第五十話 邪馬台国と魏志倭人伝
さて、いつの間にか百襲姫のことを語るエッセイみたいになっていますが、本来は魏志倭人伝を考察するのがテーマでしたね……タイトル変えたほうが良いでしょうか……?
でも……終わらせるのに丁度良いのでこのまま最後まで行きます。
では、気を取り直してまとめに入りましょうか。
(魏志倭人伝)自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
(現代語意訳)女王国 (邪馬台国)より北については、戸数や道里をおおよそ記すことができる。その他の周辺諸国は遠く隔たっていて詳しく記すことができない。
わかりますか? 韓 → 対馬 → 一支 → 末盧 → 伊都 → 奴 → 不弥 → 投馬 これらの国は邪馬壹國 (以下邪馬台国と表記します)の北にあるってはっきり書いてあるんですよ。この一文だけで畿内説は論理的に破綻しています。文法・用法的にも文脈的にもこれ以外の読み方は出来ません。
さらに「旁国遠絶」という言葉ですが、
旁国 旁(ほう/かたわら)=側・周辺・隣接
よって 「邪馬台国の周辺にある国々」 を意味します。
遠絶 遠=遠い 絶=隔絶する、交通が途絶える、行き来が難しい
中国史書では「遠絶」は距離が遠く、道が険しく、情報が届かないという意味で使われることが多い。
つまり 「旁国遠絶」=邪馬台国の周辺にあるが、遠く隔たっていて詳しい情報が得られない国々という意味になります。
これはとても重要で、邪馬台国の周囲に他にも国々があるが、魏使はそこへ行っていないため情報がないと言っているわけです。
魏使が実際に訪れたのは「邪馬台国より北側」の戸数・道里を略載できるルートだけ。逆に言えば邪馬台国の南・東・西の国々は「遠絶」=情報がない
これは、魏使が邪馬台国の周辺を巡っていないことを意味します。
これ畿内説だと「旁国遠絶」が成立しないんです。
畿内 (奈良盆地)を中心に考えると、
東:伊勢・東海
西:播磨・山陽
南:紀伊半島
これらは陸路で普通に行ける地域です。まあ、前提がすでに破綻しているので「旁国遠絶」関係なく畿内説はあり得ないんですが。
一方で九州が舞台であればどうか。
本州・四国とは海で隔たっていますので、まさに遠絶。魏の使節団は自前の船が無いので当然行くことなど出来ません。さらに九州は隣国とはいえ、山地によって隔てられているので、陸路で超えるのはかなり厳しい。特に宮崎は現代においても陸の孤島と言われるほど、海路を使わなければ地理的に孤立しています。つまり邪馬台国が南九州であるという前提で読めば「旁国遠絶」という言葉も「女王國以北」という言葉も極めて妥当な表現となります。無理に解釈を曲げる必要はないのです。
この部分だけでも畿内説はあり得ないのですが、論争を断ち切るために徹底的に追い込みます。
(魏志倭人伝)倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣
(現代語意訳)倭の地は気候が温暖で、冬でも夏でも生の野菜を食べている。
人々は皆、裸足で歩き、家屋に住んでいる。
奈良盆地は「内陸盆地」で、冬は放射冷却が強く、現代でも最低気温が -5℃ 近くまで下がることがあります。では古代はどうだったのか?
最新の古気候学によれば、弥生〜古墳時代の気温は 現代とほぼ同じか、むしろ少し寒い、という結論が出ています。
つまり――――奈良盆地は古代も冬は冷え込みが強く、霜が降りるので生野菜を冬に食べるのは難しく裸足で歩くのも厳しい、ということになります。
もちろんやせ我慢すれば可能かもしれませんが、魏志倭人伝はあくまで温暖であることの説明としての文脈で書いているので意味のない仮定です。
一方で九州沿岸は古代も冬が温暖です。冬でも最低気温が 0℃ を下回ることはほぼなく、海産物が豊富で冬でも野菜が採れる (特に葉物)古代の気候も現代とほぼ同じということで――――
魏志倭人伝の描写と完全に一致します。つまり――――気候的にも畿内説は当てはまりません。
次は政治構造から見ていきます。
(魏志倭人伝)自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(現代語意訳)女王国より北の地域には、特別に「一大率」という役職を置いて諸国を監督させている。諸国はこれを恐れ敬って従っている。その一大率は常に伊都国に駐在しており、倭国の中では中国の刺史 (地方監察官)のような存在である。
この一文、畿内説は論外ですが、北九州説を追い詰める部分でもあります。
北九州説で考えた場合、女王国は福岡・佐賀・大分のどこかということになります。その北となると玄界灘、壱岐、対馬となりますが、魏志倭人伝は壱岐・対馬をすでに別項で記述済みです。「以北」とわざわざ言う意味が弱い。
