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04 名前


「人違いではありませんか?」


 そう言ってにっこり笑うと、私は咄嗟にそのまま扉を閉めてしまった。

 扉を閉めた後、混乱する頭の中を必死で整理した。

 部屋の中にいたのは見覚えのある男で、自分のことをセシリアと呼んだ。

 つまり既に自分が誰だかばれてしまった後ということだ。さっきの台詞で誤魔化せたとはとても思えない。

 アンジェリカに魅了された彼にとって、私は幼馴染以前に不倶戴天の敵もいいところだろう。

 どこかで野垂れ死んだと思っていた女と再会したのだ。見つけたのをこれ幸いと、私を捕らえさせてそれを土産にアンジェリカに会いに行こうとする可能性すらある。

 ならばこの場から逃げるべきか。

 やっと安定した生活を手に入れたというのに。

 私は逡巡した。

 やっと状態が落ち着いてきた母を、再び寄る辺のない旅になど連れて行くことはできない。

 最初の旅は呆然自失としていたからまだいいようなものの、今度連れ出せばどんな反応をするか。

 夜中に叫び暴れる母親をなだめすかし、泣きたいような気持ちで朝を待った夜のことを思い出した。

 翌朝、これ以上騒ぐようなら部屋から出て行ってもらうと大家に言われ、それ以降はすり切れた毛布を二人で頭からかぶって母親を押さえつけた。

 あの若々しかった母が短期間の間に見る影もなくやつれ、その顔は別人のように険しくなった。

 肌に爪を立てられたことや、噛みつかれたことは一度や二度ではない。

 生活に疲れ、このまま母を見捨ててしまおうかと考えたこともあった。

 それでもやってこれたのは、そんなことをすれば父やアンジェリカの思うままになるようで、悔しかったからだ。

 その苦難をやっとのことで乗り越えたというのに、アンジェリカの残り香が再び私の居場所を奪おうとしている。

 頭の中をものすごい勢いで様々な考えが過った。

 このまま飛んで帰って母を連れ出すべきか。

 それとももう一度部屋の中に入って、私はセシリアではないと改めて否定するべきかと――。

 それは一瞬のようで、永遠にも思える時間だった。

 目の前でガチャリとノブが回り、私は我に返った。

 突然殴りつけられたらどうしようと思い身が竦んだが、顔を出したのは見たことのない男だった。

 どうやら先ほどは気づかなかったが、部屋の中にはアルバートの他に護衛の騎士がいたようだ。

 ならば少しは安心できる。

 アンジェリカに会ったことのない騎士ならば、アルバートが突然私に殴り掛かってきてもさすがに止めてくれるだろう。

 そもそもアルバートは人を殴るような男ではないのだが、アンジェリカによって人が変わったようになった人間を見過ぎたせいで、どんなに用心してもし過ぎるということはないのだった。


「どうぞ、こちらへ」


 顔を出した従者に促されるまま、私は部屋の中に入った。

 茶器の乗ったカートを危うく忘れそうになり、それを押してゆっくりと中に足を踏み入れる。

 中にはアルバートと騎士の他に、眼鏡をかけた従者が一人いた。

 彼には見覚えがある。確か遊学にも帯同していたセルジュという男だ。

 刺さるような視線を感じながら、私は粗相をしないよう慎重にお茶を淹れた。

 そんな私を、アルバートの青紫色の瞳がじっと見ている。


「セシリア……」


 その声には悲哀の響きがあった。

 私は意外に思う。

 一体何に、彼が悲哀を感じるというのだろう。


「先ほども言いましたが、どなたかとお間違えではないかと」


 通訳になるために前髪を切ったのは失敗だった。

 あるいは髪を短く切ってしまうべきだったか。

 身ぎれいにした私は、あの頃と大きな差異はない。

 ただ一歳年を取り、手はかつてと比べようもないほど荒れてしまったが。


「では、お名前を伺っても構いませんか?」


 アルバートが何か言うのを遮るようにセルジュが口を開いた。

 彼も私の顔は知っているはずだが、気づかないふりをしてくれるつもりなのかもしれない。


「ピアと申します。姓はございません」


「ピア」


 アルバートが躊躇いがちに、生き倒れになった娘の名前を呼ぶ。

 かつての知り合いに新たな名前で呼ばれたことで、私はかつての自分こそが死んでしまったような妙な気持ちになった。


「ピア、私は――」


 アルバートが何か言おうと口を開いた時、またしてもそれを邪魔するように扉をノックする音が響いた。

 やって来たのは私の雇い主である商会の店主だ。

 私は慌てて頭を下げると、逃げるようにその場を辞した。

 今ここで逃げても何の解決にもならないと分かってはいたけれど、せめて見なかったことにして欲しいと残っているかも分からないアルバートの恩情に期待したのだった。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 察しろ、黙ってろ、関わるな というのが酷だというのは判るが それでも王子自身も一因の『追放されて別人を語る元令嬢』に対して 何を言い出すかで読者の目は冷たくなりそうだ。
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