羊飼いの一日
月なし夜の星は普段より賑やかだ。
夏に向かう夜にしては、空気が澄んでいる。
ジャックはカンテラに火をつけ、羊小屋の前に立った。
半球状の天然の洞窟は羊達の栖。天井が高い。聖堂のように見えるのは、柱状節理のせいだろう。六角形の段差の床は藁をたっぷり敷いてうまく平らに見えた。羊達はその段差をうまく使い、ひとかたまりで眠っている。
風がむわりと生の匂いを運んできた。
窓の穴から星あかりが射しこんでいる。
白く薄いものが、ひらりと光をかえした。よく見れば、羊団子の真ん中で、白髪の子どもが本をめくっている。読めるだけの光源はない。
ジャックはカンテラを高く掲げた。気づいてこちらを向いた鏡目が、一瞬薄青く光る。人ならぬ瞳にジャックは一瞬息をのみ、すぐ子どもに言葉をかけた。
「ミリア、真っ暗な中で本を読むな」
「星があるから、だいじょうぶ」
そう言うミリアの視線は既に本の内側だ。昨日はこのまま放置してたら、声が届かなくなった。そうなる前に、今日は身支度を終わらせねば。幸いこの子は好奇心旺盛だ。
「あのな。人の目は暗いところで本を読めば、劣化するんだ」
「劣化」
「目が悪くなる。火くらいつけろ」
「人の魔術なんて使えないよ」
ミリアは首を傾げてジャックを見上げた。灯りの下で濃紺の目を薄氷が瞬く。水鏡の底は深い。
人は呼吸と共に魔術を感じ、人ならぬものは心と共に魔術を感じるという。仕組みも感知する範囲も違えば、扱い方は変わってくる。どんなに姿が似ていても。
「使えないからこそだ。燐寸って知ってるか」
「知ってる。燃料も使ったらなくなるんだよね」
「ああ」
「そしたら補充しなきゃいけないよね」
「もちろんだ」
「それが面倒くさい」
瞬間、火が小さくなってすぐ元に戻る。ジャックは天を仰いで鼻から息を吸った。ゆっくりたっぷり六まで数を数える。相手は子ども、と三回ほど早まわしで口の中で繰り返した。
それからミリアを真っ直ぐ見据えた。声は少しだけ強すぎたが、子どもがそれを気にする仕草はない。
「面倒でもやるんだ。それが人間だ」
「えー」
「それに子どもは夕方とともに寝て、日の出前に起きるものなんだ。さ、今日をはじめるぞ。仕度しろ」
「したく――井戸で顔洗い、だっけ」
「そうだ。後で客が来る」
「客? こんな何もないところに来るの」
目を丸くした子どものまっすぐな意見にジャックは苦笑した。
「来るさ。そういう契約だ」
「契約って人間の」
「ああ。欲しければ、どうにか調達するしかないからな」
「ふぅん」
ミリアの視線が本におちた。星風が小屋の中を通り過ぎていく。
「俺たちの生活と仕入れの為に、定期的に来てくれるんだ。林檎もあるぞ」
「仕入れ」
子どもの視線が羊にむく。途端にくう、と腹がないた。
「毛用種だ。そんな目でこいつらを見るな」
「食べないの」
「食わん。朝食は別にある。ほら準備しような」
言いおわる前に駆け出すミリアに、ジャックは軽く息を吐いた。寝ぼけまなこで子羊トゴーが追いかける。面倒を見るつもりらしい。
井戸脇を通れば教えた通り、釣瓶を落として水を汲んでいた。落ちないように、トゴーがミリアの裾をそっとくわえている。このふたりなら、大丈夫そうだ。
切石を積みあげた家は寝る部屋と居間と台所が分かれている。ジャックは玄関から真っ直ぐ台所に向かうと、かまどの前に立った。離れる前にとろ火にしていたおかげで、作りかけのスープはふつふつと湯気をあげている。
かおる鍋へ木杓を差しこめば、雑に切った肉と茸は味が染みだしてふんわり膨らんでいる。干した羊肉は大草原産で、乾した茸は大森林産だ。この辺りじゃ茸など珍しいが、日々の楽しみとして欠かせなかった。
茸の保存袋が目に入り、思わず舌打ちした。もう残りが少ない。以前は山向こうで自作していたが、今はあの子から目を離せない。当分は足りない味に我慢するしかないだろう。
