第五十一話 百襲姫と吉備津彦
はい、最終回は最後に残った謎について書こうと思っています。
私は様々なアプローチをしつつ構造的に解読してゆくスタイルなので、色々調べて行く中で、大抵のことはクリアになって繋がっていくんですね。
その中で最後までうまく消化できずにモヤモヤしていたというか、違和感が消えなかった部分があるのです。
宮崎の西都原古墳群の中心部に、九州最大の前方後円墳である女狭穂塚と対となる男狭穂塚 (日本最大の帆立貝式)が存在するのですが、この名前を聞いて真っ先に連想するのは――――垂仁期の出来事として描かれる狭穂彦と狭穂姫の物語です。
天皇を殺せと命じる兄と夫である垂仁天皇との間で苦しみ、結局どちらも裏切れずに子を夫である垂仁天皇に託し、自らは兄とともに死を選んだ、という日本史上に残る美しくも悲しい悲劇の物語です。
完全に日向の名前ですし、古墳もある。系譜上二人は百襲姫と吉備津彦の後継となる資格を持つヒメ・ヒコ兄妹なので、垂仁・豊鍬入姫命というヒメ・ヒコに納得できずに反乱を起こしたというストーリーはありえますし、卑弥呼 (百襲姫)の死後に起こった混乱はこの二人が起こしたものという風に考えていたんですが……。
この伝承、明らかに不自然なんですよね。いや、物語としての完成度は高いですよ、それが逆に不自然というか……。まず火中出産は木花朔夜姫と瓊瓊杵尊の伝承を明らかに意識しています。それは――――実際に女狭穂塚と男狭穂塚が木花朔夜姫と瓊瓊杵尊の墓だとされていることからもわかります。西都原は木花朔夜姫と瓊瓊杵尊神話の舞台なので当然なのですが、狭穂姫と狭穂彦は皇族とはいえ、反乱を起こして死んだ人間です。聖地のど真ん中に堂々と葬られるわけがありません。
そもそも木花朔夜姫と瓊瓊杵尊は神武天皇の祖先神ですので、時代も物語も狭穂彦と狭穂姫の伝承とは完全に食い違うんです。でも、構造上も塚名も狭穂彦と狭穂姫の墓であるとなっているのはなぜなのか? この食い違いがなかなかすっきり解読できなかったのです。
こういう場合の優先順位は明確です。実際に存在する古墳がある以上、女狭穂塚と男狭穂塚は木花朔夜姫と瓊瓊杵尊と同一視される存在の墓であることは間違いない。つまり――――伝承の方に注目する必要があるということです。
狭穂姫は垂仁天皇の皇后であるとされますが、火中出産は日向神話における正統性の構造ですし、火中出産で生まれた誉津別命 (ほむつわけのみこと)はまるで実体が感じられません。言葉を話さず、名前の構造は後の応神天皇の名前、誉田別尊 (ほむたわけのみこと)と酷似していますし、白鳥伝説はヤマトタケル伝承と繋がっています。ようするに存在が作られたように出来過ぎなんです。
また狭穂姫は、死の間際に自分の後継皇后まで指名するという至れり尽くせりっぷり。ようするに――――狭穂姫と誉津別命というのは、垂仁天皇の正統性と日向神話との連続性を補強し繋ぐため、そして何よりもある目的のために用意された実在しない器である可能性が高いということになります。
その目的とは何か? これが最大の謎でした。
これは本当に手強かったです。何百パターンもシミュレーションして整合性を確認してもしっくりくる答えが出ませんでした。
こういう場合、ネックになるのは思い込みと先入観です。既存の枠から離れなければ答えが出ません。
とにかく頭をまっさらな状態にして、わかっている事実から逆算してゆくいつもの方法で考察を積み上げていきました。
まず女狭穂塚と男狭穂塚ですが、そのスタイルから三世紀より以前には遡れませんのでオリジナルの木花朔夜姫と瓊瓊杵尊ではないことは確実です。
では埋葬されているのは誰なのか?
