穿孔の魔術と懐の卵石
蒼天山脈の主は、小さな背中をじっと見送った。
風が稜線を吹き下ろす。
――あの時と、同じだ。
*
曇天を裂く穴が山肌めがけ、口を開けていた。狭間から、虚ろな呼び声が落ちる。怒りにも泣き声にも似た、重い湿り気をはらんで。
それも、当然か。
足元のぬかるみが赤い。穿孔を生んだ親の痕は、ゆっくりと沢を流れていく。煩わしい処理を終えたばかりだった。身体は重く、息が浅い。
隣で鉱石精は筋力のみで、鈍色に輝く大剣を地に突き立てた。そのまま懐から酒瓶を出すと、鍛造したような立派な体躯に豪快に流し込んだ。喉が大きく鳴っていた。
口端を拭うと、そのまま金属の擦れたような声を朗々と響かせる。
『馬鹿弟子。あとを、頼む』
師匠の視線は己の領地を荒らす穿孔を、鋭く見据えていた。そ知らぬ顔した風が、結い上げた長い赤銅の髪をあおった。
未熟だった満身創痍の蒼天は、ただ立ちつくしていた。
『断る。わしは山脈を預かる身だ。――ここだけ、特別扱いはできん』
風が言の端をさらった。落ち葉は穴へ吸い込まれていく。
穿孔。忌まわしい名が、蒼天の脳裏に重くのしかかる。愚か者が研究の果てに、穿孔という新しい魔術を作り上げた。
穴をあける。ただ、それだけの単純な構造。その無駄のない強度は、魔術の律すら貫いてみせた。魔術師の思いのままに穴をうがつ。澱みを巡らせ、集めたものを流してしまう。良くも悪くも。
やがて、それは禁忌にまで穴をうがった。それは最も望まれ、最も疎まれる禁忌だった。命は逆流し、戻った。すべての音が一瞬、止まった。途端、生と死が互いを見つめ、罵りあった。
その障害は、すぐに収束した。世界を運航する一柱がすぐ駆けつけ、穴を塞いでいった。おかげで、被害は谷のみに留まった。蒼天と鉱石精はその被害の深刻さに、術者へ警告を発した。しかし愚か者は耳を貸さず、むしろ敵意が剥き出しだった。
仕方なく、わずかな隙を見て陣を割り、魔術の綴りを崩した。――通常であれば、事態はそれで収束するはずだった。だが次の瞬間、空気がねじれた。魔術は生き物のように、身をよじった。そのまま散ることなく、静かに割れ目から霧がたちのぼった。死臭をはらんだ風が、ざあ、と穿孔の周りを囲んだ。膨れあがる魔術は暴走し、山の上空を喰らう勢いで裂けた。
あちこち悲鳴や叫び声があがった。
あけて、呑みこむ。大小の穴が無造作に突如として生まれた。
音や声はすぐに呑まれて消えた。
嵐より賑やかで、火事よりも静かに。
穿孔は凍てつく山を、速やかに侵食しつつあった。
今までなかったものの止め方など、誰にもわからない。
ただ、おそらく――穴を閉じれば、穿孔も潰える。魔術の基本法則からも、そう推測できる。
内側に入って、穿孔と共に消滅するまで、閉じるしかない。
それだけは、術者が命を賭して阻んだ。それを証明するような光景だった。
浅い吐息が漏れた。仕方なかったとはいえ、頬に飛び散った熱は決して覚えていたいものではない。
風を吸い込んだ穴の端が、揺らいだ。
『俺が内から閉める。
――老兵はただ去るのみ、だったか。それにしちゃ、上出来な幕引きじゃねぇか』
『待て。まだ他の方法があるやも』
冷たい嵐みたいな大気が、泣き叫んだ。鉱石精が顔をしかめて、山の保護を厚くした。少しだけ、空気のうねりが和らいだ。
『探してるうちに穴に沈むぞ。時間がねぇ』
『だが』
風が強まった。大きな枝が舞い、石が弾かれ、吸い込まれていった。蒼天も山々の加護を張り直した。ふたたび風は弱まるが、焼石に水だ。穿孔は、山そのものに紐付く蒼天たちを、呑み込めはしない。そのかわりに、弱いものから削りとっていった。
目を閉じられなかった。風の向こうで枝葉が千切れ、舞い上がっては飲み込まれていった。
こんな時に限って、絵画みたいな光景だ。その鮮やかさが、蒼天の心に勝手に刻み込まれた。
『ほかに手がないなら、まずはやってみるしかないだろ?』
