「論外《アウト》だ」
昨日、重い話があった。
田中は今日も動く。
それだけのことだ。
朝。王都の宿の一階に田中が下りてきた時、宿の入口に見慣れない二人組が立っていた。
一人はゾルグだった。
もう一人は——黒い甲冑に銀白の長髪をきっちり一つに縛り上げ、乱れた毛が一本もない。黒いマントが朝の風にかすかに揺れているが、本人は揺れていなかった。背筋が垂直で、口角が水平で、目が刃のように鋭い女将軍だった。
ゾルグが深く頭を下げた。「お待ちしておりました、勇者殿。こちらは——」
「ゼフィーラ・エル・ヴェルダシオンだ」と女が言った。「四天王第一席次。貴様に話がある」
田中がじっと見た。三秒。
「……ゼフィだな」
「……何?」(ゼフィーラ)
「ちがいます!!」(ゾルグ)
「任天堂様のゲームにいた。FE封印の剣。2002年発売、プラットフォームはGBAだ。ゼフィール。敵将だった」
「……敵将?」とゼフィーラが繰り返した。
「間違っていた部分もある。だが最後まで筋を通した。自分の信念で動いた。そういう奴だった」
ゼフィーラが止まった。
(……敵将)
(間違っていた)
(でも、筋は通っていた)
「あの、任天堂様のゲームは2002年なので、昭和ではなく——」とエリュシアが言いかけた。
「任天堂様だ。昭和でなかろうが、許容範囲だ」
(……基準がよくわかりません)
「……任天堂、"様"とつけているのか」とゼフィーラが言った。
「当然だろうが」
ゼフィーラが少しの間、沈黙した。
田中の今までの行動を知っているゼフィーラからすれば、
「任天堂様」という呼称がこの男にとって何を意味するか、自然とわかる。
「……様がついているのか。まあいい」
「ゼフィールだと長い。これからもゼフィで呼ぶ」
「……ゼフィだな。わかりました」
(なぜ自分から略したんだ!!! わかりましたじゃない!!!)
後ろでゾルグが「ゼフィ様……」と囁いた。ゼフィーラの肘が素早く横にずれた。思いっきりゾルグが黙った。
背後でネネが戸口から顔を出した。「ム……ゼフィーラ」
ゼフィーラが一瞬だけ、眉間の皺を消した。「……魔王様、お会いしとうございました」
「来たのか」
「独立した判断です。合流ではありません」
「……そうか」
ゾルグが「そのご説明は昨夜から七回目で……」と続けた。ゼフィーラの肘がまた素早く動き、ゾルグが黙った。
「ゼフィ、封筒を持っているな」と田中が言った。
ゼフィーラが止まった。「……気づいたか」
「懐に入れているだろう。嵩が違う」
ゼフィーラが静かに懐から取り出した。表面に封蝋はなかった。代わりに、角に奇妙な記号が押されていた。田中には何かわからなかったが、エリュシアの顔が動いた。
「神界の発行書類だ」とゼフィーラが言った。「城の書類を精査していたら出てきた。正規の書類ではない。魔王軍に対して定期的に送られてきていた——内容は、判断を歪めるものだった」
田中が受け取った。開かずに、ただ重さを確かめるように手の中に持った。
「何通あった」
「確認できた分で四十七通。最古のものは十二年前だ」
「そうか」
それだけ言って、田中は封筒をテーブルに置いた。何を考えているのか、その顔からは何も読めなかった。
「まず飯を食う。お前たちも食うか」
ゼフィーラが「私は——」と言いかけた時、ゾルグの腹の音が鳴った。
ゼフィーラが目を閉じた。
「……いただきます」
(いただきます、じゃなあい!奴は敵だぞ!!なぜ素直に従ってしまうのだ)
******
朝食を終えた頃に、アルスが飛び込んできた。
「田中師匠!! 王都の第三区画で何か起きています!!」
田中が寿司の魚ネタが大量に書いてある湯呑みを置いた。「何が起きている」
「人が集まっています! 役人のような男が、商人たちを締め上げているような状況です……!」
田中が立った。それだけで、テーブルの空気が変わった。
「行く。見てくる」
「昨日の封筒と関係があるのか」とネネが言った。
「かもしれん」
(「かもしれん」と言う時は確信があります。ずっとそうです)
「私も——」とゼフィーラが立ちかけた。
田中が振り返らずに言った。「来い。戦力になるかもしれん」
「……合流ではない」
「知っている。来い」
ゼフィーラがついてきた。なぜかは、自分でもわからなかった。
******
第三区画の広場に、確かに人が集まっていた。
中央に、男が二人いた。一人は二十年この場所で商いをしてきたという初老の男で、もう一人は——役人の服をしているが、どこの役人かわからなかった。それなりに高そうな布地だが、どこにも紋章がない。王家でも、ギルドでもない。
男は商人の前に書類を広げていた。
「この区画の商業権は、先月付けで移譲が完了している。書類はここにある。聞いていないとは言わせん」
商人が蒼白な顔をしていた。「そんな、聞いていません。二十年、この場所で——」