狭穂姫の物語で重要なのは、垂仁天皇が彼女から日向神話の正統性を引き継いだ、受け取ったというメッセージ性です。
大和王権に正統性を付与できて――――なおかつ聖地 (邪馬台国)のど真ん中に九州最大の前方後円墳と日本最大の帆立貝型墳を残した男女の組み合わせ……。
ああ……なるほど、やっとわかりました。
女狭穂塚と男狭穂塚は――――
百襲姫と吉備津彦の墓ですね。
もし日本書紀の編纂者がこの事実を知っていたとしたら――――これはこうするしかなかったのかもしれない。
日本書紀では九州時代のことを隠蔽しているのではなく、神話(神代)として扱っています。難しいのは、神話の終わり (出九州)と大和王権物語をどうやって繋ぐのかということ。
編纂者がその気になれば、神武天皇から崇神天皇までを違和感なく適当に繋げることも出来たはずです。
でも――――そうしなかった。
なぜなら……百襲姫と吉備津彦の姉弟がどれほど日本のために尽くし貢献したのか知っていたからです。
幼少時から全国を巡って土地を改良し人々のために知恵と労力を惜しみなく奮い続け、海路を整備し、規格とルールを統一し、海賊や鬼を退治し、危機に備えて食料を備蓄し、気候変動の危機に立ち向かい、人が住めない土地を豊かな農地に変え、外交戦で勝利し、最新の情報や技術、人材も率先して受け入れながら常に万全の安全保障政策を展開した英雄。
当時の大陸はまさに生き地獄でした。
最新の研究によれば、この時代の平均寿命は15歳〜20代前半程度だったと推測されています。成人まで生き残れる可能性は低く、四十まで生きれば長寿とされる時代です。
後漢から三国時代にかけての人口調査 (戸籍数)には戦慄すべき数字が残っています。
後漢 (2世紀半ば): 約5,600万人
三国時代 (3世紀半ば): 約700万〜800万人 (諸説あり)
未登録の流民を含めても、人口の約3分の2から4分の3が失われた計算になります。この絶望的な人口減少が平均寿命の極端な低下を裏付けています。
一方で倭国は、
(魏志倭人伝)其人壽考或百年或八九十年
(現代語意訳)その人々は長寿であり、ある者は百歳まで、ある者は八十歳、九十歳まで生きる。
3世紀の大陸で「100歳」や「90歳」は、神話レベルの数字です。
(魏志倭人伝)其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒
(現代語意訳)人々が集まって会合したり、座ったり立ったりする (日常生活の)場では、父と子、あるいは男と女の間に (厳格な席順や場所の)区別がない。また、人々は生まれつきお酒を好む性質である。
魏 (大陸)では、儒教的な秩序により男女や親子の席順は厳格に分けられていました。しかし倭国では「区別がない」と記されています。これは、女性 (ヒメ)が祭祀を司り、男性 (ヒコ)が実務を担う「対等なパートナーシップ」が社会の基礎にあった証拠です。西都原の女狭穂塚と男狭穂塚が並び立つ姿は、まさにこの「男女の区別なき対等な権威」を形にしたものと言えます。
殺伐とした戦乱と厳しい階級社会にいた魏の使節にとって、男女が分け隔てなく座り、楽しそうにお酒を飲む倭人の姿は、驚くほど平和で「長寿の国」にふさわしい理想郷に見えたはずです。
争いが無く、ストレスの少なく、笑顔あふれる社会だからこその長寿。
ですが、それだけではありません。
『魏志倭人伝』に記された持衰は、一般的に「不吉な身代わり」と解釈されますが、彼を「意図的に免疫力を下げた生きた検疫官」と定義すると、大陸の疫病に対する倭国の高度な防衛策が見えてきます。
