第9章 通路
階段を3階まで上り切って左に曲がり、階段を回りこむように奥まで進む。行き当たりの壁と階段の柵との間のちょっとしたスペースは、窓から日光が差して明るく、最上階ゆえの静けさと解放感もあり、休憩にとても良い場所だ。
と、いうことを、立花は今日の昼過ぎに初めて知った。自分の仕事場は2階だし、3階にはこれまでほとんど来たことがなかったのだ。
今日は『メンテナンス』のために、ずっとタマキビルヂングの中にいる。
彼女のすることといえばモニターを見る作業ばかり、ずっと『ランペ』の一室に籠っていてもいいが、それだけではかなり疲れる。そこで、近場の休憩場所を探しているうちに見つけたのだ。
『ランペ』のあの部屋は窓もない。実はあるが、壁面は殆どコンピューターに塞がれているため、用をなさない。だから余計に、立花には居心地が悪いのだろう。
去年の『メンテナンス』は自分の仕事部屋で行った。
仕事部屋は広いし、自室という気楽さがあったので、籠っていても苦にならなかった。ずっとひとり、いや史とふたりだった。今回はそれに比べてずいぶんと人に会う。
疲れを感じて立花が時計を見ると、午後4時を少し過ぎていた。
前の休憩から2時間近く経っている。そんなに時間が経っていたのか、と気が付き、座ったままで伸びをする。
またあの場所で休憩しよう。立花は史の方を見て、行ってくるねと心の中で言い、三階へ向かった。昼過ぎに行った際に、窓を開けておいた。風が入って心地よいだろう。
裏口から『ランペ』を出て階段に向かう。この時間『ランペ』は客がいないようだったが、同じ1階の『レオ』は、時間はあまり関係なく、客足は一定のようだった。立花が外に目を遣った時、ちょうど『レオ』のチョコレート色の紙袋を持った女性が帰って行くのが見えた。
その向こうでは、小学生の一団が信号待ちをしていた。どの子もいかにも暑そうな顔をして、水筒を大事そうに抱えている。
立花は階段を上った。
ビルの中は静かだった。自分の足音がやけに響く。夜遅くに帰るときと似ていた。いつもはこのくらいの時間にここへ来るが、こんなに静けさを感じることはなかった。
3階で階段が終わり、通路に入る。
すると、奥の窓際に先客がいるのが見えた。窓に体を向け、階段をぐるりと囲む柵に寄り掛かっていた。立花は内心がっかりした。ここを気に入ったのは自分だけではなかったのだ。でも戻るのも感じが悪い。そう考えて近付く。
「来ると思った」
そう言った先客は針山だった。脚付きの灰皿を持ち込んで一服中のようだ。
「どうして分かったんですか?」
訊く立花。
「窓が開いていたからだよ」
針山は言いながら、煙草の火を消した。「ここを開けるのはいつも史ちゃんなんだ。でも今日は絶対違うだろ? 他の奴はそんな気の利いたことはしないから、きっと立花さんだろうな、ってね」
「すごい、さすが探偵」
「はは、そんなの名前だけだよ。それで、これ」
針山は、窓辺に載せていたコンビニの袋を立花に差し出した。
立花が受け取って中を見ると、炭酸飲料とスナック菓子が入っている。
「差し入れのつもりだったが、女子高生の好きなものなんて分からんよ」
そう言ったのは照れ隠しか。
「これ好きです。ありがとうございます」
言いながら、立花は急に喉の渇きを覚えた。仕事中はあまり自分のことに気が向かない。針山に心から感謝し、早速開封した。
「でも針山さん、共用スペースは禁煙ですよ」
感謝とは別に、付け加えて言った。
「あ、知ってた?」
「知ってた? じゃないですよ。史ちゃんに言っちゃいますよ」
「あなたがケーブル付けて眠っている間に、って? それは言えんでしょ」
「そ、そうか…」
