にひゃくにじゅうななかいめ 虫と心境
今日は朝はすごく晴れやかで、穏やかで、でも力強い風が頬を撫でていた。だけど、夕方くらいになるといきなりじんめりどんより、梅雨みたいな湿度になりだして、雲も出てきた。これは一雨来るかなぁなんて思っても来ないし、明日からの天気予報も晴れのままだ。なんだかこの感覚と天気の差異に少しだけ違和感を抱えつつも一日が無事に終わった。
今日歩いていると、前からカナブンのような甲虫が飛んできて、来ていた上着に止まった。昔は触れていたし、今も触れるだろうとタカをくくっていたが、触ろうとするも手が動かない。高校に上がった頃くらいから予兆は出ていたのだが、もうすっかり甲虫を触れない体になってしまったみたいだ。
高校の頃、窓から入ってきていたクワガタを捕まえようとしたことがあるのだが、なかなか触れず結局三分くらい格闘して捕まえたのだが、その頃にはもう若干触りにくくなっており、今じゃカナブンも触れない。
バッタや蛾、蚊や羽虫、蟻、蜘蛛なんかは未だに触れるのにこの違いは何かなぁと思考した時に、考えついたのは痛みを予兆できる虫に対して触り辛くなっているということだ。
例えば、カナブンなどの甲虫は手足にかぎ爪のようなものがついており、それが手に刺さると痛いのだ。それを想起して『こうなったら痛い』と思い触れなくなるのだ。事実として、産まれたての小さなカマキリは触ることが出来るのだが、成虫のカマキリは鎌が怖くて触ることが出来ない。
この痛みを予測して怖がることで触れなくなるというのを身をもって実感し、これが大人になるということかなぁ、なんて少しだけ感慨に耽ってしまったのだが、更に歳を重ねるごとに、この痛みの予測と範囲がゆっくりといろんなものに広がっていくとしたら、私は何にも手を出せなくなってしまうのじゃないだろうか、と。そこまで思い至ってしまって、どうにも怖くなった。と、言うのも今は虫の話に限定されているが、もしかしたら日常のどこかで無意識的に痛い目をみるといやだからと、予測してやりもせずに避けてしまっていることはないだろうかと、振り返った時にちょっとだけどきっとしてしまったからだ。
別に、なにか具体的な例が出てくるわけでもないのに、ただ連想ゲームみたいに思考を重ねてただけなのに、何故かいきなり背後から刺されたような痛みが走ったから少しだけ深刻に考えてしまっているだけのことなのだが、これをだけと切り捨てるのはちょっと喉に引っかかってしまう。
なので、まずは甲虫をまた触れるようになろうと思う。痛みを予測せずに、童心に帰ったつもりでまずはカナブンでも見つけた時に手を出して見ようと思う。これが危惧したことに対しての一歩になるのかは分からないのだが。