持衰は「髪を梳かさず、垢を落とさず、肉を食べず、婦人を近づけない」という極限の飢餓・不衛生状態に置かれます。あえて免疫力を最低ラインまで落とした人間 (持衰)を、大陸からの使節や帰還者と同船させるわけです。
大陸の強力な疫病 (傷寒など)が持ち込まれた場合、真っ先に、かつ顕著に発症するのはこの持衰です。いわば脆弱性を利用した「炭鉱のカナリア」ですね。彼が発症すれば、その一行は「汚染されている」と判断され、上陸を拒否され隔離されます。
持衰は、旅が無事に終われば莫大な財物を分け与えられますが、病人が出れば「殺される」という過酷な契約下にありました。これは「運」を占う迷信ではなく、病原体を国内に入れないという厳格な水際対策の責任を負わせていたと考えられるのです。
百襲姫の天才的な頭脳はあらゆる面で国民を守っていたわけですね。
あまりにも強力なペアゆえに、記紀の編纂者たちは頭を悩ませました。百襲姫と吉備津彦は皇族ですが、大和の王や天皇ではありません。しかし、崇神天皇や垂仁天皇という大和王権の始まりの王たちと同じ時代を生き、かつ彼らの偉大な指導者であったのです。切り離すことも出来ず、かといって正当に評価するには偉大過ぎるというジレンマ。
結局、百襲姫は予言によって国家の危機を救い、神の妻という最高位の巫女として、吉備津彦は英雄的な将軍として崇神天皇と接続されました。
これだけ見れば百襲姫と吉備津彦の功績が奪われた、隠蔽されたように見えるかもしれませんが――――そんなことはありません。
百襲姫は国家の最高神アマテラスとして、吉備津彦はスサノオ、あるいは上代 (古代)において、記紀に登場する人物名がほぼ改変されず神格化している稀有な存在として君臨することになります。
「吉備津彦命」が、八幡神や伊弉諾尊といった国家の根源神と同等の「品位」を授けられている点は、歴史学・神道史において極めて異例で、まさに「別格の王」であった証なので説明しますね。
●「位」と「品」:人間と皇族の差
古代のランク付けには、大きく分けて2つの系統がありました。
位階: 「正一位」「従四位」など。一般の家臣(貴族)に与えられるランク。ほとんどの神様はこの「位」を授かります。
品位: 「一品」「二品」など。天皇の家族(親王・内親王)だけに許された、最高に尊いランクです。
そして神様に対して「品位」が使われるのは、以下4柱のみです。
八幡神(応神天皇:大和王権の象徴)
八幡比咩神(比売大神=百襲姫)
伊弉諾尊(国生みの父:全ての神の祖)
吉備津彦命(そのまま吉備津彦)
このリストを見ると、吉備津彦は「地方の英雄」ではなく、「天皇家の直系先祖」と同格、あるいは「国を創った存在そのもの」として扱われていることがわかります。しかも八幡神や伊弉諾尊は吉備津彦の神格化として使われているケースも多いので、実質的には百襲姫と吉備津彦が国母神と国父神として扱われていると考えることすら出来てしまいます。
魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓「径百余歩 (約150m前後)」に対し、箸墓古墳はサイズ的にまったく合致しませんが、女狭穂塚(全長176m、後円部のみならより合致)男狭穂塚(150m)はともに極めて近い数値になります。
また、西都原古墳群には南九州独自の墓制である「地下式横穴墓」が存在します。私はこれらを百襲姫が連れてきた高句麗勢力のものだと考察しましたが、これこそがまさに殉葬された百人の証拠ではないかと考えます。
本来倭国には殉葬の文化は見られず、他の墳墓でも殉葬された証拠は見つかっていません。ですが、なぜか卑弥呼の場合殉葬が行われているのです。
それはなぜなのか?