「書類があれば覆らん。これが規定だ」
周囲の商人たちも蒼ざめて固まっていた。同じ書類を持った男がもう二人いて、それぞれ別の店主の前に立っていた。組織的な動きだった。
田中がその光景を五秒見た。
「……偽造だ」
声は低く、平坦だった。
「え——」とアルスが言った。
「紋章の位置が逆だ。王都の商業権移譲書は様式第十七号、紋章は左上に入る。あの書類は右上にある。様式が違う」
「なぜわかるんですか!!」
「書類は三十年見てきた。常識だろうが」
田中が前に出た。
男が振り向いた。後ろに二人の連れがいる。「何者だ」
「通りすがりだ。その書類、偽物だろうが」
男の目が細くなった。
「紋章の位置が逆だ。王都商業権の移譲書は様式第十七号、紋章は左上。お前の書類は右上にある。論外だ」
男が、止まった。
ただ止まったのではなかった。何か見えない圧力を受けたように、半歩だけ後退した。書類を持つ手が、微妙に揺れた。
(……正論が、当たりました)
アルスが目を見開いた。
「俺は……この書類の正当性は——」と男が立て直した。
「根拠が言えんということは、論外だ」
また当たった。今度は明確だった。男の連れの一人が、反射的に仰け反った。
(……なんだ、今のは)と、ゼフィーラが腕を組んだまま見ていた。(正論が、力を持っている)
「干渉すると痛い目を見るぞ。俺たちには後ろ盾がある。お前が思っているより、ずっと——」
「後ろ盾の名前を言え」
「……」
「言えんということは、ないか存在しないかだ。論外だ」
三度目。男の連れが両方とも足を引いた。一人が小声で「何だこれ……」と呟いた。
アルスが師匠の背後でいつの間にか腕立ての姿勢になっていた。理由は本人にもわからなかった。体が自動的にそうなっていた。
「——やれ!!」と男が叫んだ。
連れの二人が動いた。魔力が漲る。術式の練度は高かった。
王都の冒険者崩れや、荒くれではない。訓練された者の動きだった。
田中がゆっくりと、右腕を上げた。
それだけで——
広場の空気が、変わった。
動きかけていた二人が止まった。止まったのではなく、止まらざるを得なかった。『あの腕が上がる』という情報だけで、体が先に答えを出していた。
「……な」
「あの腕だ……!」
「殺されるぞ――!」
「逃げろ!!」
三人が路地の奥へ消えた。田中の拳は振り切られていなかった。腕を上げただけで、それで終わった。
広場が静かになった。
「……助かりました。ありがとうございます」と老商人が震えた声で言った。
「偽造書類は持っていく。後でギルドに届ける。念のため二、三日は店を閉めておけ」
「は、はい」
田中が書類を丸めてポケットに入れた。それで、その場での処理は終わった。
「……師匠」とアルスが腕立て姿勢のまま口を開いた。「今の——正論が当たっていたのは——」
「正論だ。当たる」
「物理的に、ですか?」
「それを今考えるな。腕立て五百回してから聞け」
「わかりました!!」
(わかっていませんが聞けません)
ネネが田中の隣に来て、低い声で言った。「……後ろ盾、と言っていたな」
「ああ」
「神界か」
「かもしれん」
(また「かもしれん」です)(今日で三回目です)(確信があるんですね)
グラが田中の肩にふわりと降り立った。「グゥ」と一声鳴いた。
田中が左手でグラの背を一度だけ撫でた。特に何も言わなかった。
******
宿に戻ってから、ゼフィーラが口を開いた。
「……聞いてもいいか」
「なんだ」
「正論で人を止める技は——」
「技ではない」
「……では何だ」
「常識だ。三十年やってきたことが出ただけだ」
ゼフィーラが止まった。その表情は変わらなかった。眉間の皺も動かなかった。ただ、返す言葉を探している気配があった。
田中が封筒を手に取った。「これを読む。内容次第で次を決める」
「……わかった」とゼフィーラが言いかけて、止まった。「——私はまだ、お前の下で動くとは言っていない。合流ではない」
「知っている」
「独立した判断で動いている。それだけだ」
「知っている。座っていろ」
ゼフィーラが、座った。
(今、なぜ座ったんだ)
(命令されたわけでもなく、従う理由があるわけでもなく——)
(……「座っていろ」が、なぜこんなに自然なんだ、この男は)
ゾルグが目の端を拭っていた。誰も理由を聞かなかった。
田中が封筒を開き、中を見て読んだ。
「……そうか」
それだけ言って、封筒をテーブルに置いた。昨日も、一言「そうか」と言って、それ以上何も言わなかった。今日も同じだった。
(……この方は)とエリュシアが内心だけで言った。(重いものを全部、「そうか」の中に入れる)(だから私には、言えないし、書けません)
ネネが黙ってテーブルの隅に座った。グラがネネの膝の上で丸くなった。
窓の外で、王都の朝が続いていた。
※おじさん解説!
