十二話 不可解
その夜はとても暗い夜だった。
毎夜、優しい光で世界を照らしてくれるはずの月が居ない夜。
三十日に一度だけ訪れるその夜は、とても暗く、そして静かな夜になる。
特に雪国では、その静けさは顕著だった。
なぜなら雪に音が吸収されるからである。
ここペサリアでも、それは同じだ。
静寂に包まれた、夜である。
「ん……」
そんな静かな夜にルヴィスが眼を覚ましたのは偶然だった。
時刻は既に草木すら眠りにつく時刻。
あくびをしながら辺りを見ると、ほのかに部屋が明るかった。
光源を探れば、部屋の中央にある机に小さな洋燈が置かれていた。
光源の横には、椅子に腰掛け真剣に机を睨むミナの姿。
机の上には水晶球が二つ。
片方はミナが霰の渓谷で凍っていた時に手にしていたものである。
もう片方は見覚えないのないものだ。
ルヴィスが近づけば、ミナは少しだけ驚いたような顔をして、銀の髪揺らし、その紅い瞳でルヴィスを見つめていた。
「起こした……ましたか?」
気遣うような、戸惑うようなミナの声。
けれどもいつもと同じようで何かが違うその言葉。
いつもより少しぶっきらぼうな言い方だった。
その様子、いつものような快活さはなりを潜め、何処か儚げな印象をルヴィスへと与えた。
ミナを見ていると、不思議そうにミナもルヴィスを見返した。
ミナのその両目には洋燈の光が反射したのだろう、薄っすらと光が灯っているように見えた。
普段から見慣れているミナの姿。
寝間着である麻のワンピース。
髪は背中に流しており、いつもと何ら変わらない。
だというのに、同じミナを見ているはずなのにルヴィスは自分が赤面していく事を理解した。
「厠いってくる」
理由はわからない。
けれどもルヴィスは居心地が悪く、誤魔化すように部屋を出た。
部屋を出れば、冷気がルヴィスに襲い来る。
季節は真冬だ。
ペサリアの街に雪を防ぐ結界があろうと外気までは遮断できない。
それ相応の気温である。
ルヴィスは身震いし、扉を閉めると灯りが届かず月明かりすら無いことに気がついた。
「……Liht……めんど、Torch」
松明の魔法、詠唱を破棄……ルヴィスの手のひらに、普段よりも幾分ちいさな朱色の魔法陣が展開し、蝋燭大の炎が浮かび上がる。
ルヴィスはそれを光源に外へある厠へと足を進めた。
外にでれば、先ほど以上の冷気がルヴィスを襲う。
身震いし、足早に厠へと向かう。
厠につき、用を足していると幾分すっきりとし、寒さと相まって段々と眼が冷めてくる。
眼が覚めれば、ふと頭に浮かぶのは先程のミナの姿。
どこか儚く、どこか艶めかしい。
洋燈の光を淡く反射する銀の髪にまるで血のような紅い瞳。
「あれ……」
そして違和感理解した。
ミナの髪は金だし、ミナの瞳は赤くない。
思い出したのは氷から出る前のミナの姿。
ルヴィスは言いようのない不安に駆られた。
ルヴィスは急いで用を足すと部屋へと駆け戻る。
部屋の扉をあけると、既に洋燈は消えかけで、僅かに炎がくすぶっているだけだった。
ミナの寝台を覗き込むと、そこには眠っているミナの姿。
勿論金の髪だ。
「気のせい……か」
眠るミナを見て、ルヴィスは何処か安堵した。
「主……?」
しかし、ルヴィスの近づく気配で眼を覚ましたのか、寝ぼけ眼でミナが寝台の中から声をかける。
ルヴィスがなんと言っていいか悩んでいると、ミナは何処か不安げな、何かを言いたげな眼差しでルヴィスを見た。
「どうかした?」
ルヴィスの問いにミナは意を決したように、問い返す。
「主はもう何処にも行かないですよね?」
何処かとは何処なのだろうか、ルヴィスには解らない。
「また置いて行かれるのかと思いました。もう一人は嫌です」
震える声でいうミナにルヴィスは困惑した。