しかも北九州の国々は“北”ではなく“東西南”に広がっているので、地理的に不自然。さらに北九州説だと伊都国 (福岡糸島)が北九州の監察拠点なのに、女王国も北九州にある、つまり――――監察対象と監察者が同じ地域に密集しすぎる状況になってしまいます。先に挙げた「以北」と「旁国遠絶」の意味も曖昧になるんです。
一応触れておきますが、畿内説はさらに破綻 (伊都国が奈良の北の監察拠点というのは意味不明)。
これだけならば最近人気の熊本説も当てはまりますが、末盧・伊都・奴・不弥という道程は熊本の逆方向へ向かってますし、「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」という記述に該当しないので残念ですが邪馬台国である可能性はほぼありません。
これまで何度か触れてきましたが、邪馬台国は魏志倭人伝 (三国志)にしか登場しない (他のものは引用)文献上にのみ存在する国です。つまり――――誰がなんと言おうとも、どんなに都合が悪かろうと、魏志倭人伝に書いてある場所にあるのが邪馬台国であり、卑弥呼が居た場所です。魏志倭人伝を否定するならば、それは邪馬台国と卑弥呼の存在を否定するのと同義であるということになるのです。
邪馬台国がどこにあったのか長年論争が続けられ、現在では畿内説と北九州説が有力であり、やや畿内説が有利とも言われていますが、それはふわりとした印象によるものです。
今回触れた場所だけでも畿内説は破綻していますし、北九州説も無理がある。だからこそ、地名や考古学的な成果でなんとか誤魔化そうと躍起になっていますが、魏志倭人伝の記述を素直に読めば、構造的に南九州に邪馬台国があったことは明らかです。
これまでの考察を総合的にまとめれば、倭国連合は九州、四国、本州は北陸から関東まで広がる広域連合であって、百襲姫は魏の使節団の行動範囲を九州に限定しました。よって魏志倭人伝における女王国の舞台は九州ということになります。
北九州は女王国の貿易・外交・経済の拠点であり、豊国 (福岡~大分)が政治の中心でありました。そして――――祭祀の中心で女王卑弥呼が居た日向 (宮崎・鹿児島)こそ邪馬台国であったというのが私の結論です。
ですが、だからといって記紀が大和を正統な王権とするために改ざんしたという意見には同意できません。彼らが行ったのは、あくまで神武天皇から始まる王権史が直線的に繋がるように整えただけです。
記紀に登場する神話や伝承の多くは九州が舞台ですが、編纂者たちはそれを隠したわけでも改ざんしたわけでもなく、地名や伝承などがそのまま東遷によってパッケージ移植されているため読むほうが誤認しただけでしょう。
記紀の舞台が大和へ移るのは崇神天皇からです。崇神期の記述も多くは九州時代のものが含まれますが、どのタイミングで東遷が行われたのかを考察してみましょう。
崇神天皇が即位してからほぼ毎年のように細かい業績が記録されていますが、即位17年に船を作らせた記述を最後に業績が途絶えます。次に再開するのは即位48年、なんと31年後 (二倍暦なので約15年)に垂仁天皇を後継者に指名する場面です。
つまり――――即位17年に作らせた船に乗って東遷を開始した可能性が非常に高いと考えるのです。
そう考えると以前触れた、明らかに南九州要素満載の武埴安彦命と吾田媛の反乱 (即位10年)も九州時代の逸話であったことになり完璧に整合性が取れることになります。
ちなみにこの反乱こそ、卑弥呼の死後起きた内乱の正体ではないかと私は考えています。
当然ですが、この東遷は歴史的な出来事です。古代における名前は、個人的な私名ではなく、言霊信仰による意味で構成されていますので、東遷を担った人々の名前にはそれとわかる文字が使われています。
御間城入彦五十瓊殖天皇 (崇神天皇)
活目入彦五十狭茅天皇 (垂仁天皇)
豊城入彦命 (崇神天皇皇子)東国の治定にあたる
豊鍬入姫命 (崇神天皇皇女・台与)初代斎宮
大入杵命 (崇神天皇皇子)能登国造の祖
八坂入彦命 (崇神天皇皇子)尾張・三河の開拓
渟名城入姫命 (崇神天皇皇女)倭大国魂神に関わる伝承
十市瓊入姫命 (崇神天皇皇女)大和国十市郡への地名移植、「瓊」の系譜
五十瓊敷入彦命 (垂仁天皇皇子)石上神宮を管理、「瓊」の系譜
稚城瓊入彦命 (垂仁天皇皇子)
渟葉田瓊入媛 (垂仁天皇妃)垂仁天皇皇后日葉酢媛命の妹
薊瓊入媛 (垂仁天皇妃)垂仁天皇皇后日葉酢媛命の妹
もうお分かりかと思いますが、全員「入」という文字が入っています。九州から大和入りしたメンバーと考えるとしっくりくるのです。
