第3章 レオ
立花と、その後ろについてきた史は、『yuta’s balcony』を出ると共用の階段をかなり大きな足音を立てながら駆け下りて1階に降りた。
その勢いのまま、白い煉瓦の外壁に沿って左に折れる。すぐに洋菓子店『レオ』の自動ドアが現れる。ふたりはドアが開き切るより先に店内に飛び込んだ。
客はいなかった。それどころか、全くの無人に見えた。ショーケースの先のカウンター越しに見える厨房にも、店員の姿さえ見つからない。
天井に付けられたスピーカーから流れてくる、穏やかな旋律のピアノ曲が、今はやたらと大きく聞こえる。それに冷房が効きすぎていて、寒気がするぐらいだった。
史が先に、カウンターの向こうへ進み出た。
立花がすぐそれについて行こうとしたが、史が手を出してそれを遮った。
ゆっくりと、史が進む。
厨房は、つい今しがたまで仕事中だったように、器具や材料が置いたままになっていた。それらを見付け、さらに辺りを見回した史は、中央の作業台の先に、うずくまる人影を見た。
床にしゃがみ込んで、下を向いている。長い髪で、表情は全く見えない。
「風間さん?」
史は声を掛けながら近付いた。
人影は微動だにしない。
史はすぐそばまで近付き、その肩を軽く叩いた。
すると、ゆっくりと頭が動いた。
「風間さん。大丈夫ですか?」
史も床に膝をつき、もう一度話しかけた。
風間は、その黒目がちの大きな瞳で史の方を見た。
「管理人さん。どうしてここに?」
「上の部屋の人から、大きな物音がしたって聞いたんです」
言うと、史は再び、大丈夫ですかと訊いた。
彼女、風間は史の問いかけに頷き、そして品のよい形の唇で、穏やかな口調で言った。「大丈夫です、何でもありません」
その様子を見ていた立花は思い出した。
梅雨の初めごろ、ここが開店するための改装工事をやるとかで、立花の部屋まで挨拶に来た女性だ。人目を惹く美人なのに、話しぶりは控えめで穏やかだった。そのくせ彼女が帰った後しばらくまで、その雰囲気に中てられてぼんやりとしてしまった。自分にはないものを持っている人だ、とつくづく思ったことまでが甦ってきた。
しかし今の彼女は、その時と比べてもやや顔色が悪いように見える。
「でも…」
立花は史の後ろで同じようにしゃがみ込み、訊ねた。「大きな音が聞こえましたよ。どこか怪我したとか、具合が悪いとかなんじゃ…?」
「本当に大丈夫です。その、ちょっと、居眠りしてしまっただけなんです」
きまり悪そうに微笑しながら風間が答え、立ち上がった。
史と立花もそれに続いた。
「ゆうべは寝ていなくて。手が空いて、少し休もうとしたらすっかり眠り込んでしまったみたいです。お騒がせしてすみません」
謝る姿にも華がある。
「いえ、何でもないならいいんです」
史が言った。いつもよりにこやかに見えるのは立花の気のせいか。
その時、店先から大声がした。
「どうだったの? 大丈夫?」
鳥飼だった。
「大丈夫みたい」
立花が振り向き、答える。
「ねえ、お客さんが来たみたいなんだけど」
鳥飼がまた声を上げた。彼がいる店先からは窓越しに駐車場が見え、車が停まって人が降りて来るのが分かったのだ。
「売る物無いんでしょ? 開店が遅れてるとか言っておこうか?」
「ああ、私が出ます」
風間が言いながら厨房から出たとき、客が扉を開けた。
立花もやってきて、ショーケースを覗き込んだ。
「本当だ。ないね」
「それに、匂いも全然しないじゃない? いつもはチョコレートの匂いがすごいのに」
「ああ、そういえばそうだ」
鳥飼の言葉に立花は頷いた。
史も来て、彼はショーケースの内側に立った。そして、
「いらっしゃいませ」
と、店員の真似をしてにこりとしてみせた。
鳥飼がひょいと近付いて言った。
「とりあえず、中トロとウニ」
「ケーキじゃないじゃん!」
史と立花が同時に声を上げた。
「寿司屋にだって、こういうのあるじゃん」
「あるけどちょっと違うー」
また、ふたりが言った。
「じゃあ、『神戸牛ロースすき焼き用、五百グラム』」
「鳥飼さん、さっきから贅沢~」
「違う。俺はケーキ屋さんがやりたいんだ!」
「だって、ケーキないじゃん」
「寿司も肉もありませんですよお客様」
「はいはーい、私が買うよ。スクエアのブラウニー、ハーフサイズ下さーい」
「ありがとうございまーす」
三人でふざけていると、風間がそっと声を掛けてきた。
「本物のブラウニーは今から焼きますね。お騒がせしてすみませんでした」
