「書類は全部論破できる。常識だろうが」
朝の宿。昨日より分厚い書類の束があった。
カーヴェがテーブルの上で分類している。イースの写本・並行世界介入記録・ゼフィーラが持ち込んだ妨害書類の原本、それぞれを照合すると一つの結論が出る。
神界が「規定」と呼んできたものの全てが、根拠のない後付けの正当化だ。
「神界に送りつける」と田中が言った。
「書類で来たなら書類で返す。常識だろうが」
カーヴェ「送付手段は神界側が管理しています。エリュシア、担当権限で——」
「送れます」とエリュシアが言った。「規定外ですが」
「あなた最近その言葉の頻度が上がってますよ」
「……把握しています」
「把握した上でやってるってことね」
「そういうことです」
田中が書類の束を一冊に束ねた。表紙に一行だけ書く。
*神界規定の根拠照会請求。回答期限:一時間以内。—— 田中剛*
カーヴェが固まった。「……一時間!?」
「それ以上かかるなら答えられんということだ」
「神界への照会は通常一週間以上の処理期間が——」
「無駄だ。削れ《ノーサンキュー・プライスカット》」
エリュシアが内心だけで言った。
(……一週間が一時間になりました)
「送りました」
「よし。待つ」
アルスが腕立てをしながら「来るでしょうか師匠!!」と言った。
「来ないなら無視だ。無視は認めたのと同じだ」
ウルダが、四十分で来た。
******
転送光がいつもより速かった。
白衣に金の装飾。ウルダ——主神SEGA神が、書類を携えて現れた。表情は穏やかだが、いつもと何かが違う。焦りではない。急いで来た者の顔だ。
「四十分か」と田中が言った。「悪くない」
「……田中。この書類の送付について——」
「うるさい黙れ。回答を聞く。一点目。並行世界への介入記録。神界規定上の根拠は何だ」
「それは上位決裁——」
「上位決裁の根拠となる規定は何だ」
「……」
「答えられんなら論外だ。はい、次!」
カーヴェが二枚目を出した。「妨害書類の発信元がSEGA神の決裁経路を通っていない。正規の神界書類ですか」
「……確認が——」
「確認できていないなら偽書類です。次」
エリュシアが三枚目を出した。声は静かだが、一言一言が相手に落ちていくような話し方だった。
「田中の申請、二十三年分の全却下。決裁者の名前がどの書類にも記載されていません。神界規定第八条の記録義務違反です」
「……それは——」
「答えられませんか」
SEGA神が長い間、黙った。
そこで田中が懐から神タバコを取り出して火をつけた。一服した。吸い終えると、そのまま床に落とした。
エリュシアが止まった。「……田中さん。屋内で——」
「吸ったら捨てる。昭和はそうだった」
SEGA神が書類から顔を上げた。「神界では火気の取り扱いに関する規定が——」
「SEGA神。さっきからお前の書類には根拠がなかった。この件の根拠を出せるか」
SEGA神が止まった。
(……出せない)
全員が口を開いた。声が重なった。
「「「なぜポイ捨てが論破されているんですか!!!」」」
「常識だろうが」
ゾルグが小声でネネに言った。「……魔王様。昭和では屋内で煙草を——」
「黙ってろ」とグレインが言った。
「はいッ!」
SEGA神が一度目を閉じた。また開いた。何かを決めたような顔だった。
「……三点、認める。記録の不備。発信元の不明確な書類の存在。並行世界介入の説明責任。これは私の権限で対応できる」
「できない点は何だ」
少し間があった。
「……書類の最終発信源については、私も全てを把握していない」
カーヴェが手元の資料を見た。その手が止まった。
「……ウルダ様。この書類の発信源のログ、ウルダ様のシステムと互換性がない。別の経路から来ています。神界の管理外の書類です」
「……」
田中がSEGA神を見た。
「独自規格か。外から見えない。互換性がない。全部囲い込む」
一拍置いた。
「つまり、悪魔のSONYだ」
エリュシアが止まった。「……何ですか、それは」
