第4章 望月探偵事務所
翌日の昼近く、立花は学校でテストを受けた後、あのやたらに揺れるバスに乗って『タマキビルヂング』へ出勤した。
集合ポストを確認する。やはり、手紙はない。
溜息をついたところで、階段の上の方から、自分を呼ぶ声がするのに気が付いた。見上げると、声の主は鳥飼だった。
「手紙、届いた?」
鳥飼の問いに、立花は首を横に振った。
「基地局に問い合わせてみたの?」
「うん。でもちゃんと送った、って」
言いながら立花は階段を上り、鳥飼のそばまで来た。「でも明日までに届かなかったら再送してくれるって」
「じゃ、とりあえず大丈夫か」
「でも届くのは1週間後なんだって」
「けっこう先だなあ。あ、あのねこれ、貰ってくんない?」
言いながら鳥飼は階下を見、差し出したのは、茶色いリボンのかかった白い袋だった。中央には『レオ』のロゴ。
「ゆうべ、風間さんが昼間のお礼にってわざわざ持って来てくれたんだけれど、俺、チョコとかココアの味苦手なんだよね」
「へえ、珍しいですね」
「そう? 確かに自分以外で聞いたことないな」
「いやいや。鳥飼さんが嫌いなもの貰うのが珍しいなって。即「それ嫌いなんで」って断りそうなイメージ」
「俺だって別に、言いたいこと何でも言っている訳じゃないよ」
そういえば鳥飼は先刻から小声だ。風間に見つからないようにということか。
「ま、そういうことで、これ貰って。風間さんには内緒な」
「いいけど…」
鳥飼は立花に袋を持たせると、そそくさと自分の部屋へ戻ってしまった。
あの鳥飼でも、美人にはものが言いにくいのだろうか。
「まあいいや。私には関係ないもん」
立花は片手に鞄と袋を持ち、もう片手で鍵を取り出した。
タマキビルヂングの302号室には、『望月探偵事務所』がある。
ドアを開けるとすぐ左に受付のカウンターがある。その奥には事務机がふたつ、向かい合わせに置かれていて、そのさらに奥は天井までの書類棚で仕切られていて、入口からでは見えない。
右方向には、やはり向かい合わせの事務机がふたつあるが、椅子は奥にひとつだけだ。椅子に向かって右は給湯室とトイレ、左は棚で、棚の奥には観葉植物の隙間からわずかに応接セットが見える。
このビル内の店子の中で、ここが一番置いてあるものが多く、そのうえ重量感のあるものばかりなので、部屋全体が手狭に感じられた。
真下の鳥飼の部屋と同じく、ここにも細長いベランダがあるが、別世界のようにがらんとしている。隅に喫煙スペースが設えてあるくらいのものだ。
このビルの管理人である史は今、カウンターのすぐ奥にある机の隅に肘をつき、数枚のカードを手に考え込んでいた。
机の上は書類らしき山が幾つも連なり、僅かな平地にはボードゲームの盤が置かれている。カード類や駒のようなものがその盤の上に乗っている。机の反対の端には、史と同じような姿勢をした五十歳前後と思しき男がいた。史はTシャツにジーンズ姿だが、男はくたびれ加減の地味なスーツを着ていて、それがとてもよく馴染んでいる。他に両者の違いといえば、史が難しい顔、男が余裕ありげに笑顔であることか。
「だめだー。さっきよりひどい」
史が大声を上げ、カードを投げるように机に置いた。
「史ちゃん、途中から勝負を投げていたろう。だからだよ」
男が笑顔のまま言った。
「だって…。針山さんが強すぎるんですよ。結局土地ほとんど持ってっちゃうんだもん」
勿論、ゲーム盤上での話である。
「諦めたらなお勝てねえ、っての」
カードを集めながら針谷が言った。「実生活でもこれだけ儲けられたらいいのになあ」
「針山さんはギャンブルとか強そうだな」
「それが、そうでもないんだよ」
針山は難しそうな顔をして見せた。「じゃ、コーヒーよろしく」
「はいはい」
史が立ち上がった。「針山さんがブラックで、えーと、釘山さんは…?」
「俺の分も淹れてくれんの? 悪いね」
向かいの机にいた、史くらいの年か或いは少し年長らしき男がモニターから視線を上げ、言った。針山と似たような格好だが、上着は椅子に掛けているし、こちらの方がだいぶ小ぎれいに見える。「俺もブラック。あと、鳥飼くんの分も淹れたげて」
書類棚の向こうから、鳥飼が礼を言うのが聞こえた。
史は、慣れた様子で給湯室へ向かった。
「ハリーさん」
釘山が針山に言った。「俺、コーヒー飲んだら外出してきます。車使っていいですか?」
「おう。今日俺は自分の車で来ているし、所長も使わないって言っていたから、何なら直帰してもいいぞ」