ルヴィスはミナを置いて何処かに行った事は……、今の仕事くらいである。
けれども、こんなに怯えるような事かと言われると疑問が残る。
「どうしたんだ? 行き成りそんな事言って……」
「夢をみました……、古い、古い、懐かしい……」
ミナは泣きそうな顔をする。
ルヴィスは慰めようとして、けれども、何を言っていいのかわからなくて、結局何も言えかなった。
ミナがルヴィスに手を伸ばす。
そして、ルヴィスの手をそっと握った。
「主……主……主……」
まるで親を探す子供のようにミナは繰り返す。
そして、ミナはルヴィスの体を寝台へと引っぱった。
「うわっ」
ミナの怪力に、ルヴィスは踏ん張る間もなく寝台へと倒れこむ。
そのまま両手で抱えられ、ルヴィスはミナの体を押し付けられる。
ミナの体に顔が埋もれ、若干呼吸がしづらい。
「苦しっ」
なんとか顔だけ抜けだして、遅まきながらミナの何処に顔があたっていたのか気づきルヴィス赤面した。
「行き成り何すんだよっ」
恥ずかしさ半分、ルヴィスは声をかけるが、その声は上ずった。
しかし、待てどもミナの反応はない。
ルヴィスが不思議に思い、静かにしていると規則正しい寝息が聞こえている。
既にミナは夢のなかであった。
ルヴィスは一人で勝手に恥ずかしがったように思えて、少しだけ苛立った。
苛立ち紛れにルヴィスはミナの腕をはねのけようとした。
「主……」
けれど、聞こえたミナの声。
先ほどとは違い安心しきったような声音。
それを聞いてルヴィスの意識は休息に冷めていく。
振りほどくのは思いとどまった。
「意味わかんね……」
ため息をつき、ルヴィスはミナに抱えられながらも眼を瞑った。
***
「こちらの女性は?」
薄暗い部屋に老紳士の声が響く。
執事服を着込んだ老紳士は白い壁に映された映像、その中心に写る人物を指差した。
「エルフィード男爵夫人レミリィ、銅鉱山を領地に持つイナルティア・エルフィード男爵の第一婦人で趣味は宝石集め、子供は居ない」
老紳士の言葉に答えたのは高い声。
男とも女ともわからない、高めの子供の声。
声をだした本人……ルヴィスは少しだけ得意げだ。
「正解です、ではこちらは?」
老紳士はルヴィスを見ると満足げに微笑む。
そして、机の上にある白い水晶をいじる。
すると映像が切り替わる。
次に映されたのは膨よかで髭を首元まで伸ばした男性の姿が壁へと映る。
「この髭は、ペンペン・ギンレード伯爵、海に接する領地で貝の養殖が盛ん……長男セレイアス・ギンレードが王宮勤めで、長女のニーナ・ギンレードは未婚で趣味は演劇鑑賞」
「よろしい。ではこの男性は?」
再び映像が切り替わる。
今度写されたのは凛々しいと称するに相応しい青毛の三つ編みを背中まで垂らした、精悍な顔立ちの青年の姿、腰には美しい装飾のされた剣を挿しており、その手には白い手袋。
ワインを飲んでいる姿であるが、どうにも気障ったらしい印象を受ける。
ここまでわかりやすいと逆に覚えやすい。
「スレビア男爵が三男ファイス・スレビア。ノーザス王国六柱と呼ばれる武家の名門で、お嬢様の婚約者」
「……よろしい、ここまでにしましょう」
老紳士のその言葉で、部屋を薄暗くしていたカーテンが他の侍女達によってあけられる。
途端に部屋は明るくなった。
「ふわっ」
思わずルヴィスの口からあくびがでた。
頭よぎるのは不安げな態度。
まるで何かを恐れているかのような態度である。
朝には何事もなかったようにけろりと食事をとっていたが、逆にそのせいでルヴィスには到底忘れる事が出来なかった。
昨日は結局ミナが気になってしまいよく眠れなかったのだ。
再びあくびがでそうになって、抑え込む。
そんな様子それを見て老紳士が微笑んだ。