『しかし、これは取り返しがつかない』
その言葉の隣で、轟音が響き渡った。大樹が根元から折れた。凍てつく風に、さらわれていった。師を慕い、鉱脈の端を根で支えた一本が。
止めたかった。だが、それでは大本を断てない。山すべてを諦めることはできない。『主』は飾りじゃない。果たすべき、責務だ。
『なぁに、ヌシとしての責任だ。弟子のお前にもしもがあっちゃ、先代の蒼天様――お師匠様に、合わせる顔がねぇ』
こういう時に限って、分厚い背中がやけに遠く見えた。普段はただの、世話のかかる師匠なのに。
『胸を張れ。大丈夫だ。お前がいれば、俺は安心だ』
穿孔から目は離さない。かわりに一瞬だけ、こちらを見た。わずかに、笑った。
若き蒼天は、憮然とした。感じた熱は、あいつが懐の卵石に向ける眼差しの温度だと、気づいてしまったから。唸る風は二人の声を攫っていった。ただ、穿孔の咆哮だけが響いていた。
*
遥か昔、流れ星が落ちた。鉱泉湧く、師匠の寝所の谷沢に。変わり者の山の主は、己を砕きかけた隕石を面白がった。気まぐれに魔術を注ぎ、それを卵石へと変えた。
それから千年。
途方もない年月、懐に忍ばせた卵石へ、声をそそぎつづけた。ことあるごとに語りかけ、どこへだって連れて行った。時に親鳥、時に異種族の友として、心を育てた。
もうすぐ孵る、その間際。あいつが待かねた孵化まであと少し。そのいちばんの望みを手放して、穴を閉じるというのか。
――そんなこと、許してたまるか。だが、他に手はない。
大気が唸り、叫んだ。雲を巻き込み、空が縞模様に渦巻いていた。光と濃い影が交互にはしり、師匠の表情が一瞬ごとに滲んでいった。
『なんだってやってみろ。結果が分かるのは、どうせ終わってからだ』
『……馬鹿師匠』
掠れた声に、師は弟子の背中を叩いた。
『しゃっきりしろ、蒼天山脈の主サマ。俺にはもう、将来有望な後継ぎがいる』
師匠は自慢げに懐から卵石を取りだした。その石は柔らかく、かすかな光を宿しており、まもなく満ちそうだ。
目じりにわずかに皺がよった。青銅色の眼差しに熱が灯り、眉が自然に跳ねあがり、口元は緩やかに上を向いた。
普段の厳しい表情からは想像できないほどの変化だ。春風を待ち望む、やわらかな目をしていた。
彼は孵るのをなにより待ち望んでいた。まるで長い冬を越えた新芽が芽吹く時を待ち望むように。静かに、でも確かに。
『ん? 不安なのか。なぁに、大丈夫だ。お前さんなら、できる』
鋼のような巨躯から、そんな柔らかい声が出るとは、知らなかった。緊迫が張り詰めた空気の中、ふと漂うその温かさに、周囲の重苦しさが一瞬だけ解けた。
『蒼天さまが、ついてるからな。何かあったら頼るといい。生きるってのはな――始めるまでが長ぇ。けど、いったん歩き出しゃ、案外どうにかなる。まぁ。ぼちぼちやればいい、さ』
『っ! ……やめろよ、馬鹿師匠。わしはあずからんぞ』
卵に語りかけた鉱石精は、ためらいもなく弟子に差し出した。
『まあ、そう言わずに、触ってみろ』
そうやって掴まれた手に、無理矢理持たされた。この場には不釣り合いな、あたたかさ。卵はほのかに温かな光を放っていた。下手に触れれば、すぐ粉々にしてしまいそうで。守ってやらねば、すぐ消えてしまうだろう。
あの隕石がこんな卵になるなんて、当時は思わなかった。
*
夏の暑い日だった。夜更け前に落ちた流れ星は、沢の真ん中で澱んだ魔術を纏っていた。蒼天は大きな影響がないか、現地を視察していた。
『全部嫌いだ……』
それきり黙りこくった星に、蒼天は呪いを振りまく祟りものとして摘みとるつもりだった。
『まぁ、待て』
山の主は、崖の突起に腰を下ろしていた。鏡月を水面越しに撫で、とん、と弾いた。
『待てば、こいつの嘆きも深くなるばかりだろう』
魔術圧で潰すべく構えた蒼天は、山の主の言葉に首を傾げた。抑えきれない圧力で、指先でかすかにたわんだ。鉱石精は少し楽しそうに、大きな隕石を見あげた。