考えに浸るうち、葱も半透明にとろけはじめた。小麦と塩を羊乳で練った『タプ』をちぎりいれる。浮いてきたら味を整えた。鍋から香草の束を引き上げ、かまどの脇によけた。これはあとで羊たちのエサだ。
スープを器に盛り、薄いチーズの切れ端を散らした。林檎と一緒に卓に出せば、濡れ顔の子どもが席につく。
「顔はきちんと拭け」
「これくらい濡れてる方が気持ちいいのに」
「ここは乾燥するからな。顔から水が余計に抜けて突っ張るぞ」
「それは嫌」
ざっと拭ってやれば、眉間にシワがよっている。そこをしっかりふけば、肩が楽しげに揺れた。鼻がぷおん、と鳴り響く。
「よし、これでいい。どうぞ」
「いただきま!」
「いただきます、な」
言った端から木匙で器のなかをかきこみはじめる。無心で食べるその様子に、ジャックは軽く息を吐いた。
「ミリア。何かあったら、俺のところへ来ていいんだぞ」
「なにか、って?」
「身体の異変だ。腹が減ったり、ねむれなかったり。俺が小さかった頃はことあるごとに乳母を起こしていたぞ」
起きがけ、大きな空雷が幾つも響いた。家の外で確認すれば、音源は羊小屋だった。竜が人になった副作用だろう。普段なら羊たちが先だが、今日は人を先にした。
「乳母?」
「母親の代わりをする人のことだ。あんまり一般的じゃないけどな」
ジャックは自分の器を水バケツに漬けた。作業用の前掛けと手足に衝撃吸収の魔術をまとう。この魔術は手袋がわりになるので重宝していた。ブーツも頑丈とはいえ大事なものだ。万が一もないように、念入りに魔術で覆った。
「ミリア、食いおわったら匙と器をバケツの水に漬けといてくれ」
「――わかったよ。ジャックは?」
ミリアは大きく飲みこんで、声をあげた。口に含んだまま喋らない辺り、竜にも作法はあるようだ。
「羊たちにもメシを出さないとな。昼星からの宿題は?」
「まだ途中」
「じゃあ、声をかけるまで読んどけ」
「はぁい」
家を出ればいつもの慣れた作業だ。餌場を掃き清め、藁と林檎と香草を敷き詰める。その間に羊たちは小屋を出て、めいめい朝の日課をはじめた。
毛繕いするもの、水場で水を飲むもの、顔を洗って魔術で乾かすもの。喧嘩するもの、仲裁するもの、小銭を数えて毛皮の中にしまうもの。
ジャックが準備の合図をすれば、一斉に餌場に入ってきた。
今日も羊たちは優秀だ。涎を垂らして待ちきれない仲間のザラを留めることすらやってみせた。同じように寝ぼすけも管理してほしいが、そちらはどうやら羊の蹄には余るらしい。
「シュア……ラスが困ってるだろ。そろそろ起きろ」
小屋に戻って寝ぼすけの身体をゆするが、起きる気配はない。今日も途方に暮れた顔のラスにひとつ頷く。ジャックはシュアの腹横から脇に手を入れた。軽くくすぐってやれば、シュアは笑いながら目を覚ました。その後も何度も舟をこぐシュアを、ひとりと一匹がかりで羊小屋から押しだした。
羊たちは優秀な分、立派な体だ。その分とても重い。やれやれとひと息つきたいが、それどころじゃない。やっと掃除だ。
汚れた藁を掻き出して掃き清め、風を使って換気する。午後の準備で敷き藁を端に積み上げれば、既に日は昇りはじめていた。そろそろ放牧の時間だ。ジャックはカンテラを消し、井戸でざっと汚れを拭うと家に入った。
「準備万端じゃないか」
「今日はお客さんが来るんでしょう?」
「そんなに楽しみなのか」
ミリアは本と林檎を詰めた編みかごを肩から斜めに掛けていた。そのまま卓のまわりをくるくる回る。
「だってあたしたちに会う為に来てくれるんでしょう」
不意にぴたりと止まり、肩を落とした。
「でも、竜は好きじゃないかもしれないか」
ジャックは前掛けを壁にかけ、ケープを羽織った。
「今は人間の子どもだろ」
「そうだった。子ども嫌い、だったりしない?」
「どうだろうな。そこまで知らん。ほら落ち着け、行くぞ」
羊飼いの証の杖を腰から吊り下げる。サングラスを片手に扉をあければ、ミリアはさっと脇を駆け抜けた。
