42 白と黒
「ヒパティカ、お願い!」
私の叫びに応じ、白い毛皮が純白のグリフォンへと転じる。それと同じタイミングで、レオンに集っていた羽虫たちが私に襲い掛かってきた。羽音は轟音となり、まるで私を取り込もうとするかのように部屋中に広がる。
純白の羽毛を持つヒパティカは、まるで漆黒の闇を切り裂く稲妻のようだ。
彼はまず大きく息を吐くと、次の瞬間翼を広げて羽虫を口の中に吸い込み始めた。黒い霧が、どんどんヒパティカのくちばしの中に吸い込まれていく。
それは、あまり心地いい光景とは言えなかった。
口を押さえ、息をつめて成り行きを見守る。
なにかただならぬことが起こっていると悟ったのか、アルバートは周囲を警戒して息を詰めていた。
「う、うがぁぁぁ!」
突然、レオンが苦悶の叫びをあげる。
今まで聞いたこともないような、獣のような荒々しい苦しみようだ。
直後ガタンと大きな音がして、羽虫の中の人影が床に転がったのが分かった。
「レオン!」
思わず叫ぶ。
レオンはもがき苦しみながら、獣のような唸りを上げ続けていた。
「一体何が起こっているんだ!」
そう言いつつ、レオンを心配してアルバートがレオンに近づこうとする。
「だめ!」
私は咄嗟に叫んだ。
よくは分からないが、この羽虫たちはどう考えても悪いものだ。しかもこちらに襲い掛かってきたことを考えると、どうやらこちらに敵意を持っているようである。
ヒパティカは今も、大量の羽虫を吸い込み続けている。
グリフォンの顔色は分からないが、その顔はなんだか苦しそうだ。
そしてそれと呼応するように、私の喉もどんどん熱くそして息がしづらくなっていく。
まさか、私とヒパティカは感覚を共有しているのだろうか。今までそんなこと考えたこともなかったが、思い当たる節は確かにあった。
「アルバート、落ち着くまでレオンには近づかないで。ヒパティカ、あと少しだから頑張って!」
今もまだ、レオンの苦しみは続いている。
辺りに羽虫はほとんどいなくなったが、驚いたことにヒパティカが吸えば吸うだけレオンの口や耳から羽虫が這い出して来るのだ。
あまりにも気味の悪い光景に、胃の腑から酸っぱいものがこみあげてきた。苦しさに思わず膝を折ると、アルバートが駆け寄ってくる。
「セシリア!」
羽虫を吸い込み過ぎたのか、ヒパティカはふらついている。私は苦しさに涙をこらえながら、心の中で精霊に声援を送った。
先ほどよりも、レオンから発せられる羽虫はその数を減らしているように思える。
あと少しだからそれまでもってくれとばかりに、アルバートに支えられながら必死に祈る。
「っ……ヒパティカ、あと少しだから頑張って。もう少しなの。もう少しで……」
その時、床で暴れ回っていたレオンが大きく咳き込んだ。その拍子に、ひときわ大きな巨大な蠅のようなものが吐き出されてくる。
私は背筋がぞっとした。あんなものがレオンの中に巣食っていたのかと、どうしようもない嫌悪感を覚えた。
この時既に、私はこの羽虫たちがアンジェリカの放った魅了の正体だと気づいていた。
彼女の魅了はこのように人には見えない虫となって相手に取り付くのだ。そして側にいればいるだけ、強く影響を受けてしまう。
なんて醜悪で、卑怯な術なのだろう。
一体どれだけの人が、彼女の魅了で道を違え不幸になったのだろうか。
今まで実感が持てずにいた魅了という術の恐ろしさを、私は改めて思い知ったのだった。
「あなたが……レオンをおかしくしていたのね……」
私は苦しさに耐えつつ、アルバートを見た。
「アルバート……っ、あの剣を取ってください」
指示したのは、壁に飾られていた細身の剣だ。刃の潰された装飾用の剣だが、今はそれでいい。
「一体どうするつもりなんだ」
まさかレオンを斬るつもりなのかと、アルバートの顔には恐れが浮かんでいた。
しかし、彼に見えないものをいちいち説明している暇はない。
「いいから、それを!」
私は奪い取るように、アルバートの手から剣を抜き取った。その拍子に細密な彫刻が施された鞘がはずれ、光沢のある刀身が現れる。
ふらつく足で踏ん張り、両手で剣を握った。
だがいくら細身であろうとも剣は重く、踏ん張りがきかずによろけてしまう。
「危ない!」
見かねたアルバートに体を支えられ、温もりに包まれた。
何が起きたのかと驚くのと同時に、背中から長い手がまるで私を抱き込むように伸びてくる。
「何をするつもりかは知らないが、このままでは怪我をするだけだ」
そう言って、アルバートは剣を握る私の手を上から包み込んだ。剣だこのある固い手だ。剣の重量を彼が引き受けたことで、私はなんとかその場に立つことができた。
「六時の方向、シャンデリアの下を斬ります!」
そう言うと、私は無我夢中で剣を振り上げた。
巨大な蠅は攻撃対象をヒパティカからこちらに変え、すぐそこまで迫っている。
「今です!」
私は叫びと共に、剣を振り下ろした。
ほとんどはアルバートの力だ。ビュンと風を切る音がして、剣は巨大な蠅の頭に深々と突き刺さる。
ぶんぶんという、まるで断末魔のような羽根の音。
それがどんどん小さくなり、やがて蠅はピクリとも動かなくなった。
次の瞬間、巨大な遺骸ははじけ飛んで黒い霧となった。それを待ち構えていたようにヒパティカが霧を胸いっぱいに吸い込む。
息苦しさはすっかりなくなり、先ほどまで苦し気にしていたヒパティカは満足そうにげっぷをしたのだった。