そう考えると、卑弥呼の死後立った男王とは垂仁天皇ではなく、崇神天皇であった可能性が高くなります。記紀における武埴安彦命と吾田媛の反乱との整合性を考えてもそうです。
そして――――天岩戸伝承こそが、卑弥呼 (百襲姫)から台与 (豊鍬入姫命)への継承の儀式であったと思われます。
天岩戸に隠れる=アマテラス (百襲姫)の死を意味している可能性が非常に高いです。隠れるという言葉が高貴な人物が亡くなったことを指すのは、まさにこの伝承からであると思われますので。
また、神話の中で梭が陰部に刺さって死んでしまった天の服織女と、箸が陰部に刺さって死んでしまった百襲姫の箸墓伝承は構造が同じであり、火の神カグツチ (迦具土神)を産んだために陰部に火傷を負って死んだイザナミから続く神話型を継承していると考えます。つまり天岩戸伝承は国母神の死を意味していると理解すべきなのです。
八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談しますが、この河原こそが八坂川流域の杵築です。なぜなら女王国の政治の中心は豊国 (大分)なので当然です。神々は常世 (海外)の長鳴鳥を集めて鳴かせますが、この長鳴鳥こそが魏の使節団張政らであり、魏が台与を正式な後継女王として認める宣言をしたのだと考えれば意味不明な神話に筋が通ります。
張政=ちょうせい=長声=長鳴 というのもアリかなと。
さらに伊斯許理度売命が天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡を作りますが、この地には宇佐神宮の奥宮であり、比売大神が降臨したとされる聖山、御許山があります。比売大神は百襲姫ですので、「許」の文字を持つ伊斯許理度売命は、この地の製鉄集団のリーダー (巫女)でしょう。
ちなみに垂仁天皇の子である景行天皇記には「八田 (やた)」という地名が登場します。この「八田」は、現在の大分県豊後高田市 (崇神天皇のマキに関わる馬城山や真木大堂があるエリア)から宇佐市、八坂川かけての地域を指すと比定されています。
そして、もう一つの三種の神器である八尺瓊勾玉 (やさかにのまがたま)も作られますが、こちらはそのままヤサカです。おそらくは姫島特産の希少な乳白色の黒曜石が使われたのではないでしょうか。
最後の草薙の剣については、すでに八坂川の治水工事 (八岐大蛇伝承)の際に手に入れています。作ったのはおそらく百襲姫チームメンバーである天伊田根命=天村雲命=天叢雲剣ではないかと。
一般的なイメージでは、三種の神器は青銅製ですが、八咫鏡と草薙の剣は鉄製であったことになります。鉄鏡は同じ大分の日田に工房があったと思われ、伝説の曹操の鏡 (金銀錯嵌珠龍文鉄鏡)が出土していますよね。
崇神天皇は後に八咫鏡と草薙の剣の形代をとりますが、これは鉄製ゆえに錆や劣化対策として複製が作れるようにしたのでしょう。
三種の神器は、まだ幼い台与 (豊鍬入姫命)の権威を補強するという側面もあったと思いますが、本来の三種の神器とは測量などを行う道具であったと思いますので、王権というゼネコングループの技術リーダーに就任したという文字通りの継承に必要なものだったと考えます。
こうした伝承から、三種の神器が作られたのは豊国であって、高天原があった豊葦原中國とは豊国であったということになります。豊富な鉄と製造技術、北九州と南九州を繋ぐ地政学的な理由もあって政治の中心足りえたのだと思います。
もちろんこの神話構造は多層的なものであって、あくまでこの時代の台与 (豊鍬入姫命)に継承された時のことに限ってではありますが。
後継者となった台与 (豊鍬入姫命)は、百襲姫の遺志を引き継いで見事にこの地を豊かな国へと変えました。後世豊国 (豊前・豊後)と呼ばれるのは、まさしくトヨの成し遂げた結果だと思うのです。
今回畿内説と北九州説を否定的に語りましたが、それはあくまで魏志倭人伝における邪馬台国の場所についてのことです。どの場所にも百襲姫の影響は色濃く残っていますし、実際に彼女が居た時期もあったでしょう。むしろ痕跡の濃度だけなら北九州の方が濃いくらいですし。
ですが、どんなに地名が残っていても、伝承が残っていても、素晴らしい遺跡があったとしても、それは卑弥呼がいた邪馬台国の証明にはなり得ないのです。
邪馬台国論争とはあくまで文献によるものであって、どこまで行っても結局は魏志倭人伝にしか答えはないのですから。
今後、どれだけ科学技術が発展したとしても、明らかになるのは九州からの東遷の実態だけでしょう。
北九州も、大和も、邪馬台国が東遷する過程であり結局は同じものです。私たちは何百年もの間、移動する聖地を巡って不毛な論争を続けていたということですね。
さて、次回はいよいよ最終回です。どうぞお楽しみに。




