山の主と蒼天の霹靂
――こぽん、こととん、とん
白い指先を順に動かし魔術を繰る。
地下奥深くから静かに水音が響いた。
無理やり崖壁に添えた角と額から振動が伝わる。
招かれた水はかすかに、少しずつ動いていた。
その水音で惹かれたように、脳裏を懐かしい声が過ぎた。
『まずやってみろ。結果が分かるのは、どうせ終わってからだ』
爺だ。卵だったあたしに、生きろと千年伝えた山の主。
だけど孵化前にいなくなった前任者。
久々の声に思わず弾んで、しゃらりと水鱗が鳴った。
もっと爺の声を聴きたい。
地下水脈から更に僅かな水を招く。
凍えかけた水をなだめながら、上へ、上へ。
こっ、ことと、とん――
『今日もいい卵肌だ。磨いたらもっとすべすべのべっぴんさんになったな。あん? 昨日の方が殻の調子が良かった? ……まあ、ぼちぼちやればいいさ』
「ちょっと、待――」
思わず目をひらいた。
つらら色、白波色の奥に深い青が隠れている。
らせん模様を描くあたし自慢の角越しに、苔むす滝が視界にはいった。
少し離れてうつむけば、静かな水面に己の影が落ちていた。
蛇に似た白の竜身には、周囲の色と光が映る。
背では水飛沫色のたてがみと翼膜が揺れていた。
揺れる水面の奥で水鏡色の目と合うと、ひとつ瞬いた。
まだ言葉を覚えきれていなかった。
でも賑やかな声は彼方へ去っていった。
思い返してももう届かない。
本来こういうのは卵殻の内に置いてくるものだ、と昔師匠は言っていた。
あたしは爺の声で生きると決めたのに……うまくいかない。
確かにそれ以外、あたしには何も残っていない。
今はただ記憶の彼方から、時折声が浮かび上がるだけ。
できればずっと耳奥にとどめておきたい。
なのに泡のように消えてしまう。
仕方がないから、自分の声でなぞって覚えなおす。
あとで語録にも書き留めなきゃ。
今日は運がいい。ふたつも収穫があった。
やっぱり鉱泉の音はいいきっかけになる。
――こととん
崖の壁の内側、さらに深い奥底。
通した水招きの流れを確認する。
長年かけて招いた水脈は岩のなか、目標の地上近くまで達していた。
あと少し。ここから先は、失敗できない。
一旦作業を切り上げ、詰めていた息をはく。
思い切り伸ばしたら、凝り固まった身体と鱗がぱきしゃりん、と音をたてた。
首をまわせば、いつもの景色がぐるりとおどる。
垂直な崖が三方をとり囲み、小さな虹がかかる谷沢。
緩やかな滝は幾筋も苔壁をすべりおち、澄んだ囁きをかえす。
浅い川床をそよぐ水草は、流れる清水をそそいでいく。
冷えた大気は透きとおり、かすかに甘くかおる。丁寧に吸い込めば、胸の奥まで澄みわたった。
この小さな水源地は、竜たるあたしの寝床。
なによりも大事な、たったひとつの居場所。
孵化したら出会うはずの鉱石精はいなかった。
だからせめてあたしのなかに残る爺の面影に会いたい。
西の崖で鉱水の滝を設えているのはその為だ。
鉱物まじりの水音がすれば、いいきっかけになる。
本当は隣で話す誰かが欲しい。
陽だまりの声と柔らかな会話をしたい。
あまりにも寂しくて埋めた種を背丈と同じになるまで育てた。
樫の木はそっと巻いて抱きしめた途端悲鳴をあげて折れた。
嵐すら共に過ごしたのに、カッシーは枯れてしまった。あたしのせいで。
それでも、あの十五年間は掛け替えのない思い出だ。
ふと、山の南側で魔術と縁が絡んで歪んだ。
意識を向けると、霧影狼と栗角鹿が睨み合っている。
被らないはずのナワバリで争う理由は……ああ、木陰に潜んだいたずら猿が嗤っている。
放置しては山に良くない。
肺の奥まで深く吸い込み、竜の咆哮をあげる。
