76 ささやき
人気のない廊下を進んでいると、その先によく知った人物が立っているのが見えた。
「お母様」
そこにいたのは、アンジェリカの母であるデボラだった。
デボラは美しい女だ。娘のアンジェリカすらそう思う。
子供を産んだとは思えないすらりとした体形で、ブルネットの髪はまっすぐ癖がない。その赤い瞳は神秘的で、さすが正妻を追い出して公爵家の後妻に収まっただけはある。
しかしその一方で、デボラは目立つ場所が嫌いでパーティーなども出席を嫌がった。
夫の公爵はデボラに惚れこんでおり、彼女に何かを強要することはない。結果として公爵家の夜会ではアンジェリカが女主人として立ち回ることになる。
といっても、注目されるのが大好きなアンジェリカにとっては、むしろ好都合ではあるのだが。
「アンジェリカ、どうしたのですか?」
この母も、アンジェリカには大層甘い。
「聞いて、お母様。パーティーに欠席なさる方が多い理由を聞いたら、レヴィンズ侯爵が遠征するからだっていうのよ。戦争をしているわけでもないのに、遠征なんて必要かしら?」
頬を膨らませる娘を見下ろして、デボラは形のいい眉を下げた。
「あら、そうなの? どうして侯爵はそんなことなさるのかしら」
「わからないわ。でも迷惑な話よ。せっかくのパーティーが台無しだわ!」
憤る娘に、デボラは何気ない口調で続けた。
「もしかして、その軍隊を使って王都を襲う気ではないかしら」
「え!?」
これにはさすがに、アンジェリカも驚いた。
自国の軍が王都を襲うなんて、考えもしなかった事態だ。
「最近は陛下に不満を持っている貴族も増えていると聞くし、いやだわ。どうしましょう」
「そ、それはさすがにないんじゃないかしら……? ライオネル様も、レヴィンズ侯爵は国に絶対の忠誠を誓っていると言っていたわ」
アンジェリカが母の妄想を慌てて否定する。
いくら勉強の苦手なアンジェリカでも、母の考えが正しければ戦争になってしまうと理解するぐらいの頭はあった。
「あら、忠誠なんて確かめようがないじゃない。それに、人の気持ちは変わるものよ。ずっと同じなんてあり得ないわ」
「そ、そうかしら……?」
自らの母に言われると、そうかもしれないという気持ちになってくる。
アンジェリカはどんどん不安になってきた。もし母の言葉が現実になれば、今の楽しい生活も終わりになってしまうからだ。
「も、もしそうだったらどうすればいいの?」
あまりのことに震えだすアンジェリカを、デボラは抱きしめる。
「ああ、かわいそうなアンジェリカ。そうだわ、この話をアンジェリカの考えということにして、ライオネル殿下にお話しするのはどうかしら?」
「ライオネル様に?」
「そうよ。殿下はアンジェリカを愛していらっしゃるから、きっといいようにしてくださるわ。それに、アンジェリカもこの国のことを憂いているのだと、伝わるはずよ」
母の言葉に、アンジェリカはライオネルに進言する自分を想像してみた。
考えは足りないがそれがかわいいと、ライオネルはよく意地悪を口にする。
もしアンジェリカが国のことを考えていると分かれば、彼も自分を見直すかもしれないと思った。
「そ、そうよね! 早速殿下にお話ししてくるわ」
ライオネルならば、今も広間にいるはずだ。
アンジェリカが早速踵返そうとすると、デボラは娘の手首を掴んで、言った。
「待ちなさい。本当に大変なお話だから、このお話は殿下と二人きりの時にするのよ。もし侯爵に知られて、アンジェリカに何かあったら大変だわ」
確かに、真実に気づいた賢い自分を、侯爵は邪魔だと思うかもしれない。
ただでさえ、元は犬猿の仲なのだ。
「わかったわ! 絶対に二人きりの時にお話しするわね」
「それがいいわ。アン」
母はこうして時折、アンジェリカの昔の名前を口にする。
そのほほえみはまるで聖母のようで、アンジェリカは自分が愛されていると深く感じるのだった。
そしてデボラが手を離すと、アンジェリカは絨毯の上を走るように広間へ戻っていく。
デボラはそんな愛娘の背中を見つめながら、小さな声で独りごちた。
「本当に、かわいい子」
そして彼女はアンジェリカが向かったのとは逆の方向に、一人歩みを進めた。