「今日はなるべく戻ります。事務所でやることあるし」
「最近真面目じゃなーい?」
「前からですよー」
針山と釘山、ふたりはここの調査員である。
ふたりが話す事務机の横の通路を、鳥飼が観葉植物を乗せた台車を押して通ってゆく。そしてカウンターで足を止めた。
そこには鳥飼がつくったテラリウムが飾られている。球体のガラス容器の底には苔の丸い塊が数個あり、そこからめいめいに小さな植物が葉や枝や蔓を伸ばしていた。ひときわ長い蔓は斜め上部の口から外に垂れていた。鳥飼は容器の位置を少し傾けると、頷き、台車とともに外に出て行った。やがて身ひとつで戻って来た。
その時には史も給湯室から戻っていて、ボードゲーム関連のものだけが片づけられた針山の机(書類の山はそのまま)にコーヒーカップを置いた。
「はい、鳥飼君」
史が差し出したカップをとり、鳥飼は椅子のある、釘山の机のそばに行った。彼は身に着けていた手袋とエプロンを外し、針山、釘山の視線を感じつつ、釘山の机の上で、添えられたスティックシュガー5本を全て開けてコーヒーに投入した。
「5本も砂糖入れる人、初めて見た」
釘山が思わず口にした。
「そんなに入れても溶け切るもんなんだな」
針山は変なところに感心している。
「ハリーさんは前にも見たことあるでしょう」
スプーンをカップへ差し込んでカラカラ回しつつ、鳥飼はこともなげに言う。
「いやあ、いつ見ても気持ち悪いわ」
「じゃあ見なきゃいいでしょう」
「鳥飼くんはずいぶん甘党なんだね」
釘山が言うので、
「飲み物はね」
返し、コーヒーを口にした。
「そう言うこいつだって」
針山が、釘山を指差して言った。「ここに入ったばかりの時は、コーヒーには砂糖もミルクも入れていたんだぜ。いつの間にか恰好つけるようになって」
「そんなんじゃないですよ」
釘山は少し乱暴な言い方になった。「ハリーさんに合わせていたら、いつの間にか平気になっていたんです。この仕事は時間も不規則だから、眠気覚ましに飲むことも多いしね」
「やっぱり夜になることが多いんですか?」
史が問うと、針山が答えた。
「そりゃあな。探偵ってのは、殆どの仕事は浮気調査と家出人探しだ。どっちも、ターゲットが動くのは夜が多い」
「最近はそれに、相続人探しってのも増えてきてますよね」
釘山が言った。
「相続人?」
今度は鳥飼が訊ねた。
「そう。お年寄りだけで住んでた家が空き家になって、何十年も放っといた後に処分しようとなった時に、子供や孫も亡くなっていたり音信が途絶えていたりして、話し合いたくてもできない場合があるわけ。でも処分するには、相続の権利がある人すべての許可が必要なんだよね、面倒だけれど、当然といえば当然のことで」
史が訊いた。
「その連絡つかない親戚を探してくれ、って?」
「そういうこと。これから出掛けるのも、それ」
言うと、釘山はコーヒーを飲み干し立ち上がった。「じゃあ、行って来ます」
「気を付けてな」
針山が釘山に車の鍵を渡す。
鳥飼がはっとして、誰にも聞こえない声で呟いた。「そうか。ここは探偵事務所だった」
釘山がいつもの急ぎ足で出掛けてゆくと、針山はカードを手にして史に訊いた。
「もう一回勝負するか?」
「します! 鳥飼くんもやろう」
史は勢いよく即答し、鳥飼の方を見た。
「俺、そのゲーム分かんない」
「このハリーさんが教えて進ぜよう。史ちゃん、おかわり」
「えー」
「ハリーさんは仕事しなくていいんですか?」
史は空のカップをまとめて立った。その姿が給湯室に消えたのを見計らって、鳥飼が小声で針山に言った。
「探偵って、どんな依頼でも受けてくれるんですよね」
針山も声を潜めて返す。「そりゃ便利屋の間違いだ。依頼内容は?」
「『メンテナンス』前に来る例の手紙がまだ、立花ちゃんの元に届いていないんです」
「今日は…3日か…」
針山は卓上カレンダーに目を遣った。子ウサギが数匹眠っている写真が載っていた。
「発送はちゃんとされたようなので、このビル内のどこかにあるんじゃないかと思うんです。再送だと1週間後だそうで」
「そりゃ遅いな。探してみるわ」
「お願いします。…カレンダー、かわいいですね。ハリーさんの趣味ですか」
「これは所長の趣味だろ。毎年勝手に新しいのが置かれているんだ」
ほらあれも、と、針山が指差す壁掛けのカレンダーは、アルパカの群れを明るい色彩で描いたイラストが付いていた。ここに観葉植物を貸し出すようになって一年程になるが、カレンダーが目についたことはなかった。
