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第410話 江戸の影、京の玉座

その頃、亜人連合国の江戸では――。


明帝たちが遠くマレンゴの地で戦火のただ中にある一方、その中心たる江戸城内は、日ノ本による土佐襲撃の報を受け、蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。


「た、大変だ! 土佐が襲撃され、よっとる公が捕らえられたぞ!」


「それだけではない! 内通者の手引きにより、土佐の領土すべてが奪われたとのことだ!」


「四国は戦になるぞ! どうなるのだ!? 我らは、どうすればよいのだ!?」


幕臣たちは、ただ右へ左へとうろたえるばかりだった。


誰もが声を荒らげ、誰もが不安を口にする。


しかし、その中にあって、具体的に何をすべきかを語れる者は一人としていない。


その有様を見て、大老『さかい』は腕を組み、深く息を吐いた。


(……まったく。 このような時に限って、帝は病と称して禁裏に籠もられたまま)

(上様も政権を返上されたのち、どこへともなく旅立たれてしまった……)


大老は苦々しげに、再度溜息を吐く。


(しかも薩長の奴らめ。 これを好機と見たか、公家どもと手を結び、堂々と軍備を整えておる!)

(日ノ本め!土佐の次は四国か、京か……あるいは、この江戸か!)


広間の空気は、すでに政を論じる場のそれではなかった。


恐怖と焦りばかりが先に立ち、誰もが互いの顔色をうかがっている。


だが、そんな中、大老の視線はふと、右隣で書記を行う男へと向かう。


男は、周囲の狼狽などまるで意に介さぬ様子で、ただ静かに筆を走らせている。


「……オグリ殿」


さかいは、周囲に聞こえぬほど低く声をかけた。


「おまえには、何か良い考えはないか?」


その声に、オグリの筆がぴたりと止まる。


「良い考え、でございますか?」


冷静なオグリの言葉に、大老は静かに頷く。


オグリは席を立ち傍によると、懐から一通の書状を取り出し、袖の陰に隠すようにして、大老の手元へそっと差し出す。


「……ではこちらをご確認くだされ」


さかいは周囲の目を避けるようにそれを受け取り、膝元でそっと広げると、視線だけを落とし、素早く文面を追う。


「……これは」


読み終えた大老の表情が、わずかに強張る。


「つまりオグリ殿は、帝は病に伏せておられるのではなく、どこか遠くへ行かれている――そう申すのか?」


オグリは小さく頷き、説明する。


「はい。 あの奇妙な船が古都に現れて以降、帝は病と称して人前に姿を見せておられませぬ」

「不信に思い、某が調べましたところ――禁裏には影武者まで立て、今もそこにおられるよう装っております」


そこで、オグリは一度だけ言葉を切った。


「帝は、間違いなく禁裏にはおられませぬ」


「何じゃと?!」


その一言に、大老は目が飛び出さんとばかりに丸くした。


「……その確信、どうやって得た」


大老は書状を握りしめたまま、オグリに問う。


「実は……上様より、お預かりしている者たちがございます」


「……まさか」


大老の目が、わずかに動いた。


オグリはそこで、さらに声を低くした。


「御庭番衆にございます」


その名を聞いた瞬間、大老は黙った。


御庭番衆――それは、将軍直属の隠密にして、江戸の影を司る諜報部隊である。


その存在を知る者は幕府の中でも限られ、ましてや彼らを動かす権限を持つ者など、さらに少ない。


そして今、その名を口にしたオグリは、将軍・慶喜公より直接その指揮を許された男だった。


それはすなわち、慶喜公がこの男をただの能吏としてではなく、幕府の奥底に触れさせてもよい人物として見ていたことを意味している。


「……そうか。 なるほど、よく分かった」


大老は低く呟くと、わずかに顎を引いた。


「ならば儂から、帝自ら雄藩に説明を求めるよう、書簡を書くと致そう。帝の御名をもって問い質されれば、薩長とて無視はできまい」


「それがよろしいかと存じます」


オグリは静かに頭を下げる。


大老は、なおも横目でオグリを見た。


将軍直属の御庭番衆を、己を飛び越えて預かる男。


大老である自分にさえ知らされぬまま、慶喜公から直接そのような役を任されていた事実は、決して面白いものではない。


だが、今は私情に囚われている時ではなかった。


帝の不在を逆手に取り、帝の名をもって雄藩に説明を求める。


表向きは朝廷の権威を立てながら、実際には薩長と公家の動きを封じる一手となる。


乱れきっていた盤面に、ようやく次の石を置く場所が見えた。


さかいの胸中に沈んでいた重石が、ひとつだけ外れる。


「……オグリ殿。助かった」


「恐れ入ります」


オグリはそれ以上、余計なことを言わなかった。


そして、何事もなかったかのように腰を下ろすと、再び筆を取り、静かに紙面へ走らせた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