「オジサン、今室内にいると時間を止めちゃうから、仕事の邪魔になるって言われて追い出されてんのよ。可哀想でしょ? 喫煙所にもいられないのよ」
「ここでは…?」
訊ねた立花に、針山は自分の腕に付けた時計を見せた。
「おお、動いている」
立花が声を上げた。針山のアナログ時計では、秒針がせわしく時を刻んでいた。
「部屋の外だったら止まらないらしい」
針山が言った。
この状態はいつまで続くのだろうか。立花は考えた。ビル内の歪みのせいなら、遅くとも『メンテナンス』が終わる頃にはなくなるだろう。そうではなく、鳥飼のように、針山自身が起こしているとしたら…。
「ずっとそうだと困りますよね」
立花は問いかけた。
「ま、どうにかなるさ」
気楽な調子の返事が返ってきた。そんな針山に安堵しつつ、立花は菓子の袋も開けた。自分でまずひとつ取り、針山にも袋を向けてみたら、針山も取って口に放り込んだ。
空腹でなくてもお菓子は入る。立花は数個を続けて食べ、息をついた。
「私、今回はいろんな人に食べ物貰いまくっているな。昨日の夜と今日のお昼はユキさんのカレーだったし、今朝は風間さんがサンドイッチ作ってくれたし。おやつもこうやって付いたし」
「『技師』の特権だな」
針山が笑う。
「今日は殆ど動かないのに。太っちゃう」
そう言いながらまた食べる。
「若い子はみんなそう言うけれどね、立花さんなんて痩せすぎな方じゃないの? 」
「大人の方こそ、みんなそう言います」
「お、鋭い」
ふたりはまた菓子を口に入れた。
開いた窓から、時折涼しい風が入って来ていた。
「この菓子、カルシウム強化だって」
針山が袋の一文を指差した。
「ほんとだ。これを見て買ったんですか?」
「いや?」
「なあんだ」
「まあでもね、若いうちは栄養はなるべく摂った方がいいよ。この歳になって、今頃若い頃の不摂生が祟ってくるんだよ…」
「それって自分の話ですか」
「だから忠告しているわけ」
静かなビル内に、階段を踏む足音が響いた。
それは速いリズムで近付き、立花と針山のいる3階まで来た。釘山だった。
釘山もふたりに気が付いた。そして、
「あー、オッサンが女子高生を拐かしている」
ふざけた調子でふたりを指さした。
「かどわかす、なんて言葉、久々に聞いたな」
感心したように針山が言った。
「お菓子貰っていたんです」
「それ本当にやばいやつ!」
「釘山さんも食べます?」
「うん。ありがとう」
立花の誘いにあっさり答え、釘山もふたりに並んだ。
「若い人は栄養をたくさん摂った方がいいらしいです」
立花が、先刻針山に言われた通りに繰り返した。
「俺もそっち側? 立花さん優しい」
「お前はそろそろこっち側だろう」
針山が口を挟んだ。
「確かにねえ。自分が高校生の頃なんて、もうはるか昔のように感じますよ」
釘山が菓子を食べながら言った。「その頃にはもう働いていたしね」
「え、そうなんですか?」
「家の事情でね。…立花さんだって働いているじゃない」
「まあ、そうですね」
『技師』だってれっきとした職業だ。契約を結び、給与を受け取っている。
「ハリーさんもそうでしたよね?」
針山は黙って頷いた。
「ずっと今のお仕事を?」
立花が訊いた。
針山の代わりに釘山が答えた。「そう。30年以上。その頃までは知らないけれど、20年くらい前はもっと痩せててちょっと陰があってね。かっこよかったんだよ、これでも」
「その頃からふたりは知り合いだったんですか?」
「うん」
針山が灰皿を持ち、静かに窓際を離れた。
釘山はそれに気付いたようだが、止めなかった。なので立花も黙っていた。