「へえ。女の人ってこういうの好きですよね」
「女にもよるだろう」
「一階の『レオ』にも動物の置物が…」
入口の扉が開いた。
早足で釘山が入ってくる。「あれ、鳥飼くんまだいたんだ。ふたりの巻き添え? ついでに晩飯みんなで食おうか」
言いながら、彼は席に付き、PCのスイッチを入れた。
「釘山こそ、外出はいいのか?」
針山が声を掛けた。
「え、もう済んで帰って来た…いや、今何時ですか」
「2時半だ」
聞いた途端、釘山が顔色を変えた。「俺が出掛けた時刻ですね」
「今出て行ったばかりじゃないか」
「あれ、釘山さん」
史が給湯室から出て来ていた。「どうしたんです、忘れ物ですか?」
「う、ううん。相手の都合でキャンセルになったんだ」
咄嗟に釘山は言った。
「だったら一緒にゲームしませんか?」
「ごめん。仕事あるんだ」
返事もそこそこに、釘山は勢いよくキーを打ち始めた。
針山、史、鳥飼は針山の机を囲み、史がカードを配り始めた。そこへ、針山のPC からアラーム音が聞こえた。
「メールだ。ちょっと失礼」
針山は座った回転椅子を慣れた動きで回し、PCに向かった。
メールは釘山からだった。
俺は14時半にここを出て、予定通りに帰って来て、車を降りた時には18時過ぎでした。車内ではずっとラジオを聞いていたから間違いありません。俺の腕時計も今18時13分です。外は暗くなっていました。ここは俺が出掛けてから時間が経っていないんですか? 窓の外が明るい。
針山が返信した。
こっちはお前が出てから何分も経っていない。少し話をしているうちにお前が帰って来た。鳥飼くんから聞いたが、例の手紙がまだ立花ちゃんに届いていないそうだ(探すのを頼まれた)。その影響で、この部屋だけ時間の進みがおかしいのかもしれない。
すぐにまた釘山からのメールが届いた。
じゃあ俺が手紙を探してきます。ハリーさんは史ちゃんをお願いします。史ちゃんがここにいるのに時間が歪んだのだとしたら、ちょっとまずいですね、今の彼では抑えられない程に歪みが進んでいるということですから。急ぎます。
「別件で外に行って来ます」
言いながら釘山は立ち上がり、窓のカーテンを閉め、事務所を出た。
「…とはいえ、どこをどう探してよいやら」
階段を下りながら、釘山は呟いた。
とりあえず集合ポストだろう、と思い、1階へ行く。周囲には誰もいなかった。ちょうどいい。
試しに立花のところ、『201』を開けてみる。中は空だった。他の部屋に間違って入っていないだろうか。そっと音を立てないように閉じて、隣の鳥飼の『202』を開けた。チラシの類が数枚あっただけで、封書はない。自分の職場の『302』も同じようなものだった。その隣、『301(管理人室)』には先週来ていたピザ店のものをはじめ、チラシはもっと多く入っている。
「史ちゃん、あまり見ていないな」
呟きつつ、それらを取り出して丁寧に確認してみたが、手紙は混じっていなかった。
釘山はチラシを元のように戻し、1階の2つのポストに目を移した。
先に『102(ランペ)』の扉を開けた。中は空。
最後は『101(レオ)』だ。しかし扉には南京錠が掛かり、投入口はガムテープで閉じられていた。
釘山はポストの前を離れ、外へ出ると外壁に体を沿わせ、『レオ』のガラス壁から中を覗いた。店内は混雑していて、風間も店員も忙しそうだ。ポストを見に来ることは当分なさそうだった。
釘山はポストの前に戻ると、スラックスのポケットから何かを取り出して、南京錠を手に取ると僅かの間に開錠してしまった。そしてその扉を開けた。
中からチラシの塊がどさりと落ちた。
「お、っと」
独り言とともにしゃがみ込み、チラシを拾いながら手紙を探す。落ちた束の中にはない。立ち上がって中に残ったチラシを漁った。中には封書もあった。が、釘山の探すものではなく、差出人は銀行や保険会社などだ。
「こんなのまで放っといていいのかねえ」
一番下まで見たが目当てのものはない。釘山は元の状態にして南京錠を閉めた。
他に探す場所を考えつつ、もう一度、立花の部屋のポストを開けてみた。
中をよく見てみた。あちこち歪になっている集合ポストであり、背板のステンレス板も、釘山が軽く押すと音を立てて凹んだ。と、その押した瞬間、下の方でかさっと僅かな音がした。何かが落ちた音のように聞こえた。
気付いた釘山はもう一度『レオ』の南京錠を開けると中身を全て出して覗き込んだ。
