黒の森と金線の小川のほとり
『ねえ、なんで帰りたくないの。山が嫌いになった?』
とても小さくて、切実な子の声だった。あたしはうずくまっていた。今は夜。まだ目をさます時間じゃない。幼子を宥めて、もう少し微睡みたい。だから、静かに言葉をこぼした。眠くて仕方ない。動かない頭を無理に動かす。
「帰りたいに、決まってるじゃない」
『本当?』
「山はあたしの生きる意味。変わるようなものじゃない」
『じゃあ、なんで』
「今のままじゃ、また傷つけてしまう。成果がないもの。書庫すら。だから、まだ帰れない」
『でも、だって。さびしいじゃない。爺の声も、蒼天さまもいない世界に耐えられない』
「そう? 時折、爺の声が聞こえる時もあるし、知らない魔術をみれば、師匠へのお土産話になるか、気になってる。爺はあたしのなかにいる。師匠はあたしを待っていてくれてる」
『そう……ねぇ、あの人は本当にまだ待っているかな? こんな、鉱脈も岩も朽ち、木も空の色も変わる――万年が経っても、状況が変わらないなんてある?』
脳裏に現れた主不在の山が、みるみる朽ちていく。木々は枯れ、岩は削られ、山全体が小さくなる。風は土砂を巻き上げては、どこか遠くへ運んでいく。気づけばかつての山はただ高台になり、山脈の一峰ですらなくなっていた。時が経つのを止めることはできない。あれこれ支援して代行してくださる師匠にだって。蒼天さまは高台を見て小さくため息を吐くと、中央の頂きへと帰ってしまい、二度とそちらを見ることはなかった。
反射的に目をひらき、臨戦態勢をとる。途端に高台も蒼天山脈も消え、静かな暗闇だけが残った。ここはどこだろう。目を開けたはずなのに、映るものはない。僅かな光の反射すらない。曇りの夜だってもう少し映すのに。
耳を澄ましてみると、流れゆく水、葉擦れの音がかすかにする。だが、視界は塗り潰したような黒。なにも見えない。思わず指先で目尻に触れるけどちゃんとまぶたは開閉していた。じゃあ、目が見えなくなってしまったのだろうか。
ふと一点を見つめていると、ひらり、金色の線が表れては消えた。
最初見えたものがなんなのか、分からなかった。だけど、更に目を凝らすうちに、あちこちを走る金色の線に気づいた。まるで一瞬、夜の光を反射して、輪郭だけを縁取ったみたい。真っ黒な炭の奥で呼吸する火の気配にも似ている。けど、何故だろう。それより身近で遥か遠く、温度がない。
慣れてくると、深い森の小川の前にいるのが分かった。下草すら上部が輪郭を映すだけで、姿は見えない。ただ、さくさくと踏む感触と葉の青いにおいだけが、間違いなくここにある、と主張していた。草も木も川も色を持たず、視界は時折走る金の輪郭だけ。それは自分の身体すら、そうだった。よく見ると、反射は一方向から当たっているみたい。だけど上流を見ても、光源らしきものは、見えない。
辺りを見回す。誰もいない。未や羊飼いも。当たり前だけど、さっきの夢の幼子すら。上流も下流も何も見えない。耳を澄ませていると、小さな音が上流から聞こえてくる。光源の方向だ。
このままここにいても、仕方ない。とりあえず、時折かすめる輪郭を頼りに、ゆっくりと上流に向かう。
進みながら小川を眺めた。水のようだけど、あたしが司る山の水より魔術が澄んでいる。水底には金線で小石や小魚、豊かな水草が優雅に揺れていた。争いや不和の気配はなく、皆静かで眠っているようにゆっくりで、穏やかだった。
小さな音はしばらく歩くと、滝にかわった。落ちては砕ける流れは、水音と微妙に違う。聴き慣れない音に首を傾げながら、進む。旅の合間に見た、人間の使う楽器の音に似ているかもしれない。
滝は思ったより、ずっと大きく、壮大だった。遥か彼方から落ちてはぶつかり、川に戻る。その飛沫を見ていると、見知らぬことが頭に浮かんだ。人間が使う火口の魔術の危険な使い方、飛ぶ鳥の羽根に秘された魔術構造。
ああ――ここは知識の川。『智』すら知らない学の流れ。
「誰だい?」
突然の声に飛び上がって、後退る。よくよくみると、滝の手前の大岩に腰掛ける、ひときわ暗い人影があった。高くも低くもない、不思議と馴染む声は、穏やかに、だけど有無を言わせない鋭さを帯びていた。