そのまま真っ直ぐトゴーに体当たりをした。驚いたトゴーが軽く応戦する。白い子どもと白黒の子羊。どう見ても子どもの戯れだ。
「――身体年齢に引っ張られてるよな」
竜は『世界を支える柱』というが、今のミリアにはその片鱗すら見えない。
「子どもを拾った訳じゃないんだがな」
あいつにどう説明するか。ジャックは頭に手を当てた。
悩む羊飼いを傍目に羊たちに連れられて、ミリアは吊り橋を渡った。渡った先は柱岳の隣山。
柱岳と違い、羊たちの好む草が沢山生えている。白詰草や猫尾草、兎豆が一面に広がっていた。
「ここ、特定の生き物周りばかり集まるんじゃない?」
「いや、他所者はまず辿り着けない隠れ山だ」
「隠れ山――まさか、ここも月の領域なの?」
「ああ、先代が月に頼んでつくってもらった飛び地だ。この白詰山は未たちの牧草地だからな」
「未の為だけに作った」
ぽかんとした顔だけ見れば、やはりとても子どもだ。
「最初はな。長年書庫の扉番をしていると、いろいろなしがらみや不興を買うもんだ。それを気にせず安全で定期的に取引するにも、ここは丁度良い」
柔らかな風が草花をかき鳴らす。草を喰みに散った羊たちから視線を戻して、ミリアは尋ねた。
「取引?」
「そうだ。今朝お前が食べたスープの具も林檎も、あいつが金と引き換えに定期的に売ってくれるから食べられるんだ」
ジャックが手を振る方を見れば、下から驢馬を連れた林檎腹の男が上がってきた。
「あれがお客さん?」
「そうだ、粉屋のロブストだ」
ジャックが手を振れば、ロブストも手綱を振った。
息を切らして登ってきたロブストに、トゴーは駆けより体当たりした。
「め゙〜〜〜!!」
「よお、坊主。またちょっと重くなったな?」
ロブストが体当たりしてきた子羊を抱きあげる。さわりと草花が揺れた。
「ちょっと毛は薄くなったがな」
「……バレたか」
「むしろ何故バレないと思った」
「トゴーの坊主だから?」
「お前がそんなにトゴーを買ってるとは知らなかったな」
ジャックが目をのぞきこめば、ロブストは目を逸らし、急に思い出したように声をあげた。
「あ、ああ! そうだ、ジャック。『水にまつわる人ならぬ方』がいるだろう」
「なんの話だ」
「しらばっくれるな。うちのカミさんが挨拶したいって言っててよ――呼んでもいいか」
ロブストはそう言って懐から小さな木製の歯車をちらりと見せた。
「バリが? ……ちょっと待て」
ジャックは後ろ足の熱源を見下ろした。ミリアは途方に暮れた顔をしていた。少しかたい。
「ジャック……バリって?」
「ああ、この下流にある水車の精ツクリス、愛称バリだ。ロブストの伴侶でもある」
「水車――そっか、こないだ川の水、使ったもんね」
「人を婿に迎えた物好きな精だが――どうする?」
「土地付きの精なら、『はぐれもの』が気になって当然だね。あたしは大丈夫」
「いいんだな?」
覚悟を決めたような顔で頷くミリアに、ジャックはロブストに許可を出した。
「分かった。――で、その子が?」
「ああ、ミリアだ。事情があって引き取った。ミリア、こいつが粉屋のロブストだ。町の壁の外側連中が育てた麦を一手に引き受けてる」
「大半は奥さんのおかげでね」
ロブストが魔術をこめれば、歯車は宙に浮かび上がり
くるくると回りだした。ミリアが気づけば吹いた風と風の隙間から、ふわりと裾のレースが翻える。
「ごきげんよう、ジャック。突然ごめんなさいね。土地の許可は以前にもらっているから許してちょうだい」
小さく膝を曲げる仕草と共に穏やかな声が場をまわした。
「構わないさ。バリには良くしてもらったと、散々先代から聞かされているからな」
「あら。あの人ったら、そんな風には見せなかったのにねぇ。それで『世界を支える柱』様は――まあ、なんて可愛らしい」
ジャックの視線で、バリは自分を見上げる子どもに釘づけになった。弾んだ声でミリアの身体が揺れる。