すると、背板と底板の間に空いたわずかな隙間に、何かが挟まっている。つまんで引っ張り出すと、それは、立花宛の封書だった。
「よくもまあ、こんなところに」
釘山は思わず口に出し、その手紙をじっくりと眺めたが、そんな暇はないと思い直した。彼は他の全てを元に戻すと、すぐに封書を持って立花の部屋に向かった。
呼び鈴を鳴らすと、立花はすぐに出てきた。
釘山が手紙を渡すと彼女は目を丸くして、どこにあったのかと訊ねた。嘘をつく気もないので、釘山は探し出した時の様子を話して聞かせた。
「鍵が掛かってましたよね、風間さんのところ」
眉間に皺を寄せて立花は言った。釘山と比べて年下だし小柄な、このビルの『技師』は、年齢の割に妙な迫力があるし、何かとお堅いタイプみたいだと常々感じていた。
「そうねー」
さらりと釘山は答えた。
「どうやって中を見たんですか?」
「やりようはあるのさ。詳細は企業秘密」
見付かったんだからいいじゃない、と釘山は軽く笑ってみせた。
「そうですね」
立花も納得したようだ。というより、手紙が見つかることこそが最優先だと割り切ったのか。いつもならまじめに追求してきそうなものだが。
「ありがとうございました。すぐ『メンテナンス』の準備に取り掛かります。釘山さんの周りはなにか歪みが起きていないですか?」
起きている。
「んー、俺だけちょっと老けたかな。今何時?」
「午後6時55分です」
立花が、顔のわりに大ぶりの眼鏡を指で上げ、自室の置き時計を見て答える。
その時、釘山の足に何かが触れた。見下ろすと、黒猫が一匹、立花の部屋から出るところだった。
「あれ、猫が外に」
立花の飼い猫だろうと思い、釘山は声を上げた。
「猫? どこにいるんです?」
「今部屋から出たんだ」
釘山は一度立花の顔を見、それから視線を猫に戻そうとしたが、猫の姿はなくなっていた。
「猫なんていませんよ」
立花が言った。「部屋にもいないですよ、飼ってないもん」
「そう。じゃきっと気のせい…かな?」
はっきり見た気がするが、いないのであれば気のせいか。或いは歪みの影響か。釘山は気を取り直してもう一度聞いた。「で、何時だっけ」
「午後の、6時55分です」
立花は、先刻と同じ調子でもう一度言った。
「じゃあ立花さんも俺と同じだ。うち今、時間が止まっているんだ」
「じゃあ史ちゃんを呼んだら…」
「その史ちゃんがいるのに起こっているんだから困ったもんだ」
立花が驚いた顔をしたので、釘山は素早く言い加えた。「まあ実害はないから大丈夫、俺は仕事の早い男になれるし。とにかく、立花さんは作業を進めて」
「はい。ありがとうございました」
もう一度丁重に礼を言われたとき、立花の背後に大きな影が見えた。
「そっちは…何かあった?」
釘山の方が驚く番だった。
「ああ、あれは、うちのぬいぐるみです。さっきから、段々と大きくなってしまって…」
立花が身を引いたので、釘山にも室内がよく見えるようになった。確かに熊のぬいぐるみのようなものだった。が、横になった足しか見えない。大人の象くらいの大きさになっているだろうか。その他にも、別な大きくなったらしいぬいぐるみの一部が幾つも見える。
「なんだ、大変じゃないか。そっちこそ史ちゃんに来てもらおうか?」
釘山が訊いた。が、
「大丈夫です。『メンテナンス』は『ランペ』でも出来ますから」
立花が落ち着いた様子で言った。「今は『メンテナンス』を最優先にしないと」
「っていっても、それじゃ不便じゃない?」
足の踏み場にも困りそうに見えた。
それでも立花は、ここはいいんです、と言う。
あまりしつこく言うのもよくない、と思い、釘山はその話をやめた。
立花さん、若いのにしっかりしているな。さすが『技師』だ。…釘山はそう思いながら事務所に戻った。
「またキャンセルですか?」
史の軽い調子の声が迎えた。
事務所の時計はいまだに14時半を指している。
「いや。一仕事してきたよ」
言いながら、釘山はポストに入れられていたチラシをひらひらさせた。
「ポストを見てきただけじゃないですか」
鳥飼が口を挟んだ。「そうだ、立花ちゃん宛の手紙が入ってなかったですか?」
「あ、それ俺も立花ちゃんに訊かれたよ」
史も言った。
「入っていたよ。今渡してきた」
釘山は胸を張って答えた。
「そうですか」
鳥飼の表情に安堵の色が広がった。
釘山は、黙ってこちらを見ていた針山に、一瞬にやりとしてみせ、言った。「晩飯行きましょうよ。もう夜ですよ、ここの時計狂ってる」
つづく




