第四十五話 源流としての日向
今回からいよいよ最終章に突入です。
ここからは一気に核心に踏み込みますので、これまでとは違って一気に深層まで読み解き、可能な限り結論まで持って行くつもりです。
これまで二十万文字近くかけて古代の旅を続けてきたのは、いきなり結論を書いてもたぶん理解してもらえないからです。ですが、ここまで読み進めてもらった皆さまにならきっと届くと信じて精一杯わかりやすく書きますので、どうかあと少し、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
さて、前回五十の系譜と伊勢神宮について書きました。これまで何度も触れてきましたが、古代日本の構造は「東進」と「東遷」に集約されます。
これは単なる人の移動ではなく、地名を伴うものです。これは東遷勢力が、言霊の思想を強く持っていたからです。自分たちの聖地などの名を付けることで、その土地の荒ぶる神を鎮めるのです。彼らにとって地名は、神宝や技術とセットになったアイデンティティであり、それは現代まで残る東遷の確かな痕跡なのです。
この東遷に伴なう地名の移動という構造に気付けば、神話や記紀に書かれた伝承の違和感や謎がすべて氷解します。
たとえば――――なぜ本来日向にあった倭国の都、邪馬壹が畿内にもあるのか? なぜ同じ名前なのかという根本的な謎があっさり解決します。説明するまでもありませんが、祭祀の都であるヤマトが東遷によって畿内へ移動したからです。
前回の伊勢神宮の話に関連して補足すれば、当然日向にも伊勢はあります。
現在はサーフィンの聖地となっている伊勢ケ浜には大御神社と鵜戸神社が鎮座しています。大御神社は日向のお伊勢さまとして地元の人々に親しまれていますが、実際はこちらがオリジナルなので、伊勢神宮が東のお伊勢さまであるべきですよね。
さて、大御神社の祭神は、天照大神(百襲姫)、境内社である鵜戸神社には彦火瓊瓊杵命(垂仁天皇)が祀られています。この地が東遷の舞台であったことがわかる構成です。
さらに大御神社は、君が代の歌詞に出てくる「さざれ石」があることでも有名です。
大御神社の境内には、日本最大規模とされる「さざれ石」群が広がっています。学術的には「礫岩」であり、小さな石(さざれ石)が粘土や砂などと混じり合い、長い年月をかけてコンクリート状に固まったものです。
君が代の歌詞にある「さざれ石が巌となり」という部分は、一般的には意味がわからないので比喩と言われていましたが、この場所では実際の地質現象として視覚的に現れているのです。 境内には、天孫降臨の際に神々が降り立ったとされる巨大な岩座(神座)があり、これが「さざれ石が固まって巌になった」姿そのものであると解釈されています。
また本殿裏には火成岩の「柱状節理」があり、水成岩である「さざれ石」と隣接して存在しています。この火と水のエネルギーが交わる特異な地質環境が、神話の舞台としての説得力を高めていて、地質学会員による鑑定により、この地の岩石が国歌に詠まれる「さざれ石(礫岩)」であることが確認されました。
日向のさざれ石は、その圧倒的な規模と、天孫降臨の地という神話的背景が地質学的実態と完全に一致しているため、国歌の情景を最も忠実に体現する「オリジナル(原風景)」であると考えられているわけです。
ちなみに、伊勢神宮の内宮を流れる五十鈴川ですが、実は日向(門川町付近)にも古くから五十鈴川が流れています。
また日向の海岸線にある「柱状岩(馬ヶ背)」や「七ツ釜」の荒々しい景観は、伊勢の「二見ヶ浦(夫婦岩)」や鳥羽の海岸線と地政学的・視覚的に対応しています。どちらも東の海から昇る太陽(アマテラス・百襲姫)を拝むための絶好のポイントです。日向で太陽を拝んでいた場所と同じ条件の土地を伊勢で探し出し、そこを新たな聖域とした可能性が高いです。
伊勢神宮の象徴である巨大なスギの木ですが、南九州は「スギ(飫肥スギなど)」の原産地であり、古くから造船技術と結びついていました。東遷集団が船を造るための、あるいは神を宿すための「スギ」の苗木や文化を、日向から伊勢へと運び、神域を形成したと考えられます。
神武(あるいは垂仁・吉備津彦)が東遷の際に出航したとされる日向の美々津で行われる「耳だんご」の風習(急ぎの出発を祝う)などは、東遷の慌ただしさを今に伝える民俗的な遺物ですし、伊勢(三重県)にある安濃津や周辺の古い港の伝承には、日向からやってきた船団を受け入れた記録が断片的に残っています。
結論、伊勢は「日向を映す鏡」であり、伊勢神宮は、日向の聖なる地政学を完璧にコピーした「東の写し絵」というわけですね。
ついでの寄り道ですが、君が代にも触れておこうと思います。
『君が代』の歌詞(短歌)は『古今和歌集』(905年奏上)に「題知らず・読人しらず」として収録されているのが最古の記録ですが、その成立はさらに数百年遡ると考えられています。
もしこれが日向のさざれ石(大御神社)を指しているとするなら、その起源は「東遷(垂仁・吉備津彦の時代)」という、日本の国家形成期そのものに直結する「建国の祝詞」であった可能性が極めて高いです。