「敵の名前だ。神界の上に、神界とは別の管理構造がある。そいつが全部仕切っている。姿は見せない。書類だけで動かす」
カーヴェが静かに言った。「……私が追えなかった部分はそこだった。技術記録のアクセスログに同じ形跡がある」
「お前でも追えなかったなら本物だ」
SEGA神が口を開いた。「……私も、詳細は知らない。規定の上にある規定が存在する。それだけは確かだ」
田中「今はいい。わかった分を使う」
******
SEGA神が書類を机に置いた。それまでと少し違う声になった。
「エリュシアよ」
「はい」
「これ以上の調査は——私の権限では止められない。だが、上からの指令が来れば、私もそれに従わなければならない。お前に迷惑がかかる」
エリュシアは動かなかった。「……それは命令ですか」
「私の……頼みだ」
部屋が静かになった。
エリュシアの頭の中を、何かが流れた。
田中が二十二歳の夜に一人でラインを直した記録。三十一歳の三月の記録。二十三枚目の改善提案書が却下された記録。四十六歳の後始末残業の記録。全部、自分が処理していた。全却下で。書類として。
(……もう一度、同じことをするのですか)
エリュシアが田中を見た。田中は前を向いており、こちらを見ていなかった。何も言わなかった。
エリュシアがSEGA神を見た。
「……調べます。私の判断で」
声に出た。田中に言われたからではなかった。カーヴェに続いたからでもなかった。SEGA神に向かって、自分から言った。
SEGA神が長い間、エリュシアを見て、何かを言おうとして、やめた。
そして、目を閉じた。
「……わかった」
それだけ言って、一歩引いた。
田中が「……」と、一瞬だけ止まった。それから次の書類を手に取った。
エリュシア内心:(怒られませんでした)(今日は物足りない、とは思いません)(……自分で言えました)(声には出しません。でも記録します)
******
神界書類の話が終わりかけた、その瞬間だった。
場の空気が変わった。
人型ではない。声もない。ただ、圧だった。形のない、しかし確実にそこにある何かが、部屋の中に降りてきた。
グラが田中の肩の上で「グゥ」と低く鳴き、翼を少し広げて臨戦態勢になる。
ゾルグが「……なんか、嫌な感じが」と言った。
グレインが腕を組んだまま固まった。「……強い。これは——」
田中がゆっくり腕を上げ始めた。
グレインが動きを止めた。視線が腕に向いた。「……腕が」
アルスが叫んだ。「師匠の腕が上がるぞ!!!」
ゾルグ「逃げろ!! 殺される!!!」
四天王が全員後退した。
ゼフィーラも下がっていた。二歩。
(……待て。私は何を。なぜ下がった。筆頭として——下がっていた?)
アルスが腕立ての姿勢のまま床を這って後退した。「……自然に下がってました俺!!!」
フィオが石を握ったまま三歩下がっていた。「……俺も後ろに下がった。理由がわからない」
カーヴェが壁際まで退いていた。「……条件反射の研究事例として——」記録を取ろうとしている。
「今書いてる場合か!!」(全員)
SEGA神も、半歩引いていた。
(……私も、下がっていた)(主神である私が後退した...)(何年ぶりだ、これは)
その圧は、一瞬で消えた。
田中「……」
黙ったまま、田中は腕を下ろした。
「気配だけか。まだ本体じゃないな」
「次は力を抑える」
「腕あげるのやめてください!!」(全員)
ネネがグラを膝で受け止めながら、静かに田中を見ていた。
カーヴェが息を整えながら言った。「あの圧……今後の重要課題ね」
「そうだな」と田中。
******
すべての神界書類について決着がつき、SEGA神が帰り際、エリュシアに短く言った。
「……笑っていたぞ、エリュシア。今日も」
「業務上の問題は——」
「そういうことを言っているのではない――」
光の柱が降りて、SEGA神が消えた。
エリュシアがしばらくその跡を見ていた。
(……笑っていたんですか、私)(以前にも言われました)(あの時より、今日の方が、なぜか納得できます)(声には出しません)
******
【神界審査記録】
対象:勇者田中剛