青と白の短角が共鳴し、音の魔術を増幅した。
声は瀑布の魔術に成り上がり、騒ぎを押し流す。
弾けるように気配は散った。
後には山の主が暴れた噂だけがひろがる。
それもいつものこと。
日没には皆飽きる。
今日もあたしは山を鎮める透明な重しになった。
それでも山は比較的平穏だ。
全部優秀な補佐役、雷角の颯影駒のおかげだ。
判断も対処も速い彼女と、暴力で束ね上げるあたしとの相性は最悪。
彼女の言葉は、叱責と指示と定時仕事納めでできている。当然だ。
以前お茶をと誘ったら、仕事上のお付き合いで十分と、やんわりお断りされた。
以来、細心の注意を払って仕事をこなしている。
負担をかける分、せめて彼女の中の自分の評価をこれ以上落としたくなかった。
ひとりなのは、呑みこむべきこと。
物事を力でばかり解決してるのだから。
頼みの師匠だって、あたしの失敗に呼び出され続け、もうずっと無表情だ。
だから迷惑かける誰かじゃなくて、もういない爺の声があたしには丁度いい。
不意に山頂からの柔らかな風が、頭を撫でていく。
途端に彼方から囁きが聞こえてきた。
『大丈夫だ。お前なら、できるさ』
そうだろうか。山の勢力図を思い起こし、眉間にしわがよる。
西の中腹の小石猿たちの諍いに、南東谷の幻晶樹の領土争い。
北峰じゃ巌樹守りのひび割れに、ふもとは人里が侵食してる。
あちこち焦げつく現状に、胸がひりついた。
……爺。本当に、ごめん。
*
賑やかな森の風が通りすぎていく。
痛みごと思い切り吸いこんで、複雑なにおいで胸が紛れた。
もうすぐ滝が完成する。あと、少し。
自慢の角と空の青みの白い尾で拍子を刻む。
そのまま苔むす滝の前に再度立った。
流れの隙間から、岩盤を爪先で軽くつかんで深呼吸する。
肺の動きに合わせ、胸奥から魔術が湧き上がる。
意識に一滴、汲みあげた。
それを身体の先へ送る。
胸から肩、肩から肘、肘から手首、指先へ。
最後に爪先から岩の奥へ、魔術を静かにじっくり染みこませる。
雲より淡く霧よりかすかな魔術は、じわじわと水脈を辿っていく。
流れは鉱物層のさらに奥、深水層の伏流から少しだけ拾う。
細かい分流を、毛一本ほど。
全体は変えない。あくまでほんの、ちょびっとだけ。
壁からはたはたと滴れば、それで十分だ。
鉱脈の端を通ったら、なにより硬い水になる。
この道のりなら崩れても大丈夫だ。
地下に眠る溶岩が自然に塞ぐ形になっているから。
招いた水流が目標点まで達したのを確認する。
詰めていた息が漏れ、肩の力が抜ける。
これでこの岩盤裏まで水が来た。
くしゅっ。
不意にくしゃみが飛び出した。
また山になにかあったかな。
竜は『世界を支える柱』。
生まれながらに名と力を持ち、領地領域を司り守る生き物。
違和感や身の異変はその前兆だ。
この山になにかあったらすぐわかる。
だけど今確認しても、異変の前兆どころか気配すらない。
ただ単に身体が不調なだけかもしれない。
早く作業を終わらせて休もう。
あとは出口を作って、完成だ。
深呼吸をひとつする。
周囲ににじんだ魔術の濃さをわずかにあげる。
身体を軽く揺らすと、ゆるやかに波紋が広がる。
揺れた魔術の表を軽くこそげとり、小さく爪先へまとめあげた。
頬の内の魔術陣に放りこむ。
稼働をはじめた陣は、小さくふぉん、と音を発した。
はじめて使う『穿孔』の魔術。
きっと綺麗に穴があくはずだ。
工作系魔術は、実行前の点検が大事。
角度夜明け一刻後、よし。出力、最小、よし。
瞬間、風が鎮まる。
滝も木々も黙りこみ、耳奥で鼓動だけが音を刻んだ。
発動……っきしッ!