「お疲れのようですね、流石に詰め込みすぎましたか?」
今行っていたのは確認作業。
ノーザス王国でアポストルテ家に縁のある貴族の名前と家族構成などを映像を記憶する魔法道具で壁に投影し、それをルヴィスは頭に叩き込んでいたのである。
「いや、ちょっと寝不足で、問題ないよ」
「左様ですか」
老紳士はそんなルヴィスを軽く流すと微笑んだ。
ルヴィスがアポストルテ子爵家に侍女として雇われてはや一週間になる。
だというのに未だルヴィスは侍女らしい、仕事の経験は無い。
この一週間ルヴィスに課せられた仕事は殆どが礼儀やマナー。
テーブルマナーに始まり、刺繍やダンス、貴族の顔を覚える事。
まるで貴族の子女が受ける教育である。
ルヴィスは貴族の子女が受ける教育は知らない。
けれども、アポストルテ家で働く他の侍女を見る限り、侍女の仕事のようには到底思えなかった。
「これって本当に侍女の仕事なのか……?」
ぽつりと零れたルヴィスの疑問。
老紳士はそれを聞き取ったのか、少し考えこむようにした後、問いかけた。
「何かご不満ですかな?」
純粋な質問なのだろう棘のない言葉。
その言葉に、ルヴィスは少しだけ躊躇うと、けれども、ぽつりぽつりと語りだした。
「……そんな事はないんだけど、仕事してる気にならなくてさ……俺はてっきり掃除とかお茶くみとか、そういう事をするんだと思ってたよ、だけど今やってるのは貴族様の名前を覚えてるだけだろ?」
ルヴィスにとっての仕事とは動き体を使うことだった。
酒場の給仕も、染色場の水洗いも、己が体を使う事だった。
そして、給金が高いということは高いなりのきつさがあるものだと思っている。
だというのに、今やっている事などはただの暗記だ。
他の仕事も、特にきついという事はない。
むしろ、ルヴィスにとっては未知の事だらけである。
だから面白いと思ってしまう事もよくあった。
これで今までの仕事より給金が高いというのだから、少しだけ罪悪感のようなものが芽生えたのである。
「金もらえるような事してないからさ……」
バツが悪そうに喋るルヴィスに、老紳士は心情を見透かしたかのように、言葉を紡ぐ。
「なるほどなるほど。貴方は根が善人なのでしょう、普通なら気にせずお金をもらえばいいだけだというのに」
ルヴィスに老紳士の言葉は少しむず痒かった。
「そんなんじゃないけどさ……でも」
「私と同じ顔でそんな事させられるわけないでしょう?」
ルヴィスの声にかぶせるように響いたのは少女の声。
声のほうを見るとそこには赤いドレス姿のベアトリスがいつまにか扉の前に立っていた。
ベアトリスはルヴィスを一瞥すると老紳士へと向き直る。
「それでクラウス、進み具合はどう?」
「滞りなく」
老紳士……クラウスのその言葉にベアトリスは少しだけ目を丸めた。
「以外ね? 聞いた限りでは教養を得られる環境ではなかったと思うのだけど、案外頭はいいのかしら?」
失礼な言葉をさりげなく混ぜ込み、ルヴィスの顔が少しだけ歪むのも気にせず、ベアトリスは白い水晶……映像を投影する魔法道具を手にとって、こねくり回す。
「見知らぬ貴族の顔と名前なんて、覚えにくいものじゃない?」
ベアトリスの問い詰めるような視線。
ルヴィスはどこか圧迫されてるような気分になった。
「……酒場の給仕をしていたから……客の顔はすぐ覚えるようにしてました」
ルヴィスの返答にベアトリスは納得がいかないのか、不満気に、けれども理解したとばかりに頷いた。
「生活で必要だったということね……子供に働かせるなんて、なんて親かと思いましたが、今はその愚行に感謝しましょう」
「……」
棘の多いベアトリスの言い方にルヴィスは苛立った。
けれども、何も言いはしない。
なぜなら慣れたからである。
