第10章 ランペ みたび
「思い切って本当のことを言ったけれど、言ってよかったよ」
鳥飼が現れたかと思うと、座卓の向こうに立ったまま、開口一番そう言った。
「何をです?」
立花はモニターに目を遣ったまま訊ねた。
時刻は8時。『メンテナンス』は終盤に入っている。
鳥飼の話に興味がないわけではないのだが、少し忙しくなってきていたのだった。
「だから、風間さんに、チョコレートが苦手だって」
意外な答えが返ってきた。てっきり隠し通すつもりだと思っていたのに。
「言ったんですか。どうでした?」
「俺、ちゃんと風間さんが悪く思わないように言えたからね。何でも言いっぱなしじゃないからな」
それが言いたくてここへ来たのだろうか。
「じゃあよかったじゃないですか」
立花もなんだか少しほっとした。
「うん。立花ちゃんのおかげだよ」
「私?」
立花は思わず、モニターから目を離した。「何もしてないですよ」
「隠しているのは俺らしくない、って言ったじゃない。それで考えて、やっぱり、本当のことを言うことにしたんだ」
確かに立花にも、そんな発言をしたような記憶があった。だが鳥飼に言われるまで忘れていたぐらいであり、軽い気持ちで言っただけで、その後鳥飼が考え直すまでになるとは思っていなかった。
上手くいったのなら、それでいいのだが。
「この礼はいつかするよ。じゃ、忙しい所お邪魔しました」
「いや、お礼なんていいですよ」
言ったが、鳥飼はそれには答えずに部屋を去って行こうとしていた。
その右足が、立花の目に留まった。
「鳥飼さん、その青い花きれい」
義足に描かれた絵を見て思わず声を上げると、鳥飼が振り向いた。
「りんどうの花、だよ」
言い、鳥飼は颯爽と部屋を後にした。
急に部屋が静まり返ったような気がした。
鳥飼とこんなに話をする間柄になるとは、数日前には思ってもみなかった。他の人たちもだ。前に比べて、ずいぶんと距離が近くなった気がする。
ここで仲良く話すのは、史しかいなかったのに。
史が目を覚ましたら、この忙しくも楽しかった『メンテナンス』の話をしたい。ユキに八つ当たりしてしまったこと。風間のサンドイッチが美味しかったこと、探偵事務所の人たちとの会話、針山の過去。
「鳥飼くん、史ちゃんと友達になりたいって言っていたよ」
と伝えたいし、
「史ちゃんに貰った猫のぬいぐるみ、勝手に歩き回るようになっちゃった」
と報告したい。
「3階の窓、今日は私が開けたんだよ。あの場所気に入った」
と言ったら、史はなんと答えるだろう。
でも、それはできない。
『メンテナンス』はなかったことにしなければならない。史の記憶には残らないし、残してはならない。ここはごく普通のビル。座標計算なんてしていないし、歪みなんて起こらない。史は、普通の管理人…
立花は急に淋しさを覚えた。
その気持ちを振り払うように作業に没頭していた立花を、呼ぶ声がした。
それは彼女の隣、その下の方から聞こえた。
まさかと思って振り向いた立花は、彼女を見る史と目が合った。
「え…だめだよ」
『メンテナンス』の失敗か。そう思った。
だが史は横になったまま、小さくゆっくりとした声で「大丈夫」と言った。
「今、少しだけなら話せる。今は全部分かってる、自分のこと。…でもきっと、次に目が覚めたらいつもの俺だ」
史はそう言うと、瞬きをし、続けた。「言いたいことがあって、それで無理やりだったけれど、意識を戻したんだ」
「言いたいことって何?」
立花が訊ねる。
「まずね、あの絵。仕事部屋に飾っている絵。あれは君のこと? そう思うなら、それは違うからね」
「あ、あれは…」
史には仕事と言っているが、本当は趣味でやっているタロット占い。最近よく出て来るカードの意味は、本当に自分のことだと思えた。
「調べたんだ、『メンテナンス』の前に。人が立っているだけの絵かと思ったけれど、あれは吊るされた人の絵の、逆さになったものだったんだね。…君は違うよ、絶対。いつもの俺だけじゃなく、今の俺もそう思っている。だからあんなもの飾らないで」
吊られた男のカード、その逆さま(リバース)。
報われない苦痛、犠牲、無駄な努力。片思い。盲目の恋。
立花はそうではない、違う、と史は言ったのだ。
史は目を瞑り、また開いた。「分かった?」
立花は黙っていた。
史があの絵を気にかけていたとは思わなかった。
そして、史に否定されるとも。
「でもね、史ちゃん、あれは…」
今の私に合っていると思うよ。…そう言いそうだった。