「あの水が減った瞬間は、本当にびっくりしたのよ……だけど、きっとあなたに必要なことだったのね」
バリが柔らかく微笑めば、ミリアは戸惑いながらも足を踏み出した。
「仕事の邪魔をしてごめんな――」
その先の言葉をミリアは言えなかった。バリに抱きしめられ、窒息しかける。
「まさか、はぐれものがこんなに可愛らしいなんて! いいえ、違うわね。はぐれてしまったから、ここに来てくれたってことよね。感謝せずにいられないわ」
「あの――子ども、嫌いじゃない?」
「まさか。水車小屋じゃ、子ども達はみんな私の周りで水遊びして育つの。どんな子だって、みんなちゃんと考えてることがあるのよね」
そのままミリアとバリは互いに夢中になって話をしだした。手持ち無沙汰になった男たちは、どちらからともなく視線を交わした。
「――今のうち、取引を終わらせておくか」
「――おう。そうだな。今日は小麦粉、干し肉、林檎と藁で良かったか」
「ああ。……小麦粉も干し肉も随分と出来がいいじゃないか。価格に変更はないな?」
「おう。いい仕入れがあってな。だが今年は次回から夏価格だ。野菜が安くなって林檎が値上がりする」
「もうそんな季節か」
「今日は――月銀貨大三小四、星銅四、草粒十だ」
ロブストの言葉に、ジャックはケープの内側から金を取り出した。銀貨を陽にかざすと、顔を顰めて追加の貨幣を出す。
「少し安くないか?」
「バリに感謝してくれ」
「ありがたい――新しい小月銀貨が二枚混じっていた。三枚多めでいいか」
「ああ、これか。また比率を変えたみたいだな……そうだな、助かるわ――毎度」
ロブストは驢馬の空間収納から荷物を取り出し、トゴーが受け取って仕舞う。それが終われば、トゴーと驢馬は仲良く草を喰みはじめた。
「ジャック。次の注文だがね?」
「いつものに干し肉と野菜を一箱ずつ追加したいんだが、どれくらい融通できる?」
「それくらいなら、準備してる。うちのカミさんは有能でね」
「バリが。流石だな」
「で、本当にそれだけでいいのか?」
「それだけ?」
「あー……なら猶予を設けておこう」
バリとミリアはまだ会話が途切れない。不意にロブストがちらりと視線をジャックに向けた。
「なあ、以前から気になってたんだが」
「どうした」
「藁色の髪って珍しいよな」
「故郷の大森林地方じゃ、ありふれた色だがね」
「麓に小さな商隊が来ている。大森林からだ。どうやらお前さんの所に用があるみたいだが」
「なにか気になる事があるのか?」
「ええと、なんだ。この辺りは訳ありで流れ着く奴が多いだろ。詮索するつもりはないんだが」
ロブストは視線を忙しく動かし、言い淀んだ。
「そんな勿体ぶるのも珍しいな」
「あっちは見事な金髪でな」
「大森林には金も多い」
「あんたはジャック・ラッセルテリアであっちはジョン・ドゥだから姓も被らないんだが」
「個人的には違う意味で気になるな」
「顔つきがな、とてもよく似ている。元騎士様らしいが、歩き方があんたそっくりなんだ」
ジャックの動きが一瞬止まった。サングラス越しの表情はロブストからは見えなかった。
「……知らないな。俺の家族はここにいるだけだ。書庫の客か? なら本人に問うまで俺にゃ判断できねぇよ」
「ならいつも通りでいいか?」
「いいんじゃねぇか」
ふとバリとミリアの方を向けば、あちらもなにかあったらしい。
「ちょっと、ジャック」
「ん?」
バリの声がかたい。冷たい風が微笑む淑女の裾を揺らした。思わずジャックの背筋が伸びた。
「こんな小さな子を母屋じゃなくて畜舎で寝かしてるって?」
「いや――女の子だから俺と一緒の場所で寝るのは、いくら小さいって言ったってさすがにまずいだろ? それに――」
バリの不動の笑みに、竜だし、という言葉を口の中にとめた。
「竜だから? 人じゃないから?」
「いや、言わなかったぞ」
「言わなくても、態度に出たら一緒よ。あなた――昼星様に人の子として接するのが大事、って言ったんでしょう」