『確かに今は澱んだ魔術に沈んでいるな』
『なにか気になる点があったか』
『……もったいないな、と思ってな』
『もったいない?』
一瞬、沈黙が支配する。風も静まった。
『なぁ、こいつは俺のもんだろ? 山の主である俺の寝所に落ちてきたんだ。処断する権利は俺にある。違うか?』
『確かに……この山の領域に落ちた。
だが、山脈全体に悪影響を及ぼすなら、わしの管轄になる』
『そうはさせん』
遠くで鳥が羽ばたく音がした。あまり断定しない師匠の言葉に、蒼天は眉をあげた。
『言い切れるのか』
『ああ、山の主として約束する。
こいつは俺の玩具になってもらう。蒼天山脈全体を呪わせない』
『しかし……』
『まぁ、黙って見てろ。もしお前が駄目だと判断したなら、好きにするといい』
きっぱりと言い切ると、師匠は寝床で鎮座する星へ、静かに声を落とした。
『さて、流れ星。お前さんの嘆きは分かったが、やったことの責任はとらないとな』
星は思索に耽ったままで、返事はない。その様子を気にすることなく、山の主は言葉を続けた。
『なに、悪いようにはしない。ただ……自分を変えてみたくはないか』
撫でられた星は驚いたように、声をあげた。
『……変える?』
『そうだ。変われるかどうかは、自分次第だが、その手助けはしてやれる』
『どれだけ変わったところで……。燃えかすは燃えかす』
『まあ……な。だが、ここから動けずに、ずっと悔やむより、違う形を得て、今度こそ、上手く行く為に努力する方がいいんじゃないか?』
『今度こそ……何度やっても同じだよ』
『もちろん、何回やっても駄目なこともある。……だが、今の話はそれとはまた別だ。
正直、今のお前さんにあまり選択肢はない』
不吉な発言に、星は思わず反応した。空気が重く、冷えた風に感じるのは、山の主が圧を強めたからか。
『え……なんの話?』
『お前さんはこの山の主の寝所を壊したんだ。俺の損害を弁償する義務がある』
木々がざわめき、風が通り抜けた。ニヤリと笑い、鉱石精は言葉を紡いだ。
『弁償方法はふたつある。どちらか、選べ。
俺はどちらでも構わない。……どうせ、独りじゃなくなるからな』
星が息を呑むわけないが、まるでそんな沈黙だった。温い鉱泉の匂いが、ほのかに漂った。ふと蒼天は先日山の奥で、新しい泉がひとつ湧いたのを思い出した。
『ひとつ、魔術に還るまで、ここでこうして後悔に暮れる。その代わりに俺の運動不足に付き合って、長いこと痛い目に合ってもらう』
『……運動不足……?』
『壊し甲斐のある岩石は、いくらあっても困らないからな。いい遊び相手に飢えてんだ』
厳つい顔の端が、かすかに緩んだ。星が震えている。魔術が不安定なせいか。
『ふたつ、俺の後継ぎ――山の主の卵石になる』
『卵石?』
『そうだ。見たところ、お前さんの保有する魔術量は中々のものだ。
土地の魔術にきちんと馴染めば、ここの皆を守るのに最適だろう』
『守る――あたしが?』
星の光が、ほんの少しだけ柔らかくなった。まるで、信じられない言葉をきいたみたいに。
『ああ。俺がこの山の魔術をお前に吹き込んでやろう。ありったけな。卵から孵れば、山の主になる。その力で山を守れ。ただし、卵石になるのは、生まれ直しと同等だ。今のお前はここで終わる。それに、卵石は繊細だ。星と違って簡単に砕けてしまう』
『自分は自分を手放してしまいたい。だから、ここで終わるのは構わない。だけど……ねぇ、誰かの隣にいられる?』
蒼天は星の言葉に息を呑んだ。天の星が隣に誰かを欲しがるなんて、思いもしなかった。
『そうだな。俺は卵石のお前を全力で守る。その代わり、俺が居なくなった後の山を守って欲しい。
――俺が魔術に還るまで、傍にいてくれないか』
そして、師匠もそう思っているとは。『主』は司るものに、すべてを捧げる存在。誰かを望む、そんなことが、許されるのか?