魔術は急に止まれない。くしゃみも急に殺せない。
堪えて射角を守りぬく。
左右はよその山、下は山脈の大基盤。
狭くてもこの軌道は変えられない。
思わずまぶたを閉じていた。燃料が足りない。
体から魔術を強制的に持っていかれる。
視界がばちばちと明滅する。
意識が浮遊感に沈みかけた。
(ふふっ――)
幻聴までしてきた。
轟音。
共鳴して小刻みに震える角。
意に反して尾が地を打つ。
暴風が顔を叩く。
耳鳴りと振動が前から後ろへと、全身を駆け抜けていった。
気づけば風は途切れていた。
必死でやり過ごして、どれくらい経っただろう。
全身の震えはまだおさまらない。
顎が痛い。どこかぶつけたかな。
顔が異様に乾いてる。
――痛。まつげが張りついて、まぶたがあがらない。
顔を擦ろうと岩壁から手を離した。
持ってた突起がごとっと落ちた。一瞬固まる。
力加減を間違えたかな。
滝の出口にヒビ入ってないよね。
あ、駄目だ。手がざらざらする。
目のまわりを触ったら余計に悪化しそう。
こふっ。急に吸い込んだ空気が、粉っぽくなった。
鼻の奥まで痛くなる。空気が悪いのか、咳がとまらない。
涙が出てくる。
口元に浄化の魔術をまとうが、すぐには綺麗にならなかった。
不意にぼたり、と大きな雨粒が鼻先に落ちた。
と、突然の豪雨。
苔と泥のにおいがいっぺんに降ってきた。
慌てて全身に覆いをかけたけど、途切れる様子はない。随分と激しい。
まるで足元の水と水草が、全部上から落ちてくるような――
思ってすぐ背の鱗が逆立った。
羽が勝手にしょぼくれて、背中にぺたんと張りつく。
だって随分慣れた香りの雨……いや、まさか。
そんなわけないよね。
豪雨は止まない。
たかぶる心音もとまらない。
……まずい。
これ、たぶん、すごくまずい。
不意に大きな崩落音がした。
驚きで目に力が入り、ばりっとあいた。
目元の乾燥はゆるんだけど、まつげが抜けた。
まぶたが痛い。
なんだこれ。
痛みはふっとび、視界いっぱいの光景に凍りついた。
頭は真っ白で息が詰まる。
飛行中に自由落下をはじめた時のような浮遊感に溺れそう。
思わず尾で地を叩いて確認した。
硬く冷たい岩はぬめる泥ばかりだ。
寝床だったふかふかぬくい苔よ、どこいった。
荒れた呼吸と早鐘の心音のまま、もう一度足元を見る。
だっておかしいでしょ。
つま先より前が、ない。
水が逆流し、目前の暗い穴へと静かに落ちていく。
さっきの崩落音は、この縁の岩が崩れたせいか。
震える視線で下から上へ、穴の輪郭をたどる。
巨大なふちは空に向かって、弧を描く。
山頂の下、鋭い崖がこちらに深い影を落としている。
その裏は研いだ黒曜のなめらかさで、陽射しを淡く照りかえす。
断面には銀鉱脈が、流れ星の軌跡をえがいていた。
穴のふちはこんな惨状なのに、なかは鮮やかな晴天。
ひとつの山に、夜と昼が同居していた。
瞬きできない。怖い。なんでこんなに……美しいの。
山が、三日月になった。
*
土ぼこりが舞う。
くらくらした視界が落ち着き、忘れていた呼吸を取り戻す。
「あっつ?!」
突然口内が熱くなる。
激しすぎる痛覚に視野がまた明滅した。
慌てる間もなく、頬の陣から高温が噴きだす。
口で弾ける沸騰音に、香ばしいにおい。
身体の損傷回復は常時展開してる。
けれど、回復が間に合わなくて皮が剥けた。
治る端から火傷がすすむ。
おさまらない痛みに、強まる蒸発音。
山に入った人間がよく食べているにおいだ。
もう十分。訳率直に言って気が狂いそう。
咄嗟に山じゅうから万年雪を呼び集め、頭からつっこんだ。
頬裏が――冷えない。
あ、駄目だ。高温すぎて膜張っちゃってる。
無理矢理爪を口にねじこみ、膜を割る。
途端に賑やかな音がたつ。
痛みと雪が弾け、水蒸気に置き換わっていく。
呼吸のたびに陣に膜が張った。いちいち面倒くさい。
それでも魔術で冷やすよりよっぽど早い。
やっと落ち着いてきたのは、馬三頭分の万年雪の山、三つを溶かした後だった。
結局なにが原因だったのか。
まだ体内の熱と魔術は不安定だ。
だいぶ戻ったけど、魔術がまだ身に馴染みきってない。
まるでたった今増産したみたいだ。
くしゃみの瞬間の目眩を思い出す。分かった、陣に渡した量じゃ足りなかったんだ。
次の瞬間、体内の貯蓄が一瞬で空になったんだ。
それで不足した身体が、慌てて魔術を増産した。
この発熱はその副作用だろう。
いや、なんで足りないのよ。ちゃんと計算したのに。
陣の出力調整は二段階。最小か、最大か。
設定通り最小出力なら、こんな派手に魔術を消費しない。
口内の陣を舌で撫でる。
予想通り先ほどと変わっていた。
出力最大になっている。
あの狭い射角を死守して正解だった。
いや、くしゃみで失敗とか、最悪。
後悔と反省と混乱の果てに、いくつもの顔が脳裏に浮かんだ。
「そうだ、山の子らは」
大きく欠けた山に震える声が散った。
空に向かってあいた穴は、満たされた腹のように丸い。
補佐役の気配を探る。
普段使いの通信網は、糸が切れたように静まり返ったまま。
緊急用も音沙汰なし。
浮立つ胸を抑えて、探すけど見つからない。
彼女は定時終了にこだわる。
だからこそ時間内に業務から離れるなどありえない。
雲が足早に上空を走り去り、目の前が陰っていく。
すがりつく視線をよそに、不穏な風が吹き抜けた。
体の芯はすっと冷えて、尻尾が勝手に縮こまる。
駄目だ、こんなんじゃ。
鼻先はたいて、叱責する。
誰のせいだよ――あたしだよ!