「ここは立ち入り禁止の禁書庫だよ。……おや?」
胸の奥で新月だ、と叫ぶ声がした。確かに、夜空に浮かぶ月と姿形は違っても、その魔術は静かに見慣れ、あまねく降りそそいできたもの。
だけど、どこか懐かしいのに、恐ろしい。手足は勝手に震え、心臓は早鐘を打つ。
――敵わない。駄目だ、ここにいては。
頬が風をきる。ひょうひょうと鳴く空気を追い越しながら、気づけばあたしは走っていた。真っ暗でなにもないなか、ただ息咳きって、かけていく。響くのは、あたしの呼吸だけ。
何故こんな必死になっているのか、分からない。ただ、衝動があった。新月と思ったあれが、怖かった。だから一刻も早く遠くに逃げなければ。
前方からにおいがした。胸のなかが甘くなりそうな、懐かしい爽やかなかおり。この先にあるものが欲しいのだ、と誰かが叫んだ。できる限り、最速でそこへ向かう。羽をひとうちして飛びあがれば、ひたすら飛ぶことに集中する。全力全身で。光を見つければ、あとは早い。
だが、いくらも行かないうちに、何かに跳ね返されて、地に叩きつけられる。壁だ。壁に沿って、左右に走り、上を飛ぶが、どこまでも阻む壁がなくなることはなかった。ここまでしか行けないのか。そのずっと奥に懐かしい姿を見る。
蒼天山脈。あたしの山の隣山。その頂きで髪を風になびかせ、遠くを見張る師匠は、そっと懐を撫でおろした。
蒼天さま。あたしの住処。たとえ嫌われものの暴れ竜でも、ただひとつ、あたしが生きたいと思った場所。壁越しに指先で触れる。
『帰りたい、気持ちがない訳じゃないんだよね』
背後からさっきの幼子の声がする。振り返っても誰もいない。
「まだ帰るわけにはいかない」
『そうだね。目的を果たしていないものね?』
嬉しそうな声は明るく問いかける。
『だけど、その目的が必要なかったら?』
「どういう意味?」
『ここに呼べばいい。そうすれば、蒼天さまも山も、あたしから離れていくことはない』
「ここに呼ぶって……どこだか分かってるの?」
『もちろん。新月の禁書庫だ。ここなら、穿孔の魔術も動けない。穿孔したはずなのに、あたしがここにいるのがいい証拠でしょ』
「は? ありえない。山は山にあるべきなの」
『でも、寂しいよね? 本当は帰りたいんだよね? ああ、もういいや。なんだか面倒くさくなっちゃった。あたしが呼んであげる』
「やめて」
師匠の姿を目が捉える。
後ずさろうとして、何故か手を伸ばしていた。
思う通りに体が動かない。師匠に、山に、手を伸ばしたのは、あたしじゃない。自分でないものの感情が流れこむ。羨望。渇望。下心。師匠、お願い。あたしに気づいて。帰りたい。山にかえりたい。――そしてあたしのなかに収めるのだ。皆一緒にいれば、寂しくない。もうひとりは、嫌だ。
冗談じゃない。そんなことをするために、山を離れた訳じゃない。だけど、いかにもがき足掻いても、身体の制御を取り戻せない。
伸べた指先から閃光。外側に螺旋状の旋光をまとってまっすぐ光は壁を貫き、あちらへ降り注ぐ。あちらとこちらの間には、幾つも壁があったようだ。穿孔の魔術は壁を抜けるたび分裂していき、小さいけれど、無数の矢となってふりそそいだ。
『師匠……!』
聞こえた訳ではないだろうに、師匠はきっとこちらを睨むと、片手で結界をはった。表面が虹色に反射する。ほとんどの閃光は無効化したが、ひとつだけ、師匠の懐をかすめて山に穴をあけた。
険しい視線に身がすくんだ。だけど、あたしの身体は止まらない。山の穴が空いた分の魔術があたしのなかにかえる。少し力増したあたしはにい、と笑って更に穿孔の魔術を練り上げる。嫌だ。必死で身体を動かそうと足掻くが、動かない。
「――こら。おいたは、おしまいだよ」
ふとあたしの目を覆う冷たい手があった。魔術を練るあたしの腕を優しく取り上げ、拘束する。
「だれ」
「書庫の持ち主さ。あーあ、あちらに穴まであけちゃって、まあ」
身体から余分な魔術が抜ける。不意に拘束が外れて、前につんのめる。振り返ると、幼子を拘束する、うっすらと明るいものがいた。
「書庫?」
「そうさ。こいつが穴をあけたせいで、せっかくの休暇が台無しだ。責任をとってもらおうか」