それから間もなく、とく家より一報が入る。


日ノ本による土佐襲撃への対応を協議するため、二条城にて諸侯を集めた会議を開く――との報せであった。


御所、小御所の一室。


上座には、帝の代理を務める和が座していた。


明帝の双子の妹である彼女は、その顔立ちも、声も、うさ耳も姉と瓜二つである。


だからこそ今、帝不在を隠すため、こうして玉座に座らされているのだ。


その傍らには侍従・岩倉具視が控え、岩倉の呼びかけを受けた大久保一蔵と桂小五郎もまた、急ぎこの場へ駆けつけていた。


部屋には、重苦しい空気が漂っていた。


「和さま。突然の拝謁、恐れ入ります」


岩倉一同が静かに平伏する。


だが、和はそれを最後まで聞く余裕もなかった。


「挨拶は……よい」


声は、思っていたよりも小さく出た。


和はそれに気づき、膝の上で指先をぎゅっと握る。


同じ血を引く者として、今この場で弱さを見せてはならない。


そう分かっているのに、胸の奥は不安でいっぱいだった。


それでも和は、かろうじて顔を上げる。


「一体、何があったのじゃ……? 土佐が襲われたという報せは、真なのか?」


震える声での和の問いに、大久保と桂は、互いにわずかに視線を交わした。


岩倉はその痛々しさを見て、ほんの一瞬だけ目を伏せる。


だが、告げぬわけにはいかなかった。


「……真にございます。 日ノ本の軍勢が土佐を襲撃し、よっとる公は捕らえられたとのこと」「さらに内通者の手引きにより、土佐の領土はすでに敵の手に落ちたと見られます」


「そ、そんな……」


和のうさ耳が小刻みに震えた。


膝の上で握った扇子に、力がこもる。


けれど、すぐに俯くことはしなかった。


「そ、それで……とく家は、何を求めておるのじゃ?」


岩倉は懐から書状を取り出し、静かに和の前へ差し出した。


「二条城に諸侯を集め、土佐襲撃への対応を協議したいとのこと。そして――」


そこで岩倉は、わずかに声を低くした。


「十日後、その場に帝にも御臨席願いたい、と」


その瞬間、小御所の一室の空気が凍りついた。


「十日後……」


和は、書状に記された文字を見つめたまま、小さく呟いた。


十日。


長いようで、あまりにも短い。


その間に、姉である明帝が戻ればよい。


だが戻らなければ、自分が帝として二条城へ向かわねばならない。


明帝の顔で、明帝の声で、明帝のふるまいを真似、諸侯の前に立たねばならないのだ。


和は膝の上の扇子を、ぎゅっと握りしめた。


「……岩倉」


「はっ」


「姉上は……明帝は、本当に十日で戻られるのか?」


岩倉はすぐには答えなかった。


その沈黙だけで、和は答えを悟ってしまう。


「……そうか」


小さく呟いた声は、今にも消え入りそうだった。


だが、和は俯かなかった。


上座に座る者として、今だけは誰にも弱さを見せてはならない。


たとえそれが、借り物の威厳であったとしても。


「ならば……妾は、その十日で姉上にならねばならぬのじゃな」


しばしの沈黙ののち、岩倉が深く頭を下げる。


「和さま。この十日、我らが全力でお支えいたします。 和さまには帝の御言葉、所作、諸侯への答弁、すべてお教えいたしましょう」


「……うむ」


和は小さく頷いた。


それは、帝の代理として見れば、あまりにも頼りない返事だった。


だが、一人の少女が逃げずに重荷を受け取った返事としては、十分すぎるほどだった。


「では、後ほど!」


やがて岩倉たちは、二条城での会議に向けた準備のため、小御所を辞していく。


襖が閉じられ、廊下を遠ざかる足音が消えると、広い部屋には和だけが残された。


先ほどまで張り詰めていたものが、ぷつりと切れる。


和はゆっくりと息を吐き、ピンと立っていた耳は垂れ下がる。


膝の上では、握りしめていた扇子が汗でぐっしょりになっていた。


明帝と同じ顔。


明帝と同じ声。


けれど、自分は姉ではない。


十日後、自分はこの国で最も重い座に、姉の顔をして座らなければならない。


誰もいなくなった小御所の一室で、和はようやく小さく肩を震わせた。


そして、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。


「……ヤバイ! ヤバイヤバイヤバイ!!」

「姉ちゃん……マジで、マジで早く帰ってきて!」


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