85 絶望
「だめだセシリア! 絶望に心奪われないで。心が揺らいでしまったら、僕は戦えない!」
セシリアの、心の揺らぎ。
デボラの魔力を吸いこんでいたヒパティカに、それは如実に感じられた。
アンジェリカを討つという強い信念こそが、ヒパティカの魔力を支えていたのだ。ゆえに、どんなに強力に魅了をかけられた相手であっても、躊躇なく対峙することができた。
精神に働きかける魔女に必要なのは、どんなことにも動じない心の強さだ。
だが、セシリアは今、父の死に直面し動揺していた。
そしてその死によってできた心の隙をデボラによってこじ開けられ、彼女の魔法に取り込まれてしまったのだ。
セシリアは今、黒い羽虫に全身を取りつかれ、まるで黒い一つの塊のようになっている。
魔力を吸われ瀕死の状態ではあったが、死にたくない、消えたくないというデボラの本能は、魔法の増強に一役買っていた。
有利を確信したデボラが、歌を歌う。
美しい声で人を魅了し、思うままに操る恐ろしい魔法だ。
セシリアがレイリを想い、デボラを倒すことをためらったことで、彼女の心には揺らぎが生じた。
その小さな揺らぎが、死にかけのデボラにチャンスを与え、さらにはヒパティカの弱体化を招いてしまったのだ。
吸っても吸っても、セシリアを取り囲む羽虫は増えるばかりでちっとも減らない。
ヒパティカは気づいていなかったが、彼の力も確実に弱まっていた。守護精霊の強さは魔女の強さに直結する。
セシリアが弱体化してしまえば、ヒパティカの弱体化もまた避けられないのだ。
ヒパティカは必死に、苦しみにあえぐセシリアを助けようとした。だが、彼女が我を忘れるほどに力が弱まり、ヒパティカが力を失うほどにデボラの術が強まるという、悪循環に陥っていた。
一曲歌い終え、デボラが高らかに笑い声を上げる。
「目覚めて間もない魔女が調子に乗りおって。お前も父親と同じところに送ってやろう!」
そしてデボラは、なおも歌う。
美しい顔は見る影もなくやつれていたが、その歌声だけはどこまでも澄んでいる。
人を虜にする歌声。
こんな場面でなければ、彼女に邪悪な野望さえなければ、人々はその美しさにいつまでも聴き入っただろう。
だが彼女の聴衆は、セシリアもヒパティカも共に苦しみ喘いでいた。
ヒパティカは苦しそうに脚を折り、もはや黒い塊となったセシリアを切なげに見つめている。
そんな中でセシリアは、湧き上がる強い悲しみに戸惑い、戦っていた。
心は悲しみに満ち満ちて、もう立ち上がる気力もない。以前国を追われた時も深く絶望したものだが、その時は自分よりも弱い母親がいた。母を守らなければと奮起することで、彼女は生きることを諦めずにすんだのだ。
だが今は、母は遠くテオフィルスにおりアルバートの庇護を受けている。アルバートはパーシヴァルにいるものの、彼の側近であるセルジュがいいように取り計らってくれるだろう。
もう誰も、自分を必要としていないのではないかという気がした。
彼女が見ているのは、デボラが作り出す幻覚である。
実際に、アルバートとアンジェリカがむつみ合っている事実は存在しない。
だが魔法で作り出された幻覚はあまりにも鮮明で、セシリアにこれが幻覚であると思わせないほどの説得力があった。
デボラの歌はセシリアの精神に入り込み、最も柔らかい場所を傷つけていた。それこそが彼女の魔法の恐ろしさであり、パーシヴァル王国がこんなにも毒されてしまった原因でもある。
国そのものは巨大でも、それを動かしているのは所詮人である。
デボラは歌を通じて国の人々に不安の種をまいた。その種はあちこちで芽吹き、悲しみや不安を与え更に広がっていった。
セシリアの父であるブラッドリー公爵も、王太子であるライオネルも、そして国王ですらその魔の手からは逃れられなかった。
王族は孤独である。その心の隙を、デボラにいいように利用されたのだ。
レヴィンズ侯爵が魔女でもなしにデボラに対抗し得たのは、ひとえに彼が戦いに勝つ強靱な精神を持っていたためである。
やがてセシリアは身動きをやめ、ヒパティカはついにその場に崩れ落ちた。
黒い羽虫は勢いを数を増して、少しずつ地下室から出て行く。そして再びこの国を支配しようと、あちこちへ飛んでいく。
だが――……。
デボラは気付かなかった。
己の魔法によって閉じ込められたセシリアが、幻覚によって我を失っている彼女が、己の手をスカートの隠しポケットに滑り込ませていたことに。
セシリアはジリアンから受け取った小瓶を、そこに隠していた。
蓋を開けているような余裕はない。
彼女は小瓶を取り出すと、近くにあった石に勢いよく叩きつけた。
***
ドオォォン
遠くに爆音が響いた。
地下牢から連れ出したレヴィンズ侯爵を介抱していたアルバートは、音に反応して顔を上げる。
なにごとかと音の方を見ていると、しばらくして黒い煙が立ち上った。城からそう離れていない。高位の貴族たちが住む区画だ。
その音のする方を見つめ、アルバートは青ざめた。
「行ってくれ」
老齢で拷問に耐えていたレヴィンズ侯爵の言葉に、アルバートは弾かれたようにその老人を見つめた。
アルバートが見つけた時、既に彼は半死半生の状態だった。
意識を取り戻してから、まだそれほど経っていない。
味方が少ない今、とてもではないが離れられる状態ではないのである。
だが、自分の状況をよく理解しているらしい老人は、更に言葉を重ねる。
「儂は……人生の中でたくさんの後悔をしてきた。戦争に後悔はつきものだ。助けが間に合わず部下が死んだことも、一度や二度ではない……」
「侯爵! それ以上喋っては……っ」
アルバートの制止も聞かず、レヴィンズ侯爵は言葉を続ける。
「儂はその後悔を……命の恩人にしてほしいとは思わん。老いぼれのことなど放っておけ。ここで死ぬなら、儂もそれまでの男だったと言うこと……っ」
言葉を言い切ることなく咳き込んだ侯爵は、血を吐いた。
「侯爵!」
アルバートは焦燥に焼かれながら、立ち上る黒い煙を見つめた。
そして再び意識を失った侯爵を背中に背負うと、彼を安全な場所に運ぶべく走り始めたのだった。