はじめは面食らったが、この女、口が悪い。
思ったことをすぐ口に出すのだ、何のためらいもなく。
ルヴィスのように雑な言葉使いというわけではない、言葉使いは丁寧だ。
節々に棘があるだけで。
しかも、本人はまったく悪気がないのである。
どうしようもないとルヴィスも三日程で慣れた。
「そうね、ちょうどいいわ。クラウス午後の事はルヴィスに任せてみようと思うの」
ベアトリスは一人頷くと、クラウスに指示をだす。
クラウスはルヴィスを見て思案する。
二人の視線は明らかにルヴィスに向いており、ルヴィスは不安なものを感じ取る。
「……畏まりました」
クラウスは頷くと一礼し部屋をでる。
「午後って一体なん……ですか?」
ルヴィスの戸惑い。
「今の貴方なら問題ないでしょう……エイナ!」
ベアトリスが名前を呼ぶと、部屋の端に居た侍女の一人がベアトリスの前に跪く。
「お呼びでしょうか」
「遊覧会の準備をするわ、ルヴィスを着替えさせなさい」
「畏まりました」
そういうとエイナは立ち上がり、ルヴィスへと眼を向ける。
同時に車輪の回る音が聞こえる。
そして、再び扉が開かれた。
そこには手押しの台車に籠を運ぶを押すクラウスの姿。
クラウスが籠をあければ、そこには服や装飾類が入っていた。
これを取りに行ってたとしたら、クラウスはものすごい先見の明がある。
「先に必要になると思いまして」
クラウスはそう言い残すと退出した。
「……」
「この日のために作らせといたの、さぁ脱ぎなさい」
ベアトリスは満足気に微笑んだ。
***
「勝者! シェツペン!」
司会の声と同時に観客席からは喝采の声が会場に響き渡る。
はちきれんばかりの大音量は空気を震わせる。
褐色の肌の偉丈夫が観客席に向けて手を振った。
相手だった物は、手際よく係員のてによって片付けられていく。
「続いての試合の準備を致します」
司会の言葉と共に、会場に運ばれたのは一つの檻。
リングの中央の偉丈夫に相対する形でそれは置かれた。
係員が離れれば、檻は自動的にその口をあけた。
「連戦、連勝のシェツペンに対するは北の山で捉えた毛皮鬼! 武器は鈍重は棍棒だ! その一撃は岩でできたリングだって破壊する!」
「グォオオオオオォォォ」
地響きのような、低い声。
檻から出てきたのは偉丈夫よりも遥かにでかく、全身に毛皮を纏った魔物だった。
まるで子供と大人のような体格差。
「それでは、開始!」
開始の声ととも偉丈夫が走りだす。
一息の間に毛皮鬼の懐に潜り込む。
拳を毛皮鬼へと叩きつけんと振りかぶる。
けれども毛皮鬼も魔物と言われる種族である。
偉丈夫を敵とみなした瞬間行動した。
一歩さがり、その偉丈夫の拳を肘で受けた。
同時にぶつかった衝撃が、振動が空気を伝わり会場へと轟いた。
今ここに偉丈夫と毛皮鬼の戦いが始まった。
観客席の最前列、貴族用に作られた結界の張られた貴賓室でルヴィスはそれを見学していた。
唸る拳、振りかぶられる棍棒、一瞬の駆け引き。
リングでの死闘に魅入られる。
ルヴィスも男だったという事か、真剣な眼差しでそれを見つめ、気づけば手を握りしめていた。
「お気に召したかな? ベアトリス」
ルヴィスに声をかけたのは、ルヴィスの横に座っていた貴族。
青い三つ編みにした髪を腰までのばした精悍な顔つきの男である。
ベアトリスの婚約者である、ファイス・スレビアだ。
ファイスに声をかけられてルヴィスには我に帰る。
今はベアトリスの振りをしていたのである。
ここはペサリアにある、所謂闘技場である。
避寒地といえ、ペサリアに娯楽は多くはない。
しかし、貴族が集まれば当然娯楽は必要だ。
ならば作ってしまえと作られたのが闘技場である。
ともあれ、一般的な女性はこういうものは苦手なのだ。