針山が『望月探偵事務所』に入ってゆくと、釘山は話を続けた。「仕事ぶりだって、今よりもっと熱かったんだ。例えば、とある夫婦の妻の方から、夫の浮気調査を頼まれたんだ。結果はクロ。で、慰謝料と子供の親権をかけた裁判になったんだけれど、当然、あの人は妻側の人じゃない? なのに、妻が子供を虐待していたのに気付いて、証拠を上げて、結果親権は夫のものになっちゃった」
そこまで一気に話し、釘山は息を吐いた。「自分と同じように苦しむ子供がいるのを見過ごせない、だって」
「それって…自分も虐待されていた…」
立花は呟くように声に出していた。
「らしいよ」
釘山の声も、始めに比べて小さく、落ち着いた響きになっていた。
立花には、今の穏やかで人の好い針山を見ても、そんな過去はまるで想像がつかない。そう思ったままを口にすると、釘山は、今は本当に丸くなったと思う、と答えた。
「昔は、もっと何か、重いものを背負っている感じがしたもん」
そしてもう一度、かっこよかったんだよなあと言った。
「釘山さんは、針山さんのファンだったわけですね?」
冗談めかして立花は訊いた。
「そうだね、ファンって言うのいいね。もうヒーローみたいに思っていたから」
釘山が少し照れたように、立花には思えた。釘山も針山も、彼女にとってはずっと大人で、自分には理解しがたい存在だと思っていた。だが今日はいつもより近くにいるような気がしている。
「まあそれで、本人いなくなっちゃったからついでに言うけれど」
釘山が言った。「…あの人が時間を止めちゃうのって、楽しい時間がいつまでも続いてほしいと思う気持ちから来ているんじゃないか、って俺は思うんだ。だって止まったのって、ゲームしているときとかメシ食ってるときとか、あとぬいぐるみを片付けているとき。子供じみているけれど、そんな時間がいつまでも続いたらいい、そんなハリーさんの無意識の望みから起きているんじゃないかって気がする」
まあ、だからって傍迷惑なことに変わりはないけれどね。
彼はそう言って静かに笑った。
立花もつられて微笑んだ。
とても心が重くなる話をされたのだが、一方ではふわりとした気持ちも感じた。
楽しい時間がいつまでも続いたらと望む…それは、針山の境遇を思うととてもよく分かった。釘山の考えは当たっているような気がした。そして、針山の気持ちは立花にも共感できた。
ふと、立花は史のことを思い出していた。
史といる時間が、今の立花にとって一番楽しい時間だ。改めてそう思えた。
「お菓子、もう一個頂戴」
不意に釘山が声を上げた。立花ははっとして、素早く菓子の袋を釘山に向けた。釘山は片手で幾つもの菓子を取り上げると、全て頬張った。
「あ、一個って言ったのに」
立花は思わず大声で言った。
「じゃ訂正。一口頂戴」
口の中を動かしながら、少し籠った声で釘山が言い直す。
立花はジュースを飲んだ。すっかりその存在を忘れていたが、まだジュースは冷たく、炭酸の刺激は心地良かった。
「私、そろそろ戻ります」
史のことが気にかかってきた。『メンテナンス』は順調で、そこは心配ないはずだ。だからこれはただ、立花が史のそばに行きたいという、そういう気持ちなのだった。「ずいぶん休んじゃった」
「ああ、俺の話が長すぎちゃったね…」
「いえ、聞かせて貰えてよかったです」
そう、心を込めて言ったつもりだ。
「あと少しだね、よろしく」
釘山の方も、背筋を伸ばし、改めてそう言った。それから、ふと訊いてきた。「そういえば立花さん、今日学校は?」
「欠席ですよ、当然。テストだったから、まあ後で再試験ですね」
答え、その問いはこの時間まで誰からもなかったと気付く。立花がまだ高校生だということに意識が向かないのか。それとも休むのが当然と思っているのか。
「そうか。…立花さん、しっかりしているから、話していると高校生だってこと忘れちゃうんだよね」
「ここのみなさんって、本当に呑気ですよね。今初めて訊かれました」
つづく