この国歌の起源も日本史上最大級の謎ではありますが、私にはものすごく心当たりのある人物がいます。
歴史的背景を熟知していて、実際にこのさざれ石を見たことがあり、動機も誰よりも強くあり、文学的感性にも優れている、そんな人物が一人だけ存在します。
それは――――垂仁天皇の子、景行天皇です。
彼以上に地政学的、血縁的、そして情熱の面でも、これ以上ないほど完璧な動機を備えている人物はいません。
景行天皇は、父・垂仁が切り拓いた東遷の道を、逆方向から「巡幸(確認)」した人物です。彼が日向に六年も留まったのは、単なる遠征ではなく、父たちが旅立った建国の原点を自らの目で確かめ、その霊性を大和の王権として「再認証」するためでした。
景行天皇が、目の前に広がるさざれ石(巌)を見たとき、彼の中に浮かんだのは、ここから東へ旅立った父・垂仁や、実務を支えた吉備津彦たちの姿だったはずです。
「さざれ石が巌になる」という地質学的現象を、バラバラだった小国・民族が一つに固まった「日本」という国家の奇跡に重ね合わせる。この高度なメタファー(比喩)を綴れるのは、東遷の苦労を当人たちから聞き、かつ現場の巌を目の当たりにした景行天皇以外に考えられません。
景行にとっての「君」とは、偉大なる父・垂仁であり、その血脈が「千代に八千代に」続くことへの祈りだったのでしょう。
「君が代」とは景行天皇が父への敬意と国家の永続化という祈りを込めた鎮魂歌であった――――というのが私の結論です。もちろん確認するすべはありませんけれど。
さて、話が横道に逸れてしまいましたが、前回の「五十の系譜」についてもう少し考察を深めておきましょう。
私は「五十」を個人の名ではなく、武器や神宝を掌る「称号・官職」として捉えるべきだと考えます。その視点で眺めると、記紀に登場する「五十」の名を持つ人物たちが、いずれも軍事的な功績や神宝の管理(石上神宮の創建期など)に深く関わっている点と、完璧に合致するからです。
前回検証したように東遷によって管理者であるイソの名前が移動するように、武器や神宝を保管・製造する石上もまた東遷しています。
ただし、九州は大陸に対する最前線であり、中心が東遷しても石上は維持しなければなりません。後世、神功皇后の時代に大規模な海外派兵が可能だったのも、これらの石上拠点が常にアップデートされ、維持されていたからです。
日向には、これら石上の痕跡が複数残っていますが、特に重要なのは西都原の石神、石上、そして延岡の石上神社周辺ですね。大和の石上神宮のオリジナルは、これらの石上であった可能性が非常に高いと考えています。
ところで、この石上に関連して魏志倭人伝に重要な人物が存在します。
大夫難升米とともに最初に魏の皇帝に謁見した倭国代表、都市牛利です。以前触れた時に正体は後でと書きました。ここで彼の正体を検証しましょう。
魏志倭人伝の記述を読む限り、大夫難升米と都市牛利は同格の存在として扱われています。大夫とは、当時の倭国において卑弥呼に次ぐ最高位の官職です。難升米の正体については、百襲姫の甥、彦太忍信命であるとすでに解説済みですが、当時の倭国に大夫と同格の人物は一大率以外ほとんどいません。
都市という官職に注目してみましょう。都というのは倭国、大陸共通です。市はおそらく司、史、もしくは使、いずれにしても都(日向・邪馬壹)の代表、つまりは卑弥呼(百襲姫)の名代です。こちらも該当する人物がほぼいません。もうわかりますよね?
都市牛利とは――――都使吉備
つまり吉備津彦しか考えられません。
240年、魏は梯儁等を派遣し、詔書、印綬、贈り物を倭国へ届けさせていますが、この時、難升米はそのまま魏に残っているので、彼らを連れて帰国したのは都市牛利、つまり吉備津彦ということになります。
そして――――饒速日命による十種の神宝の伝承は、魏からの贈り物を携えて戻った都市牛利と完全に重なります。
饒速日命は天照大神(百襲姫)からこれらの十種の神宝を与えられ、神武(垂仁天皇)に先立って大和へ向かいます。
饒速日命は石上神宮を司る物部氏の祖とされ、系譜の意味でも役割の面でも吉備津彦と完全に一致します。
つまり――――
都市牛利=饒速日命=スサノオ=吉備津彦という構造が見えてきます。
もっと言えば、魏志倭人伝当時の一大率も吉備津彦だった可能性が高いです。
一大率とは、イソソ・イタソ、つまり五十狭のことだと考えるからです。
伊勢神宮の初代斎宮である倭姫命は、三種の神器の一つである草薙の剣を甥のヤマトタケルへ授けます。
この草薙の剣はスサノオ(吉備津彦)が八岐大蛇を退治した時に手に入れ、姉のアマテラス(百襲姫)に献上したものです。
その剣がアマテラス(百襲姫)からニニギ(垂仁天皇)へ三種の神器として渡され、台与(豊鍬入姫命)を経由してニニギの娘である倭姫命へと繋がり、ヤマトタケルの手に渡るということになり、私の仮説と神話の構造が完全に一致することになります。
次回は、日向を出発した東遷集団が次に拠点を移した場所について考察したいと思います。卑弥呼(百襲姫)がどこでどの段階で亡くなったのかについても同時に解き明かしてみたいと思いますのでどうぞお楽しみに。