その言葉に、史が風間の方を向いて訊ねた。
「今日は、パートの方は来ないんですか?」
「はい、お休みなんです。お子さんの授業参観だそうで」
「あ、いつもいる人でしょ」
立花が口を挟んだ。「私、あの人が焼いているんだと思ってた」
「黒田さんには、接客の方をお願いしているんです。私はそういうのが苦手で」
それで、挨拶の日以来会わなかったのか、と立花は納得した。
「ねえ、俺そろそろ帰るわ」
鳥飼が言った。
「私は何か手伝えることがあれば…」
そう立花は言ったが、
「いえ、大丈夫です」
風間が答えたので、ふたりはドアに向かった。
史は、ショーケースの内側にいたのと、風間に話しかけていたのとで、ふたりよりも少し遅くなった。
「何かあったら、遠慮なく呼んでください」
史の声が聞こえる中、鳥飼と立花は小声かつ早口で話す。
「不具合が発生したかな」
「私、後で様子見に来ます。鳥飼さん、史ちゃんに余計なこと教えないで下さいよ」
「立花ちゃんの邪魔はしていないつもりだよ。しかし今回は不安定な予感が」
「なんとか『メンテナンス』まで持ちこたえなきゃ。実はまだ手紙が来ないんです」
「え、昨日来るはずだろ。そのせいじゃ…」
そこまで話した時に、史がふたりのそばまで来た。
それから1時間ほど経った頃、立花と風間とは、『レオ』のオーブンの前にいた。
立花は学校の制服から着替え、白Tシャツに若草色のパーカー、膝上のデニムスカートという恰好だ。風間の姿は先刻と変わらず、白いシャツとベージュに黒い林檎柄のエプロンスカート。違うのは、長くウエーブのかかった髪をひとつに束ねてスカートと同じ生地の三角巾で包んでいることだった。
厨房の一角には、業務用にしてはやや小ぶりなオーブンが二台並んでいる。
彼女たちは神妙な顔つきで、オーブンの中を覗き込んでいた。
立花が、厨房の隅にある銀色の置時計を見た。
中の生地を焼き始めてから、30分ほど経っている。とっくに出来上がっている、筈だと風間は言う。
風間がオーブンの扉を開け、天板を引き出した。
30分前にこの天板へ流し込まれたのは、どろりとしたブラウニーの生地だった。しかし今天板に広がっているのは、白い粉や黒い粉、殻のない生卵、溶けたバター、小片になっているチョコレート、生クリーム…などである。
「また失敗…」
風間が溜息をつきながら呟いた。
「余熱まではうまくいったのに…」
立花も思わず声を上げた。
風間はそっと、天板を作業台に置いた。
「仕方ありません。もう1台の方だけで何とかします。そちらは問題ありませんから」
そのもう1台のオーブンからは、ブラウニーの甘い香りが漂ってきていた。
「今日は休みにしたし、なるべく早く修理を頼んでみます」
「それなんですけど…」
立花が言った。「ただのオーブンの故障じゃないと思うんです。ほら、混ぜたはずの材料が、混ぜる前に戻ってしまっているでしょ?」
「そうですね。考えてみたら、あり得ないことです」
風間が頷く。
「風間さんは聞いていましたか? その…このビル、『メンテナンス』が近いんです」
「ここを借りるときに説明を聞きました。でも私、数学や物理は苦手なもので、いまいち具体的には理解できなくて…」
風間が困ったような顔をした。
『レオ』がオープンしたのは、改装が終わった後、今から2か月ほど前だった。この『タマキビルヂング』の店子の中では一番新しい。まだこのビルの事を何も知らないのは無理もない。立花もかつて、『技師』としてここに来る際、研修や勉強会などで学びはした。おそらく普通の店子の契約時よりもずっと詳しく。
だが、それからのちの経験からすると、事前の説明は大して参考にはならない。
このビルは変わっているから。
立花は、ならばと勢いよく話し出した。
「説明って、このビルの中では時間や空間に歪みが出やすい、だから『基地局』と『管理人』と『技師』がそれを修正することでこのビルが今、この空間に存在できている…っていう話だったでしょ?」
風間は黙ったまま頷いた。
「今回のことも、実はオーブンの故障ではなくて、オーブン内の時間が遡っているんだろうと私は思います。そのせいで、混ぜたはずの材料が混ぜる前の状態に戻ってしまっているんですよ」
立花は言葉を切って、風間の方を見た。
風間はまた、分かりますというふうに頷いた。
「本来なら、メンテナンスの前にこういうことが起きるのはあり得ないのですが、たまにその前に起こってしまう場合もあるんです。実は、おかしくなっているのはここのオーブンだけじゃないんです」