「そう思うのは俺のせいでもあるよね。辛いこともきっとあるよね。でも違うからね」
立花の気持ちが分かるのか、史はもう一度言った。「あんなものは飾らないで。頼むから」
「分かった」
史ちゃんが言うなら、と立花は頷いた。
史は笑顔を見せた。
「それと…ああこれは言うかどうか迷っているんだ。でも言わなきゃな。ね、あかねちゃん、あかねちゃんって呼んでいいかな」
それは立花の下の名前。
立花は急に史からそう呼ばれ、鼓動が激しくなってきたのを感じた。顔が赤くなる。
「いつもの俺もそう思っているけれど、これは今の俺が先に言いたかったんだ。やった、先に言えた」
立花は胸が詰まるような感覚を押さえ、言った。「どっちも史ちゃんじゃない」
「ううん、今の俺からすると、いつものは中途半端で別人みたいで。今の俺は年に一度しか意識が現れないのに、いつものは毎日君と会って、話ができる。大事なことを何も知らないくせに」
「それは仕方がないよ、だって」
「そうだね。それが『管理人』だからね」
史の瞬きが多くなってきていた。「でもいつか、全ての話ができたらいいな。隠すことも言わないこともなく、いろんな話がしたいよ。もちろんあかねちゃんと、ね」
「うん」
立花はただ嬉しかった。「私も史ちゃんといろんな話がしたい」
「じゃあ約束。それとね、どっちの俺も、君が好きだよ」
「…私も」
「よかった。…もちろん今の俺の方がずっと好きだ」
「まだそれを言うの?」
「言うよ。だって次に話せるのは早くて1年後…眠くなってきた。もう終わりかも。やっぱりいつもの俺も、あかねちゃんって呼んでいいことに、してあげようかな…」
史が目を瞑り、何も言わなくなった。
バスはやはり今日も大きく揺れている。
いつもの席、左側の前から3つめの席で、立花は欠伸をした。
コンビニの前を過ぎ、大きな交差点を直進し、バスはその停留所で止まった。立花は回数券を投入し、降りる。
制服の上着はバッグに押し込み、代わりにベストを着ていた。それでちょうど良かった。
タマキビルヂングに入ると、見慣れた顔。
「史ちゃん、ただいま」
元気よく立花が言った。
「お疲れ、あかねちゃん」
史が笑った。いつもの笑顔だ。
「何しているの?」
階段の前で腕を組み、意味ありげに立つ史に、立花が訊ねる。
「集合ポストを直してみたんだ」
史が胸を張った。「だいぶ歪んでいただろ? 分解して叩いて真っ直ぐに直したんだ」
「へえ…」
立花もポストの方を向いた。確かに、その姿は今までになく真っ直ぐになっている。
「きれいになったね。さすが管理人」
立花が明るい声で褒めると、
「これで、郵便物が隙間から下に落ちることはないよ」
さらりと史が言った。立花は驚いた。
手紙がどこで見つかったかは、史は知らないはず…。
釘山が喋ってしまったのだろうか。それとも。
「今日は郵便物チェック、しないの?」
史が訊いてきた。
「う、うん、みるよ」
慌てて立花はポストを開けた。今日は、いや今日からは扉の動きは軽い。
チラシを回収し、扉を閉めた。
「そうそう」
階段を上りながら、史が言った。「鳥飼くんからお菓子を貰ったんだ、一緒に食おうよ。…それがさあ」
「何?」
立花もその隣を行く。
「風間さんとこの新製品なんだって」
「じゃあチョコ味? それでくれたのかな?」
「まだ俺も、中を見ていないんだ」
「ねえ史ちゃん。上で食べようよ。まだ明るいよ」
3階の通路の奥。『メンテナンス』後のふたりは、よくここで話をする。
「俺もそう思ってた」
ふたりは顔を見合わせた。
3階の窓は開け放たれていて、涼しかった。
見慣れた『レオ』の袋を開けると、中から出てきたのは白い焼き菓子。パッケージを見ると「ビスキュイ バニラ味」と書いてある。
「なるほど」
ふたりは頷きあった。これなら鳥飼でも美味しく食べられるのだろう。
「そういえば、針山さん。…時間を止めることが出来なくなったらしい。やっぱり歪みのせいだったんだね」
史がまた言った。彼が知らないはずのことを。
「史ちゃん。どこまで知っているの?」
おそるおそる立花は訊いてみた。
「何を?」
「『基地局』とか『メンテナンス』とか知ってる?」
「…知らない。あ、なんか頭が痛い」
史が急に呻きだした。
「分かった。ごめん」
立花も頭痛がしてきそうだった。いや、むしろ喜ばしいことか。しかし史は本当に頭が痛そうで…。
どうなっているんだろう。どうなるんだろう。立花は困ってしまう。
窓の外には夕景が広がっている。遠くに羊雲が見えた。
終