事実、会場を占める客の八割以上は男性である。
ルヴィスはベアトリスの振りのつもりで、不自然にならない程度に苦笑してごまかした。
「やはり、気に入らなかったのかな……今日の試合は人気が高くてね、君でも気にいると思ったんだが……」
血みどろの試合である、男性はともかく女性は圧倒的に人気がないのは会場を見れば明白だ。
苦笑するルヴィスを見てファイスが肩を落とす、と同時に悲鳴と歓声が入り交じる。
ファイスはすぐにリングへと視線を移す。
リングでは片腕がなくなり、荒い息を吐く毛皮鬼と不敵に笑う偉丈夫の姿。
どうやら偉丈夫が毛皮鬼の腕をどうにかしてしまったようだ。
「ああ、シェツペンは本当に強いな……拳一つで毛皮鬼とやりあうなんて魔法を使ってる様子もないし、どうしたらあそこまで強くなれるのか……」
ファイスは口惜しそうにリングを見つめる。
再び歓声が響き渡る。
リングには毛皮鬼がその大きな体を横たえていた。
「流石だ! 今日こそサインを貰うぞ! すまないがベアトリス、少しばかり行ってくる!」
そう言ってファイスは貴賓席から飛び出すように駆けて行った。
それを見計らったように一人の侍女がルヴィスへと寄ってきた。
目元が隠れる程の長さの赤毛に眼鏡をかけた侍女である。
侍女はルヴィスにそっと耳打ちした。
「調子はどう?」
「問題はないと思います」
ルヴィスの答えに、侍女は満足気に頷き、けれどもすぐに不満気に頬を膨らませた。
「でしょうね、試合に夢中で殆どルヴィスのほうを見ていらっしゃらなかったようですので……サインについてもおそらく門前払いされて戻ってくるでしょうから、適当に愛想笑いでもしてください」
「それでいいんですか? ベアトリス様の婚約者じゃないんですか?」
婚約者というには、冷淡な対応指示にルヴィスは思わず聞き返す。
「問題ありません。普段の私だったら愛想笑いすらしません」
そう言って侍女は、鼻で笑う。
本来侍女に許されるような態度ではないが、何を隠そうこの侍女こそがベアトリス本人なのである。
ベアトリスの目的はルヴィスがベアトリスの振りをしてファイスとデートをする事であったのである。
「……婚約者ですよね?」
「ですよ?」
何かがおかしい。
問題無しと言わんばかりのベアトリスの態度。
少なくとも婚約者の態度ではないようにルヴィスは思う。
それに態々、婚約者を自分の偽物とデートさせたり、それを近くからみていたりなどする必要があるのだろうか、目的が全く見えてこない。
ともあれ、何かがおかしいのは理解できでも、ルヴィスは言うとおりにするしか選択肢はないのであるが。
「……」
それ以降、侍女姿のベアトリスはルヴィスの横へ控えた。
程なくしてファイスががっくりと肩を落として、貴賓席へと戻ってくる。
「ベアトリス様、残念ながらサインはもらえず……」
どうやらベアトリスの予想どおりサインはもらえなかったようである。
ルヴィスはベアトリスに言われた通りに、愛想笑いをした。
「さて、気を取り直して、次はペルン湖で氷上からの釣りなどいかがでしょう? 釣り上げた魚をその場で調理したものは、どのような料理にも勝る美味しさがありますよ」
ルヴィスとしては興味を惹かれたが、ベアトリスはルヴィスにだけ聞こえるような小声で「却下」と短く告げる。
ルヴィスが横に首を振る、ファイスは次の案を出す。
「では、ウンダヴァ山の麓で山菜取りなどいかがでしょう? 採れたての山菜はその場で揚げて塩をひとつまみするだけで極上の料理へと変化します」
またしても、ルヴィスは興味を惹かれたがベアトリスは再び小声で却下する。
ルヴィスも横に首をふる。
「それも嫌でしたらペテル農場でしぼりたてのミルクでも、あそこの乳製品……特にチーズは格別ですよ?」