「なんでそれを」
「従者のプペ様があなたの言葉に感心してたわよ」
「昼星め」
「男手ひとつじゃ大変だろうから、と私に気にかけて欲しいって話だったけど。――まさかここまで酷いなんて」
「そんなにか?」
水車の精は腰に手をあて、きっと羊飼いを睨んだ。ぶわり、と魔術が風に弾けて霧散する。
「これくらいの子は、まだ親と一緒に時を過ごして物事を覚えるのよ。ましてや、いくら羊たちが賢いからって、子守りをさせるなんてありえない。羊の子じゃないんだから」
「だがな――いや、すまなかった。全面的に俺が悪かった。どうしたらいいか教えてくれ」
非難の視線にジャックが小さく両手をあげれば、バリは半目になった。
「ことあるごとに触れるのよ」
「触れ――いいのか?」
「あのね。人間ならまだ抱きあげて、絶対に手を離しちゃいけない年頃なのよ」
「だが、異性だぞ」
「異性じゃない。あなたは父親代わりなのよ」
「ちちおや――流石になったことないんだが」
「なったことない、じゃない。『なる』のよ」
言い淀むジャックにバリは軽くため息をついた。
「この調子じゃ、他にも問題がありそうね――ねぇロブスト」
「なんだい?」
「この子が気になるの。かと言って、私の歯車をあなた以外に預けたくはなくて」
「そうだろうねぇ、奥さん。当分小まめに来ようか?」
「ええ、助かるわ。苦労をかけてごめんなさいね」
「君の滅多にないお願いだ。叶えられるのが嬉しいよ」
ジャックはそよぐ風に小石を蹴りこんだ。
「取りこみ中、すまない。結局俺は何を用意すればいい」
「そうね。紙とペンと子ども部屋とありったけの布、それから日常にその子を連れまわす覚悟かしら」
「なるべく用意するようにする」
「ええ、これから色々必要になるから、お金も必要だと思うわ」
「…………分かった」
勢いのない羊飼いを放置して、水車の精はもう一度目の前の子どもの横にしゃがみこんだ。
「ミリア。あなたはジャックに触れられるの、嫌かしら」
「嫌じゃないよ?」
バリとミリアの視線にジャックは膝をついた。寄ってきた小さな竜を腕の中にそっと入れる。
「首に腕をまわせるか?」
「こう――っわ!」
子どもの膝裏をすくいあげてジャックが立ち上がれば、ミリアの手に力がこもる。これは竜じゃない。子どもの握力だ。
「これが抱っこだ」
「抱っこ……」
「怖かったらおろすが」
ジャックの目を見てミリアは首を振った。それから辺りを見まわし、声を弾ませた。
「このままがいい――人の腕の中はあたたかくて、空を飛ぶより広く見えるね」
立ち上がったバリは少し笑みを柔らかくすると、ミリアの目をのぞきこんだ。
「ミリア。まだ一緒にいたいけど、そろそろ失礼するわね」
「バリ……行っちゃうの」
「またすぐ会えるわ。次は上着を編んできましょうね」
「上着?」
「ジャックの羊たちの毛糸はそれは着心地がいいのよ」
「未の毛糸?」
「祝祭を終えた羊達の毛糸よ。それでも魔術の織りは他の羊たちとは比べ物にならないくらい精緻なのよ」
じゃあ、楽しみにしていてね、とバリはまた風の隙間に消えていった。
「商隊には代表者だけって伝えておく」
「ああ。初心者にゃ満月の少し前がいいだろ。問題起こすようなら追い払えよ」
「分かってるさ。いつも通り選別するまでだ」
「頼んだ」
「粉屋さん、ばいばい」
「おう、またな」
風が吹き上げ、草が波うつ。ロブストを見送り、放牧を終えるまでジャックは腕を緩めなかった。
「そろそろおろすか?」
「……もう少しだけ」
腕は痺れてきたが、あたたかい。ジャックは勘付かれないよう、息を静かに吐き出して抱き直した。体幹の鍛え方が足りてない。腹も腕も力を抜けば震えてしまう。鍛え直すべきことが多いようだ。震えそうな背筋に力を入れて密かに姿勢を正す。
結局日没に書庫の鍵を開けるまで、ミリアはジャックの首につかまっていた。
沈みかけの二日月が、静かに辺りを照らしていた。