ゼフィールというのは、ファイアーエムブレム封印の剣に出てくる敵の王だ。
二〇〇二年、GBAのソフトだ。任天堂様のタイトルだ。
正しいことをしようとしたが、方向を間違えた。
間違えたまま、最後まで筋を通した。
自分の信念で動いた。そういう奴だった。
任天堂様のキャラには、そういう奴が多い。
昭和ではないが、任天堂様だ。
様がついている。許容範囲だ。
以上。
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※アルス修行日誌 第十二回
今日、師匠が正論で人を止めた。
物理的に止まっていた。
何があったのかは、まだわからない。
「正論だ。当たる」と師匠は言った。
腕立て五百回は終わった。
腕立てとの関係は、まだわからない。
でも「腕立てをしてから聞け」と言われた。
つまり腕立てと何か関係があると思う。
次に聞く時は、千回終えてから聞くことにした。
追記:ゼフィーラという人が来た。師匠に「ゼフィ」と呼ばれていた。
自分で「ゼフィ、でいいか」と言っていた。
師匠に命名された人は全員そうなる気がする。
自分もそうなった。
これが昭和の常識なのかもしれない。腕立て千回が終わったら聞く。
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※神界業務日報 第十七回
本日の特記事項。
第一席ゼフィーラ殿が王都に到着しました。
神界発行書類の偽造版が王都第三区画で行使されていました。
押収しました。
紋章位置の差異を初見で指摘しました。
書類経験三十年、とのことです。
常識断罪の初発動を確認しました。
「正論が当たる」という現象について、神界に前例を照会しました。
該当記録:なし。
調査を継続します。
封筒の内容を確認しました。「そうか」と言いました。
それ以上は言いませんでした。
追記:今日も声に出しませんでした。
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※魔王の家計簿 第十七回
今日の支出:朝食十二G。昼食八G。
ゼフィーラが来た。「合流ではない」と六回言っていた。
六回目には誰も聞いていなかった。
田中が正論で人を三回止めた。支出:〇G。効果:あり。
グラが田中に撫でられた。一回。その後わたしの膝の上で眠っている。
眠る前にわたしの顔をちらりと見た。意味はわからない。
田中が封筒を読んで「そうか」と言った。
それだけだった。
「そうか」が多い。
それが何なのかは、わからない。
でも「そうか」と言う顔を、ずっと見ていた。
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※第一席ゼフィーラの業務報告 第二回
本日の業務報告。
王都到着。書類の引き渡し完了。
魔王様の様子:良好。
勇者田中剛について。
「ゼフィール」と命名された。
任天堂様のタイトルのキャラだそうだ。
敵将だそうだ。
間違っていたが筋を通したそうだ。
「様がついている。まあいい」と自分で判断した。
「ゼフィ、でいいか」と自分から提案した。
後から考えると、なぜそうしたのかわからない。
正論が物理的に機能する現象を目撃した。
三度確認した。三度とも同じ結果だった。
分析中。
「座っていろ」と言われた。座った。
なぜ座ったのかは、次回以降の課題とする。
追記:私は認めていない。