勿論ベアトリスは却下する。
同時にルヴィスも首を振る。
この男、選択肢が食い物ばかりである。
そしてどこか選択が野暮……食い物にしても、貴族街のレストランではなく、離れた所にある野性味あふれた物である。
少なくとも貴族の娘に薦めるデートコースでは選ばないような物じゃないのか……田舎の娘ならともかく街娘でも嫌がるだろうなとルヴィスは思った。
「食事の気分ではないと……少しお待ちください、アデル!」
そう言うとファイスは一人の執事を呼んだ。
年若い執事は何やら手帳なような物を取り出して、ファイスと二人それを見ながら唸りだした。
ひとしきり二人は話あう。
決まったのか、ファイスがルヴィスのほうへ声をかける。
「予定を先倒しし、雪合戦の観戦などいかがです? ペサリアの大結界の外にでますが、伝統的な催しでして」
今度は却下と聞こえなかった。
ルヴィスは首を縦に振った。
「では、失礼ですが段取りがありますので自分は先に参ります……申し訳ありませんがベアトリス様は馬車を用意いたしますので、ゆっくりおいでになってください」
そう言うとファイスは執事を連れて先に行ってしまう。
「気の利かない男よね……乙女心を何もわかってない、泥臭い食事や血みどろの戦いを見て喜ぶ女が何処にいるのかしらね? ルヴィスはあんなふうになっちゃだめよ?」
ベアトリスは覚めた視線でファイスの居なくなったほうを見つめていた。
ベアトリスのあんまりな物言いにルヴィスはファイスに憐憫を覚えた。
思わず聞き返してしまう。
「婚約者なんですよね……?」
「そうよ? うちに婿入りする男爵の三男……男爵家の穀潰しから子爵家時期党首、素晴らしい未来ね」
不満気に呟くベアトリス。
中々に辛辣である。
「嫌いなんですか?」
「……嫌い?」
その言葉とともにベアトリスの表情から感情が抜け落ちた。
「そんな事はないわ。ファイス様は容姿もいい、勉学も学園で優秀だと聞いているわ」
まるで棒読み、その台詞に一切感情はこもっていなかった。
ルヴィスはさらに気がついた。
ベアトリスが口にしたのは、ファイスのただの評価である。
彼女個人の想いがそこには含まれていない事に。
ルヴィスはさらに問いかけようとして、ベアトリスの眼を見てそれを辞めた。
ベアトリスの眼は何処も見ていない虚空のようで、けれども憤怒ようなものも宿していた。
若干気圧されたルヴィスをみて、ベアトリスは咳払いをした。
「さあ、馬車にのってデートの続きをしに行きましょう」
普段の表情に戻ったベアトリスに促されルヴィスは席を立つ。
ファイスが用意してるであろう馬車へと足を進めた。
闘技場の外にでると、人は疎らであちらこちらに馬舎や馬車の乗り場がある。
どれがどれだか解らない程にある。
そんな中、ルヴィス達に手を振って近づいてくるのは、見たことのある執事。
先ほどファイスの執事であるアデルと呼ばれていた青年だ。
「ベアトリス様、こちらに御座います」
二人は促されるまま、乗り場へと向かう。
そこに居たのはスレビア家の紋章の入った馬車だった。
二人が近づくと、扉が中からゆっくりと開かれた。
そこに居たのは、あの試合でみた偉丈夫の姿。
「あれ、あんた……」
ルヴィスは驚いて思わず素で声がでる。
なんで乗っているんだ?
そう言おうとして、けれどもその言葉は最後まで言い切る前に途切れてしまう。
馬車へと引きずり込まれたのである。
「なぁっ」
強引に腕を捕まれ半ば放り投げるようにルヴィスは反対側に叩きつけられ、崩れ落ちる。
衝撃で肺から空気がでたのか、うまく呼吸ができず、段々とルヴィスの意識は遠のいた。
遠のいていく意識のなか、ルヴィスの視界には偉丈夫と遠のくベアトリスの背中が映っていた。




