75 アンジェリカ
何もかもが気に入らない。
教えられた礼儀作法などかなぐり捨てて、少女は荒々しく歩いていた。ヒールが沈み込んでしまうような赤い絨毯の廊下。
先ほど出てきたばかりの広間では、明け方まで続く華やかなパーティーが繰り広げられている。
誰もかれもが、少女に会えば褒め讃えた。
美しい。心が清い。麗しい。
少女は、美辞麗句でもって己を語られることに慣れていた。
むしろ、生まれてこの方嫌われるという経験をしたことがなかった。
少女を目に入れたすべての人が表情をやわらげ、まるで蜜菓子のごとく甘く優しく接するのが当たり前であった。
しかし唯一、そうではなかった相手がいる。
それが彼女の腹違いの姉である、セシリア・ブラットリーだ。
セシリアは甘やかされてきたアンジェリカと違い、貴族としての教養を持つ娘だった。
政治的な理由で、生まれた時から王太子の婚約者になることが定められた娘。幼い頃から高度な教育を受けており、いつもこちらを見下しているように思えて不快だった。
貴族特有の薄い金髪。気高さを持つ薄紫色の瞳。
アンジェリカの瞳だって珍しい青色だと言われたけれど、そんなことなんの慰めにもならなかった。
彼女は一般的な茶色くて癖のある己の髪を、あまり好んではいなかったからだ。
公爵家にきてからつけられた家庭教師に、セシリアと比べられたのも気に入らなかった。セシリアのように、セシリアを見本に。何度言われたことだろう。
ダンスも礼儀作法も刺繍も乗馬も、幼い頃から習ってきたセシリアが上手なのは当たり前のことだ。
それをどうして比べるのかと、アンジェリカは不満だった。
デビュタントのパーティーでも、セシリアは王太子であるライオネルのパートナーとして出席者の注目の的だった。
どうしてなのだろう。私はこの世界のヒロインなのに。
アンジェリカには、まだ誰にも言ったことのない秘密があった。
それは、この世界の未来を知っているというものである。
ブラッドリー公爵の私生児として生まれたアンは、やがてアンジェリカとして公爵に引き取られ、素敵な貴族の男性たちと恋をするのだと分かっていた。
パーシヴァル王国の王太子ライオネル。隣国テオフィルスの王太子アルバート。次期公爵でアンジェリカとは異母兄妹に当たるレオン。次期宰相と呼び声高い、リンデン伯爵の息子クリストフ。剣技に秀でた将軍の息子、バーナード。
どの男性もみな、資産家で家柄も申し分ない。
そんな男たちに愛されるはずの自分が、どうして姉と比べられねばならないのか。
それに、セシリアがライオネルの婚約者であることも気に入らなかった。
自分を好きになるはずのライオネルが、セシリアをエスコートして踊っているのだ。そんなの楽しいはずがない。
十六歳で婚約者のいないアンジェリカは、兄であるレオンと踊っているというのにだ。
勿論次期公爵であるレオンは素敵だけれど、王太子であるライオネルと比べてしまうとどうしても劣る。
おかしい。こんな世界はおかしい。
アンジェリカは思った。
セシリアはまるで物語に出てくる悪役だ。
アンジェリカが主役のはずの世界で、自分がしゃしゃり出てきて邪魔をする。
いつしか、アンジェリカは目障りなセシリアがどこかへ行ってしまえばいいのにと考えるようになった。
そして彼女の願い通り、そんなおかしな世界は修正された。
ライオネルは己の婚約者を捨て、他の子息たちもみなアンジェリカにアプローチしてきた。あちこちの茶会やパーティーに呼ばれ、いろいろな人にほめそやされる生活。
たとえアンジェリカのダンスが下手でも、礼儀作法を間違おうとも、誰も気にしなかった。
惜しみない愛の言葉を注がれ、たくさんのプレゼントが届けられた。
社交界でアンジェリカの存在感が増すほどにセシリアの影は薄くなっていき、やがて二人の立ち位置は逆転した。
セシリアは公爵家の爪弾き者になり、ついには公爵夫人の不義の子として母親ともども王都を追われてしまったのだ。
やはり自分の考えは間違っていなかったのだと、アンジェリカは思った。
セシリアは悪役だったのだ。そして自分は、物語の主人公なのだ――と。
それからも、アンジェリカが嫌だと思う相手はどんどん彼女の前から姿を消していった。つきまとってくるうっとうしい男たちは、ライオネルやアルバート、それにバーナードが倒してくれた。
不快なことは何もない。楽しいことばかりの毎日だった。
――それなのに。
最初におかしいと感じたのは、アルバートの帰国だった。
ずっとそばでちやほやしてくれると思っていたのに、突然祖国に帰ってしまった。
テオフィルスの王が病気にかかったとか、最初の頃はいろいろ言われていたけれど、結局理由は分からなかった。
またすぐに会いに来ると言っていたのに、結局一年以上経った今も連絡はないままだ。
そのあとに、兄のレオンがいなくなった。
といっても、レオンがいなくなった理由は明快だった。
アンジェリカがライオネルと恋人同士なのをねたんで、あろうことかライオネルに向けて剣を抜いたのだ。
いくら次期公爵でも、そんな凶行が許されるはずがない。
最初は謹慎という話だったけれど、今ではレオンを追放してアンジェリカを女公爵にという話も出ている。
女公爵という響きは、悪くない。
ヒロインたる自分にふさわしいと、アンジェリカは思っている。
けれど、またしてもおかしなことが起こった。今度はバーナードだ。
いつもならアンジェリカに惜しみない愛の言葉をくれるバーナードが、何も言ってくれなくなった。
それに、いつもアンジェリカ以外の女の子なんて無視する癖に、今日は話しかけられて返事をしていた。あまつさえ笑顔まで見せていた。
おかしい。
そう思っていたら、今度はアンジェリカが主催するパーティーに出席する貴族の息子が著しく減った。
王太子も出席する格の高いパーティーだというのにだ。
貴族なら誰でも、ブラットリー公爵家の夜会に出席したいと願う憧れの的なのに。
クリストフによれば、出席者が少ないのは騎士団が遠征に行っているからとのことだった。
騎士団は軍部の指揮官クラスが所属する団で、貴族の血を引く男性しか入れない。騎士団を取りまとめているのはバーナードの父親であるレヴィンズ侯爵で、今は病で寝込んでいたはずだ。
アンジェリカはレヴィンズ侯爵のことが嫌いだったので、いい気味だと思った記憶がある。
ところがその遠征の指示を出しているのはレヴィンズらしく、病気が癒えたのかと思うとうんざりする。
そもそもアンジェリカがライオネルといるのを見ると、いつも煩い小言を言ってくるジジイだった。
アンジェリカもセシリアと同じ公爵令嬢だというのに、結婚するにはふさわしくないとまで言われたのだ。
そのレヴィンズ侯爵が社交界に戻ってくるのかと思うと、それだけでイライラしてしまって、とてもではないが踊っている気分ではなくなってしまうのだ。