「え、そうなんですか?」
風間の問いに、立花は頷き、続けた。
「実はこの真上、私の仕事場にも歪みが出来ていて…迷い込んだ虫なんかが大きくなったり小さくなったりして、います」
立花がまた、言いにくそうな口調に戻った。
彼女の頭の中には、『yuta’s balcony』のベランダに立つ史と鳥飼の姿があった。
ふたりは何か話しているようだったが、立花が外から声を掛けたとき、鳥飼はひどく取り乱したように見えたし、史の方は全く気が付いていなかった。その数秒後に、史は急に我に返ったようなそぶりで、視線をこちらに向け、笑って手を振った。
鳥飼さんが何かしていたんだ、とすぐ思いついた。
いいよな、あの人は呑気でいられて。…そう思いつつ、立花は言った。
「他の部屋でも問題が出ているかもしれません」
「では、『メンテナンス』が済むまで、この状態が続くということでしょうか」
「いえ、史ちゃんがいるから大丈夫です」
風間が怪訝そうな顔をしたので、立花は言い直した。「管理人さんです」
「ああ、管理人さん」
「史ちゃんが来てくれるだけでいいんです。それだけで解決しちゃうんです」
試しに呼んでみましょう、と立花は続けて言うと、ポケットのスマートフォンを取り出した。
「立花さんは、確か、技師さんなんですよね?」
風間が訊ねた。
「はい。管理人の補助みたいなものです」
「すごいですね。難しい計算なんかもできるのでしょう?」
「いえ、殆どコンピューターと…史ちゃんが計算してくれますから」
立花は言うと、続けた。「でも、史ちゃんの前ではこの話はしないでください。お願いします」
「ええ。それも最初の説明で聞きました。気を付けます」
しっかりとした返事だった。この人は信頼できそうだと立花は思った。
「そうだ。管理人さんを呼ぶんでしたら、さっきのもうひとりの方もぜひ。私、お礼をちゃんと言っていませんでした。確か2階の方ですよね」
「ああ、あの人は」
鳥飼のことだろう。そういえば、彼も心配して来てくれたのだろうか。「202の鳥飼さんです。ちょっとふざけたところがあるけれどいい人ですよ。訊いてみます」
立花は史に掛けた。
「あ、史ちゃん。…今『レオ』にいるんだ。風間さんも一緒だよ。ちょっとオーブンの調子が悪いみたい」
立花が通話している間、風間は厨房と店の奥を行ったり来たりしていた。
「うん。よろしく。鳥飼さんも来られないかな? …そうか。私? いるよ」
話を終えて、立花が風間を目で探した。が、厨房にはいない。
厨房とその奥の部屋とは、チョコレート色をした長いレースの暖簾で仕切られていて、立花からは中が見えなかった。でも、史と通話している間に、風間が暖簾の奥に入って行くのを見ていた立花は、スマートフォンを持たない左手で暖簾を軽く避け、奥を覗きつつ声を掛けた。
「風間さん。鳥飼さんは来られないけれど、史ちゃんはすぐ…」
そこまで言って絶句した。
奥の部屋は厨房よりやや狭かった。真新しい壁紙に包まれた室内。
しかしそこには、床が見えない程に服や本や雑貨がいっぱいに散らばっていた。中央にあるテーブルや、壁際に置かれたソファの上もまた然り。棚がひとつあったが、その扉や引き出しは殆どが中途半端に開いており、ものが詰め込まれて閉められなさそうな所もあれば、空なのに開けっ放しの所もあった。それに棚自体、壁に沿うのを嫌がったかのように斜めを向いている。
「ここにも歪みの影響が…?」
呟いた立花に、慌てたような風間の声が聞こえた「違うんです、これは」
風間は棚の陰から姿を現した。
「これは…ちょっと忙しくて、引越しの片付けも途中で…」
「あ、」
立花は暖簾を離した。「…ごめんなさい」
厨房の作業台まわりには椅子が並べられ、テーブルの代わりになっている。
温かい紅茶が淹れられたのは、白地に紫陽花の花が描かれたカップ。立花の前のそれは、淡い紫色だ。その傍らには、小さな正方形のブラウニー数片が盛り付けられて金色のフォークが添えられたデザート皿。皿の縁に紫陽花と似た色のラインが引かれていた。風間の紫陽花はもう少し濃い紫、史の分は青だった。
立花が座った位置からは、『レオ』の店先が見えた。厨房と店とを隔てるカウンターには、白とチョコレート色を基調にした置物が程よく飾られていた。壁にも同じ色合いで、絵や造花が掛けられている。ブラウニー専門店らしい色合いで、明るくて清潔感と可愛らしさもある。以前から何度か買いに来ていたが、素敵な店だ、と立花は改めて思った。