実は、高句麗には殉葬の文化がはっきりと存在します。だからこそ彼らの王である卑弥呼が亡くなった時に例外的に殉葬が行われたのとすれば謎が解けます。
垂仁期に殉葬を禁止したのは、彼らが実際に西都原でその残酷な光景を目にしたからでしょうね。
女狭穂塚と男狭穂塚は、宮内庁の厳重な管理下にあり、過去においても一切の調査が許可されていません。これが真実を知るからこその対応なのか、なんとなくヤバいからなのかわかりませんが、前者であることを願っています。
さて、木花朔夜姫の墓とされる女狭穂塚が百襲姫 (アマテラス)と重なる理由の一つが藤の花にあります。
まず、藤は古代日本で太陽神・皇祖神系の象徴植物として扱われました。その理由は――――
藤は春に咲き、長く垂れる房が光の筋と見なされました。紫色は古代の最高位の神聖色でもありました。
●「藤原」氏はアマテラス系の祭祀氏族
●「藤原京」はアマテラスを祀る都
●南九州(日向)は藤の自生地、名所として有名
つまり、藤はアマテラス=太陽の光の象徴として扱われたわけです。
だから 天照大神を祀る神社には藤が多いのですね。椿もそうなのですが、今回は藤に注目します。
そして――――富士山もまた「藤」山です。
「聖なる山を“さん”と呼ぶ」のは九州文化です。
●霧島山
●阿蘇山
●祖母山
●英彦山
●馬城山
富士山もまた東遷による九州文化の影響によって藤山 (ふじさん)となったと考えられます。
そして――――決定的なのが富士山の神が木花朔夜姫だということです。
明らかに木花朔夜姫=アマテラスという構造が存在します。
これは私の感覚なんですが、富士山って冠雪すると雪の筋が垂れ下がって藤の花みたいに見えませんか? 特に冬の富士山は冠雪と空のコントラストで山肌が藤色 (青紫)に見える時があるんです。古代の人が藤を連想したとしても不思議じゃないかなって思うんですよね。
まだまだ語りたいことは山ほどあるんですけど、それはまた別の機会に。
百襲姫と吉備津彦は生涯独身を貫き通しました。
妻や夫を迎えればその一族の影響を少なからず受けますし、公平中立な立場を保つことは難しくなります。たとえ本人が影響を受けなかったとしても、周囲の人間はそう思わないでしょうから。
子が出来れば情が湧きます。能力ではなく血の繋がりを優先したくなるのは人間の性です。
だからこそ姉弟は孤高を貫いたのでしょう。
彼らは聡明で行動力の塊で、人々を、国を照らす太陽で、どんな暗闇の中でも道を照らす月だったのです。
昼は人が作り夜は神が作った。箸墓伝承はまさに昼夜を問わずに働き続け、日本という国を創り出した二人を象徴するような物語です。
一方で彼らは誰しもがそうなれないことも知っていました。
だからこそ、自分たちが居なくなった時、人々が困らないように、属人性を排し、誰がトップに立っても維持できる国の形を創り出したのです。
大和王権とは――――
日本の原点とは――――
そんな二人が人生を捧げて創り出した理想の国の形でした。
もちろん二人の力だけではありません。
日本という国は大陸を追われた人々が最後に辿り着いた場所でした。
国も人種も文化も信仰も異なる人々が、共に手を取り協力し合って誕生した奇跡のような国です。
百襲姫と吉備津彦は、そんな八百万の神々の力を見事に束ねて万華鏡のように輝く国を創り上げたのです。
ヒメ・ヒコという男女のペアによる二頭体制は古代において合理的かつ革新性のあるものでした。
平和を愛し 老若男女を問わず 酒や歌を楽しみ 自然に挑みつつも畏怖を忘れない
二人が守った日本という国のカタチは現代においても変わっていません。
ですが……はたして百襲姫と吉備津彦を知っている日本人がどのくらいいるでしょうか。教科書には出て来ませんし、絶望的でしょうね……。
きっと二人にとってはそんなことどうでもいいんだと思います。
この国が変わらず繫栄していることを心から喜んでいるに違いありませんから。
でもね、私は知って欲しかった。
一人でも多くの人に知ってもらいたかったんです。
あの時代、絶望的に何も無かった暗黒の時代に、知恵を振り絞って汗を流してこの国の原型を――――この国の原風景を切り開いた姉弟のことを。
気付いて欲しかったんです。
神さまだから偉いんじゃなくて、誰よりも頑張ったから神さまになったんだよって。
だからエッセイを書いたのです。
魏志倭人伝と記紀を残してくれたすべての人々に感謝を捧げます。どれが欠けていても届くことはなかったでしょうから。
最後に――――こんな趣味全開のとっちらかった私のエッセイに付き合ってくれてありがとうございます。
少しでも百襲姫と吉備津彦、彼らのことを感じてもらえたのなら――――私の旅の目的は果たせたのかな、と思います。
それでは――――名残惜しいですけれど、いつかまた別のエッセイで。
新しい情報や考察が深まったらまた書きたいなと思いつつ。
最後まで読んでくださりありがとうございました!!
2026年3月31日 ひだまりのねこ




