83 最期まで
ヒパティカが翼をはためかせ、風を切って飛ぶ。
バーナードはヒパティカに乗って飛んだせいで死にかけていたので覚悟をしていたが、力が強くなったヒパティカは私に風が当たらないよう魔力で調整してくれたらしい。
なんてできる守護精霊だろうか。
デボラは己を食べるという守護精霊を恐れたらしいが、私はヒパティカになら自分の亡骸を食べられても平気だ。
むしろ今生きてられるのは、ヒパティカのおかげだもの。
最初に見た時はなんだこの毛玉はと思ったけれど、今では心の底から彼に感謝している。
そんなことを考えていたら、すぐにブラットリー公爵のタウンハウス――つまり私の実家に到着した。
商人の格好をしていた時には、門前払いをされた場所でもある。
魔女に魅入られた父は、一体今頃どうしているのだろう。
もう愛想が尽きたと思っていたが、もしデボラに操られていたのであれば、話し合いの余地はあるかもしれない。
私は会うのも嫌だけれど、母はもしかしたら、また父と共に暮らすことを望むかもしれないから。
ヒパティカには再び人間の姿になってもらい、玄関の呼び鈴を鳴らす。
空を飛ぶと移動時間が短縮できるのはいいが、目撃されると騒ぎになるのが難点だ。
乱れてしまったドレスを直すと、以前と同じように執事の一人が顔を出した。執事は私が商人に変装していた時と違い、その顔に驚愕の色を浮かべた。
「お、お嬢様……」
この屋敷の人々は、まだ魅了の術が解かれていない。
どうせ解いたところで、すぐまた魔法によって操られてしまうだろうが。
先ほどの王宮でごり押しが効いたのは、デボラがいなかったことと城の敷地が広かったことが原因だろう。
一応相手に気づかれないよう気を使ったが、アンジェリカにも魔力があればどんな反撃をされたかわからない。
勿論そのリスクを分かった上で、城へと向かったのだが。
レヴィンズ侯爵を殺されでもしたら、いくら魔女を追い出してもこの国はおしまいだ。
「今度は中に入れてもらうわよ」
無理やり体を押し込めるようにして、扉をくぐる。
クリノリンで膨らませたドレスは、重くて邪魔だが不用意に相手を近づけさせないという利点がある。
「こ、困ります」
執事は顔こそ困惑しているものの、無理に私を追い出そうとはしなかった。
今日はきちんとした身なりで訪ねてきたので、本当に追い出してもいいものかと判断に迷ったのだろう。
そんな執事を置いてきぼりにして、私は勝手知ったる我が家を進む。
人の姿のヒパティカと、そして困った顔の執事がそのあとをついてきた。
レオンが領地に帰っているからか、屋敷の中は記憶にあるよりも静まり返っている。心なしか、使用人の数も随分減ったようだ。
「メイドの姿が見えないわね」
独り言のように呟けば、執事の苦しい返事が帰ってきた。
「メイドたちはその、お暇をいただいております……」
どうせ、デボラとアンジェリカの豪遊によって財産を食いつぶされたのだろう。領地の税率を無理に上げていたので、驚きというほどではない。
「あらそう。金のかかる女が二人も減ったというのにね」
思わず当てこするように言うと、執事は気まずそうな顔をして返事をしなかった。
そのままヒパティカと執事を連れ、父の仕事場である書斎に向かう。
デボラと相対している時に足を引っ張られないためにも、魅了を解くなり拘束するなりはしておいた方がいい。
もっとも、私が着たという知らせを聞いて、デボラがあちらからやってくる可能性もあるが。
当たり前だが、父の書斎は記憶の通り二階の北側にあった。父はこの書斎に人が入るのを嫌った。
子供の頃に一度入ろうとして、大層叱られたことがある。
どうせ嫌がられるならノックをしてもしなくても同じだと思い、私はマナー違反を承知でノックもなしに扉を開けた。
後ろで執事が息をのむのが分かった。
すぐに怒号が飛んでくるかもしれない。そう予想したけれど、そんなことはなかった。
特別に作らせた布張りの椅子に座り、父は眠っていた。
いや――眠っているように見えた。
やけに青白いその顔と、ガウンから除く細い手首。血の気の引いた唇はまるで、空を飛んできたバーナードのそれみたいだった。
「旦那様!?」
異変に気付いたのか、執事が私を追い越して父に近づく。
彼は父の脈をとり、そして何も言わずに、首を左右に振った。
勿論、ショックだった。
衝撃を受けなかったといえば嘘だ。少なくとも、こんな再会は予想していなかった。
父が正気に戻ったらアルバートにしたようにずっと皮肉を言い続けるのだと、無意識に未来を予想していた自分が馬鹿らしかった。
未来はいつも、確実ではない。
ライオネルと結婚するという予定調和の未来が簡単に崩れたように、私が思い描いた未来だって簡単に崩れる。
「ヒパティカ」
私は、何が起こっているのかわからず不思議そうな顔をしている青年の名を呼んだ。
「いくわよ」
「うん!」
そのまま、急いで部屋を出ようとして、執事に呼び止められた。
「お嬢様!」
狼狽した執事は、震える声で言った。
「ど、どちらへ……?」
どうしてそんなに冷静なのかと、責められている気がした。
冷静なわけはないのに。今にも冷たい怒りが体中を満たして、油断すれば溢れ出してしまいそうなのに。
「この屋敷に取り憑いた、悪魔を倒しに行くのよ」
言っても無駄だと思いながら、無意識に口が動いた。
悪魔は魔女とはまた別の存在で、より邪悪でより闇に近い存在だとおとぎ話では語られている。
そして部屋を出ようとする私の背に、執事は言った。
「お、奥様は……庭の礼拝堂にいらっしゃいます……」
それは、予想外の言葉だった。
執事はいつの間にか正気に戻っていたのか、それとも魅了に冒されながらもデボラが普通ではないと感じていたのか。
「そう」
今度こそ私は、部屋を出た。
歩きながらクリノリンを外して、邪魔なスカートの裾は破いて結んだ。家庭教師が見たら、あまりのことに卒倒するだろう。
だが、誰が見ていようが構うものか。守るべき矜持は、既にずたずたに踏みにじられた。
これはそう、矜持を取り戻すための戦いだ。
あの女だけは、絶対に許さない。アンジェリカの陰に隠れて、人間を思い通りに操り戯れに私の家族を破壊した。
あの女だけは――どうしても。




