第6章 望月探偵事務所 ふたたび
針山と釘山が食事を終え、『ランペ』を出て事務所へ戻って来ると、灯りが点いていてベランダへのガラス戸が開いていた。
ガラス戸の先は喫煙所になっている。そこに、事務所の所長、望月が立っていた。髪も化粧もきちんと整えていて、白いブラウスと黒いタイトスカートをモデルのように着こなしている。40代前半程に見られがちだが、実はもっと年長らしい。ただ詳しくは誰も知らない。
「お疲れ様です」
ふたりが言いながら近付くと、望月も彼らに気が付いた。
「今は19時40分、か」
腕時計を見ながら、望月が小さく声を上げた。
針山はベランダに出て、ポケットから自分の煙草とライターを取り出した。釘山はベランダには出ずにガラス戸の枠にもたれかかった。望月はとっくに一服し始めていた。この三人が、ここ『望月探偵事務所』の全メンバーである。
「今日はふたりとも、ごはん早かったね?」
望月が言った。各自の予定を書き込むホワイトボードの針山と釘山の欄に、釘山が大きく「メシ」と書いていたのだ。
「いろいろありまして」
針山が答えた。
「そうだったみたいね。メール見たよ」
先刻の、ふたりのメールでのやり取りは、所長のアドレスにも送っていたのだ。「面倒なことになっちゃったのね、ま、お疲れ様」
「珍しいっすよね、『メンテナンス』でこんなにゴタゴタするなんて」
釘山が言った。
「そうね、最近はなかったね。でも前は結構スムーズには行かないものだったよ」
望月が答えた。
「そうだったんですか」
「メンテナンスの日の前から歪みが出るなんてしょっちゅう。毎年10月1日近辺はそういうものに振り回されっぱなしだったものよ」
言うと、望月は煙草を咥え、一度吸って言葉を続けた。「管理人の性能が上がってからだね、スムーズに行くようになったのは。つまり、史ちゃんになってからってこと」
「へえ、史ちゃんって高性能なんだ。…というか、史ちゃんの頭の中のコンピューターが高性能、ってことか」
「脳の半分が電子頭脳に置きかえられているのよね、彼は」
そこへ針山が口を挟んだ。「普段の姿からは想像つかないよな。見た目は普通の呑気な兄ちゃんだし、ゲームは弱いし」
「わ、ハリーさん、自分が強いからって」
「半分電子頭脳の史ちゃんより強い俺は大天才かも…と言いたいが、普段の史ちゃんは、その能力使っていないもんなあ」
「このビルを維持するための能力ですからね」
釘山のその言葉に望月が続けた。
「史ちゃんが全力でゲームをやったら…、ハリーさんだって誰だって敵わないでしょうね。それこそ将棋やチェスのAIどころのスペックじゃない、ビル一つとその中身、もちろん私たちも含めて、すべての位置座標を管理しているんだから」
「はー。そんなことが行われている、ってだけでも信じられないけれど、それを史ちゃんがやっているなんてね」
「彼が機能していなければ、ここはどうなるか全く分からないわよ。それこそ存在すら出来なくなるかも」
「でも本人は自覚ないんでしょ?」
「そう。強力な暗示が掛かっていて、普段は彼、無意識にビルの歪みを見つけて計算して、『管理局』のコンピューターに送信までして解決しているの。年に一度の『メンテナンス』の時だけ、その頭脳をフル稼働するために暗示を解除しないといけないけれど」
「そのための手紙が毎年10月1日に送られてくる、と」
「そう。基地局から技師に、毎年変わる解除コードが送られてくるわけ。技師はそれで管理人の暗示を解いて、『メンテナンス』を実行させる。技師の立花ちゃんは毎年ひとりで大変よね」
「ほんとだよ。とはいえ、俺らじゃ難しいことは全く分かんねえしなあ」
針山の言葉に、一同、深く頷いた。
涼しい風が吹いてきた。秋の虫の声もする。昼間は真夏のように暑くても、日が暮れればもうずいぶんと過ごしやすい。
煙草の煙が室内に入る風向きになったので、釘山もベランダに出てガラス戸を閉めた。
「そうすね。俺らに出来ることといったら、行方不明の手紙を探し出すことくらい」
「そういえばクギー、手紙はどこにあったんだ?」
針山の言葉に、釘山は不満そうな顔をした。「クギーはやめて下さいよ」
「まあ気にするな」
「気になります。語感が悪いっすよ」
言った後、釘山は続けた。「手紙は立花ちゃんの下の、『レオ』にありました」
釘山はふたりに、手紙を見つけた経緯を話した。
「あの集合ポスト、だいぶガタが来てるからな」
言いながら、針山は灰皿の上で手にした煙草を弾いた。
「また変な場所にあったものねえ。よく見付けたね、えらいえらい」
望月は二本目の火を点けると、笑いながら釘山の頭を軽く撫でた。
釘山はまた少し嫌な顔をし、でもすぐに真顔に戻った。「それで、『レオ』のポストを開けたんですが、あそこテープと南京錠で閉じてあったでしょ? 中に重要そうな郵便物とかチラシとか、入ったままだったんですよね。あれじゃ本人だって取れないでしょうに」
「ふうん、まあ、ありがちよねえ」
望月の言葉に、針山も頷く。
「そうなんですか?」
「そうよー。ポストや部屋の中を散らかしている人が、身なりなんかはきちんとしていて、全くイメージが繋がらないなんてことは、よくあるものよ」
「そうなんです。『レオ』はきれいで洒落た感じだし、店長の風間さんもそんなイメージで…だから、意外でした」
「ふふん。人なんて得てしてそんなものよ。探偵業なんてやってりゃあ特に、人の表と裏とを見せつけられる日々だわね。あんただって3年もやっていたら分かるでしょ?」
「まあ…そうですけど」
針山は静かに、ふたりのやりとりを聞いていた。そして言った。「風間さんのアレは、おそらくそこまで気が回らないからだろう。忙しいからなのか生来の性分なのかは分からないがな」
針山は一瞬考え、訊いた。「…あの美人さんが気になるか?」
「い、いや、別にそういうんじゃ…」
釘山は慌てて否定する。
望月はそれに笑みを浮かべつつ、腕時計を見た。そして言った。「ところでハリーさん。今日これから出掛けるのよね?」
「あ、はい」
「また時間が止まっているみたい。あんたたちが帰って来てから時計が動いていない」
「やべ。出ます」
針山が火を消し、ガラス戸を開けた。
「あ、俺も、事務作業あるんで」
釘山もそれに続く。
「私も出掛けなきゃ。さあ、仕事しますか」
望月も伸びをし、部屋に入った。
つづく