だからこそ先刻の、奥の部屋の様子がひどく驚いたし、今でも信じられずにいた。
でも、あまりそこは考えない方がいいとも思った。裏側はどこでもそんなものかもしれない。忘れよう、と立花は心で呟いた。史と風間が何か話している、そこに混ざろう。
「私、辛いものが苦手なんです」
風間の声だ。
「大丈夫ですよ。辛くないようにしてもらえば、小さい子供だって食べられるんですから」
史が言っている。「家族連れで来る常連さんも多いですよ。ね、立花ちゃん?」
「え」
突然呼ばれて立花は驚いた。何の話か分からない。
「聞いてなかったの?」
史が笑った。彼はよく笑う。「『ランペ』のカレー」
「ああ、ユキさんのところ」
立花はつられて笑顔になった。
「全然辛くないのも出来るんだよな?」
「そうそう。おいしいですよ」
立花は、史と風間を交互に見ながら言った。
「立花ちゃんは、逆に激辛が大好きなんだよな?」
「うん。辛いの、全然平気」
全然、のところに力を入れたら、風間がくすりと笑った。立花から見てもその姿は美しい。
立花が史を呼んだ表向きの用はもう終わっており、今は、風間が礼にと用意した紅茶と菓子を、三人でのんびり囲んでいるところだった。
史が来るとすぐ、立花と風間でオーブンが壊れたことを説明した。時間が戻る云々とは言わず、ただ壊れたとだけ。そして修理の依頼を史に頼んだ。
それで終わり。
本当にそれだけなら電話でも充分に済む用だったが、実際は史に直接来てもらわなければならなかった。
おそらく、こうして談笑しているうちに、オーブンはもう直ってしまっているだろう。その理由を風間に訊ねられたら、
「史ちゃんが来たから」
簡単に答えるなら、こう言う。もし詳しい説明を求められたら、少し長い話になる。
それは史自身も知らない、否、普段は彼が忘れている『管理人』の役目についての話だ。
だから、オーブンを直したという自覚は、史に無いはずだ。
それでいい、と、立花は心の中で思った。優しくていつも笑っている史がいればいい、と思いながら、史に目を遣った。
史は今、風間と楽しそうに話している。
どちらも穏やかな雰囲気のあるふたりだ。並べても違和感がない。どころか…ふと立花は、こういうふたりを「お似合い」というのだろうかなどと思った。
自分と史では雰囲気はだいぶ違うだろうな、などとも思う。自分は気が短い方だし、苛ついているときには良くないと思いつつ人に当たってしまう。美人でもなければ品のよいわけでもない。考えれば考えるほど、自分の嫌なところが出て来るように思えた。
考えることに疲れた立花は、もう気にするのはやめよう、と自分に言い聞かせた。
別に、自分と史が似合っていなくてもいい。立花は『技師』として史の補助をするのが役目、それだけだ。だからなるべくコミュニケーションを図り、業務を円滑に進められるようにしている、だけだ。そう、講習で言われた通りのことをしているだけだと、立花は頭の中で唱えた。
落ち着くために、紅茶をひと口飲んだ。足りなくて、ブラウニーを1片、口に押し込んだ。
その夜、立花の部屋に風間が訪れた。
「オーブンの調子がよくなりました」
彼女は嬉しそうに言った。わざわざ報告に来てくれたのだ。
「よかった」
本当にいい人なんだな、と立花は思った。
「不思議ね。彼が来ただけで直ってしまうなんて。…その、最初の説明で、『管理人』は普通の人間ではないとは聞いたけれど…」
「まるっきり普通の人みたいでしょ? というより、すごくのんびりした人でしょう?」
立花は言った。「ここの『管理人』とは思えないくらい」
「ええ…でもいい方ね、今日話して分かりました」
「まあ、性格だけはいい…かもしれません」
「立花さんは、史さんとずいぶん仲がいいんですね」
「そりゃあ『管理人』と『技師』ですから」
立花はあっさりと言った。自分でも少し驚いた。
「そうか。そうでしたね」
風間は頷いた。何か言いたそうな雰囲気があったが、言わなかった。
立花は続けて言った。「ここはもうすぐ『メンテナンス』に入るので、私は少し忙しくなりますが、また何かあったら史ちゃんを呼んで下さい。それで解決すると思います。でも、昼間も言いましたが、史ちゃん本人にはそういう話は絶対にしないで下さい」
立花の顔が真剣な表情になった。「史ちゃんには、自分は普通の人間だと思っていて欲しいんです」
分かりました、と、風間も真面目な表情で答えた。
立花はほっとして、でも、お願いしますと念を押した。