87 しあわせ
白いカーテンが揺れている。
自分で縫った、お気に入りのカーテンだ。
「おかあさま!」
小さなレイリが、抱っこをねだって足元に寄ってくる。
小さなふりふりのドレスも、私がこの手で縫ったものだ。
「あのね、あのね、ひぱちゃんがね」
娘の後を追うように、白い髪の青年が部屋に入ってきた。
「こちらにいらっしゃいましたか」
昔は人の言葉を喋ることすらおぼつかなかったのに、今は驚くほど滑らかに喋る。
「お父様がお呼びですよ。ヒパと一緒に行きましょう?」
跪いて娘に手を差し伸べるヒパティカは、精霊であるためか全く老いることがない。
「やーの! おかあさまにだっこしてもらうのよ!」
乳母を断って自ら育てたせいか、娘のレイリは五歳になっても甘えん坊のままだ。
そのしぐさはかわいいが、大きくなった彼女を抱えるのはそろそろ辛くなってきた。
「お嬢様。セシリア様が困っていらっしゃいますよ」
「いいわヒパティカ。レイリ、お母様と一緒に行きましょう」
娘の手を引いて、部屋から出る。
我が家は広大で、夫に会うだけでも一苦労だ。
「レイリね、せんせいにほめられたのよ。ごほんを一冊読みおわったの!」
弾けそうな笑顔で報告する娘が、どうしようもなくいとおしい。
「あら、どんなごほんかしら?」
「あのね、まじょが出てくるごほんよ! いいまじょがわるいまじょをやっつけるのよ!」
興奮しているのか、鼻の穴を大きくしてレイリが言う。
その顔が面白くて、思わず笑ってしまった。
「それでね、まじょにはしゅごせいれいがついてるのよ」
「そうなの」
「そうよ。まっしろでね、あたまがとりであしがししなの」
「まあ、すごいわね」
相槌を打ちつつ、ヒパティカを見ると彼は複雑そうな顔をしていた。
娘はまだ、ヒパティカの本当の姿を見たことがない。
いや、幼い頃に見たことはあるのだが、おそらく覚えていないのだろう。
ふと、絨毯の敷き詰められた廊下を進んでいると、向こうからなにやら慌てたような一団がこちらに向かっていた。
「セシリア!」
集団の先頭にいたのは、アルバートだった。
まだ執務の時間であるはずなのに、内宮までやってくるのは珍しい。
「あらあなた、こんな時間にどうなさったの」
アルバートを追いかけていた官吏の一団が、私に気づき慌てて控えの姿勢をとった。
どうやら無理やり執務を抜けてきたアルバートを、ここまで追いかけてきたようだ。何かを訴えるような顔で侍従長のセルジュがこちらを見ているので、私は思わずため息をついた。
「急にレイリに会いたくなってね。会いたいと言ったらこの者たちが呼んだというから、小さな足では大変だろうと迎えに来たのだ」
昔はあれほど慎重で思慮深かったアルバートも、何かが吹っ切れたのか今では立派に周囲を振り回している。
「陛下。突然そんなことをされては侍従たちが困ってしまいますわ」
「なに。この程度で参るような鍛え方はしてないさ」
王太子位を辞して私を追いかけてきたと言っていたアルバートだったが、私を連れてテオフィルスに帰ると彼は王太子のままだった。
これは彼が嘘をついたわけではなく、先王陛下とセルジュの陰謀だったわけだ。
いわく、たった一人の王子が王位を継がなければいらぬ争いが起こるだろうと。
それは全くその通りで、少し反発しつつもアルバートは王になるという自分の運命を受け入れた。
私も、ブラットリー公爵位を継いだレオンの姉として、この国に正式に嫁いできた。
由緒正しい公爵令嬢なのになぜか自分で手仕事をやりたがる変わった王妃として、大変ながらも充実した日々を送っている。
あの後、目を覚ましたライオネルはアンジェリカのことを覚えていなかった。それどころかアンジェリカと出会ってからの三年間の記憶を全て失っていて、かつての自分の行いを教えられるたび信じられないと呻くばかりだった。
とはいえ、王と王太子が正気を取り戻したパーシヴァルは少しずつ安定を取り戻し、今でもテオフィルスとは友好国のままだ。
だが過去の行いが近隣諸国に知れ渡っているので、なかなか妃の来手がないと会うたびに愚痴っている。
物心ついてからずっと私と結婚すると思っていたので、どう相手を決めていいかもわからないそうだ。
とはいえいつまでも独身のままとはいかないので、その内無理やりにでも結婚させられるだろう。宰相のクリストフともども独身を貫いているので、最近では男色趣味を疑われているようだ。
そんなことを考えていたら、レイリを肩車したアルバートが私の腰に手を回した。
どうやら今日はこのまま執務を早退してくるつもりのようだ。
「陛下。執務はきちんとなさいませんと」
「家族を大切にするのも俺の大切な仕事だよ」
そう言われてしまえば、それ以上言い返すことはできない。
私も大概、夫に甘いのだ。
「あら、私たちを大切にするのはお仕事ですの?」
そういってわざとらしく口をとがらせると、アルバートは苦笑して言った。
「悪かった。ただ俺が一緒にいたいだけだ」
私もアルバートも、過去のすれ違いから言葉を惜しまなくなった。人間の一生は、魔女に比べてあまりにも短い。言葉を惜しんでいる暇などないのだ。
いつかアルバートに寿命が訪れたら、私もヒパティカに食べてもらおうと決めている。
一度はすべてをなくして絶望したけれど、愛する人と結婚して子供まで授かることができた。
今ではアンジェリカに感謝さえしている。彼女が現れたおかげで、私は本当に愛する人と結婚することができたのだから。
ライオネルに忘れられた後、彼女は国を混乱させた罪で投獄されたそうだ。
もうあれから十年以上が経った。既に釈放されたそうだが、公爵家には姿を見せていないそうだ。
と言っても、レオンが裏で手を回して公爵家と彼女の間にはなんの関係もないということになっているらしいが。
彼女もまた、どこかで平穏に暮らしてくれていればいいと思う。
人間は、他人から与えられたものだけで満足するのが難しい生き物だ。
おそらく自分で努力して手に入れなければ、十分に与えられていても飢え続けるしかない。
だからこそアンジェリカは、飢えて次々に愛を得ようとした。
自分で手に入れた愛ならば、一つで十分満たされる。そしてその愛が、また新しい愛を育むのだ。
彼女にもう一つだけ、伝えたいことがある。
それは――私は悪役ではなく、私の人生の主役なのだと。




