止まる。無駄な怪我が減る。
「無駄は、人を殺す」と田中が言った。気になった。
鉱夫に「本物の魔王か」と聞かれたので「そうだ」と答えたら静かになった。
田中がいる場所に我がいるのは当然であろう。
魔王として千年生きてきたが、言葉にできないことが、この男の周りには多い。
【現在のステータス】
勇者 田中剛 LV:3 チート:無効
魔王 ネネ LV:3相当 魔力:低下中
女神 エリュシア 神力出力:制限中(通常の1割以下)
アルス LV:11