『一緒にいてくれるの? なら、なる』
『よし、じゃあまずはゆっくり休め』
場は、穏やかな熱に満たされた。心地良い温度が、蒼天の胸に確かに刻みこまれた。
鉱石精は眠らせる魔術『羊の夢』をかけ、星を溶かした。そのまま小さな卵石に作りかえると、山の息吹を吹き込んだ。
主とはその魔術が凝り、派生する。卵石はそれを意図的に行う術だ。厄介なのは、孵化するまで懐に抱いていなければならないこと。卵石の強度は朝霞並みに繊細。魔術が不安定なせいだ。
だから、荒仕事が難しくなる。
しかし、それを誰か任せられるなら、これ以上はない、幸せな作業だ。
なにしろ、ひたすら司るものに寄り添ってきた主が、『自分にだけ寄り添ってくれるもの』と過ごすのだ。
終わりに相応しい華やかな蜜月といえるだろう。
『……卵石? また可能性の低いことを』
これは憧れでも嫉妬でもない。山脈の主としての確認だ。
『やり直しのできることなど、奇跡だ。これくらいの危険は渡らねばなるまいよ』
そう言って、鉱石精は大事そうに懐に仕舞い込んだ。
*
あの時は、堕ちた嘆きに満ちていたのに、清らかな源泉に変わっていた。師匠の卵石は手の温度に、微睡むように光をかえした。
『……あたたかい』
『だろ? 俺はこいつの為に出来るなら、なんだってやってやりたいのさ』
鉱石精のくせに、無垢な笑顔。思わず息が漏れた。
『……ならば、余計に』
蒼天の言葉を師匠は柔らかく制した。
『焦んな、馬鹿弟子。ここで穿孔に対処できるのは、俺かお前だけ。互いの役割を途絶えさせる訳にはいかねぇ。そして、俺にはこんなかわいい後継者がいる。だが、お前には居ねぇ――それが全部だ』
『っ、そんな』
『かわいいだろ。これは俺の卵石だ。やらんぞ――託すだけだ。山脈にはこの山も含まれる。……後少しだから、お前の魔術でも孵化するだろ』
軽い口調だが、うわずっていた。
今の蒼天なら、理解できる。己の卵石を誰かに預けるなど、想像すらしたくない。ましてや、孵化を託すなど。
『……師匠』
『なんだ? 悔しかったら、お前も育ててみろ』
『そうじゃない。こいつが夢みているのは――』
『ああ、そうだな。俺もひと目みたかったさ。たとえ、それが俺の終焉だとしても。だけど、現実は厳しい』
主は同時に、並び立たない。卵石が孵るとき、前の主は魔術に還る。それが継承の掟だ。けれど、満ちた卵石を眠らせておけば、前任が消えたその瞬間、次を孵すことができる。その衝撃と派生の奔流で、大抵の難は越えられる。
そうして生まれた主は、必ず強くなる。世界はそのように、律令されていた。
がらり、大岩が転がり、根張りの甘い木が穴に呑まれた。
『きっとこいつは、大丈夫だ。今は、俺が対処できる。だが……万が一がある。山と山脈、優先順位は明確だ。お前にしか、頼めねぇ。……なぁ、頼んで、いいか』
一瞬、息が詰まった。蒼天は拒みたかった。けれど、あの目を見た瞬間、諦めた。
『…………分かった』
本当は自分がいちばん、卵に頼られたかったくせに。その言葉を呑み込んで。
そうして何度も振り返る鉱石精は、境界の向こうへ消えた。穴の向こうが消えるまで、脈うつ振動だけが、ずっと響いていた。吹き渡る夜風に芯まで凍える。
懐の卵石を握りしめる。あたたかい。そのぬくもりだけを抱いて、生きた。
あれから数年が過ぎた。山はすっかり日常を取り戻し、事件の傷跡も薄れていった。蒼天はあの日から、何度眠れない夜を越えたか。
『まぁ。ぼちぼちやればいい、さ』
時折、あの声が耳を過ぎる。
それもだんだんと間隔があいてきた頃、不意に懐の卵石が、かすかに震えた。光が割れ、静かな音が生まれる。
また、春がきた。
*
あの一件で、穿孔は禁呪となった。
その影響で起きた二次災害は酷いものだった。蒼天は治める者として、残された者たちの側に立って対処した。
だから、あの時と同じ道は選べない。
そのかわり、今日まで万が一に備えて、穿孔の対処法を考え続けてきた。かつて、師が使った魔術を参考に。
残念ながら、時間が足りなかった。穿孔自体をどうにかする方法は、まだない。研究中の魔術に山の主をも含むことは、できなかった。
師を穿孔にとられた。弟子まで渡してなるものか。
蒼天山脈の主は、三日月形の山の前に立ち、懐から魔術札を取り出す。そのまま周囲に放ち、一帯を囲って発動させた。
山に穴があき、属性が夜に偏りつつあった。好都合だ。
傷ついた地を、霧と真夜中がふわりと抱き寄せる。それは、幼子を寝かしつける様子によく似ていた。
『宵羊の夢』
いつか師匠が使った術の、強化版魔術だ。これなら範囲内のすべてが、穏やかに静かに眠る。
蒼天は稼働が安定したのを確かめると、移し紙に落としこんだ。そのまま丁寧に畳み、懐に仕舞いこむ。己の卵石と一緒の隠しに。
これでこの懐に抱かれている限り、山本体は静かに眠りつづける。ここ以上に安全な場所を蒼天は知らない。
同じ空の下にいるはずの弟子を思う。帰ってこなくたっていい。
ただどうか、穿孔に呑まれず、幸多き道を歩め。
願いをのせて、風が吹き抜けた。