議題:勇者行動規範からの逸脱について
提出書類:八十二枚
田中による削減後:二枚
削除項目:
・儀礼的前置き
・責任者不明の伝統文
・効果未検証の慣例
・誰も読んでいない別紙
・別紙の別紙
最終確認。
ウルダ「……通します」
カーヴェ「通すんですか」
ウルダ「通ります。削られたので」
田中「それでいい、常識だろうが」
【結果:審査時間七割削減】
田中は席を立つ前に、書類の端を指で揃えた。
「不要な書類すべて、節約完了だ」
【神界職員一同:沈黙】
【担当女神エリュシア:内心崩壊中】
******
夜、縁側で田中が神タバコの残り一本に火をつけた。ネネが横に来た。グラが肩の上で目を閉じた。
しばらく誰も何も言わなかった。
「……怖くなかったのか」とネネが言った。例の圧のことだ。
「怖い」と田中が言った。
ネネが少し止まった。
「怖いから備えた。備えたから動ける。それだけだ」
煙草を最後まで吸い切って、今度は足元の灰皿に押しつけて消した。
エリュシアが内心だけで言った。
(……今度は消しました)
(報告書に書くかどうか迷っています)
(迷っているということは、書かないということです)
(それでいいと思います)
ネネが少しの間、田中を見た。それからグラを見た。グラが「グゥ」と一声鳴いた。
「……そうか」とネネが言った。
それだけだった。
******
**その頃、神界では——**
SEGA神が部屋に戻ると、上からの書類が一枚、机の上にあった。
見慣れない発信印だった。自分の決裁経路を通っていない。
内容は一行だけだった。
『勇者管理システムの見直し検討。チート機能の再設定を含む。至急』
SEGA神が書類を見たまま、長い間動かなかった。
「……来たか」
それだけ言った。
**※おじさん解説!**
SONYとは1946年創業の日本の電機メーカーだ。
音楽・映像・ゲーム・半導体。実力は本物だ。
問題は規格だ。
映像記録のβマックス。携帯音楽プレーヤーのATRAC。記録媒体のメモリースティック。
どれも性能は高かった。どれも独自規格だった。
他社と繋がらない。外から入れない。全部囲い込む。
最終的に市場で孤立した。
悪魔のSONYというのは、そういう意味だ。
強い。しかし外から見えない。互換性がない。全部自分の規格で動かそうとする。
田中剛(四十六歳)がこの世界の上位構造に対してつけた、最高の警戒評価だ。
なおソニー製品への田中の個人的評価は「性能は認める。囲い込みが気に食わない」だ。
相手への評価と個人の好みは別だ。これも常識だろうが。
******
**※神界業務日報 第四十八回**
本日の処理件数:規定外:多数。
書く欄:ありません。
続きは次章で。
「調べます。私の判断で」と言いました。
声に出ました。
今日初めて、自分でそう言いました。
SEGA神が「笑っていたぞ」とおっしゃいました。二回目です。
今回は気づいていませんでした。
記録します。
追記:田中さんが今日、灰皿を使いました。
記録します。
******
**※魔王の家計簿 第四十八回**
本日の支出:特になし。
書類が全部論破された。支出:0G。
例の圧が来た時、田中は腕を上げた。全員逃げた。我も下がった。
千年生きたが、腕を上げただけで全員が後退する人間を初めて見た。
田中は怖いと言った。でも前を向いていた。
怖いと言える人間と、黙って前を向く人間は、別だと思っていた。
同じ人間だった。
家計簿には書けないが書いた。
******
**※アルス修行日誌 第十六回**
師匠が腕を上げた。
全員後退した。
私も後退した。腕立ての姿勢のまま後退した。
なぜそうなったかは今もわからない。
体が、勝手に、動いた。
あとで、全員に「あの動き方は部屋のGみたいで、気持ち悪すぎる」と言われた。
ゾルグさんが「逃げろ! 殺される!!」と言った。
私も同じことを思った。
声に出なかっただけだ。
腕立て千回との関係:ある。絶対にある。
根拠はない。でも、ある。
明日も腕立てをする。