風荒れるなか羽をひとうち、飛び上がる。
山の上は魔術が撹拌され、大気が乱れていた。
走りまわる雲に翻弄されながら、皆を探す。
すぐ視界に入るはずの森宿る種族たちが見えない。
木々は過ぎゆく風に、ただ葉を揺らすばかり。
街道沿いを彷徨う山惑いも、普段は高地や日陰で居眠りしている岩の精たちすら、いない。
探すどころか、違和感に戸惑うばかり。
何故か見るのも感じるのも、いつもと変わらないのに、みな知らない顔をしていた。
こんな景色知らない。
よく見れば、いつもとちょっと角度が違うだけなのに。
あの木々はあんな色じゃなかった。
山はそこを生きるものでできている。
なのにこんな違和感ばかりに目がつくのはなぜなのか。
耳が痛いほど、辺りは静かだ。
雪の日だってもっと音がする。
なんのにおいもしないのはどうして。
凍てた夜より鼻が効かない。
今はそれどころじゃないのに。
お願い。誰かの姿を見たい。
できたら無事なところを。
誰かの音を、気配を、感じたい。
どうして生き物のにおいすら、何もしないの。
にがい空気の塊を無理矢理呑みくだし、手をぎゅっと握って震えを収めた。しっかりしないと。
谷沢の寝床跡地に降りる。
この水が消えてしまうのも時間の問題だ。
残ったぬかるみには、動く影すらない。
鋭い崖は静かにこちらを見下ろしていた。
それだけで、胸奥が冷たくなる。
息が詰まった。
あたしをおいて、皆、どこへいってしまったの。
「誰か、いないの?」
迷子のようにか細い声は、目の前の穴にこだまして、凍えた場を露わにする。
断面で鉱脈がきらりと落ちた。
温度差に震えながら、目元をぬぐう。
息が苦しい。
吸っても、吸っても、楽にならない。
沈んでゆくあたしを置いて、世界は揺らぎ、遠く浮き上がっていく。
遠方からの風が、無音の稜線を三日月形になぞる。
軽やかに浮かぶ世界に、あたしの痕跡だけが散っていった。
もし師匠までいなかったら。
震えながら、手順通りに緊急連絡網を編み始める。
それより早く事態は動いた。
カン――!
遥か山脈の高みより空蹴る音がこだまする。
上司の先触れだ。
瞬きも終わらないうちに、蒼天さまが目の前に突きたつ。
「し、しょ――ごめんなさい」
「この――大馬鹿もの」
世界は魔術でできている。
かみなり声が張りつめた大気を真っ二つに割った。
辺りは凍りつき、普段は傍観を決めこむ雲すら裂けた身を抱えて逃げ出した。
あたしの体はぴっと震え、いつもの感覚が帰ってきた。
世界の重さも静かに戻る。
こっそり安堵の息がもれた。
「何故禁呪に手を出した。駄目だとあれほど言ったのに。『智』は相当の警告を出しただろう」
「き、禁呪? 警告……すみません、見つけられませんでした。『智』をみてもわからないんです。間の悪いくしゃみでした。もちろん、そのせいだけじゃないのは分かってます。だけど」
記憶を掘り返すあいだに遠くで雷がはねた。
反射的に肩がすくむ。
蒼天山脈の主はこの一帯を束ねつかさどる。
元は空雷の凝った精霊だったらしい。
心の揺れは魔術の乱れ。
そのせいか、山や空に心情が反映されやすかった。
だから普段は魔術の管理を徹底されている。
その師匠が扱いを誤るなんて珍しい。
山脈の主はゆっくり、深く息を吐いた。
「すまぬ、取り乱した。御主の『智』では、禁呪ではなかったと? ――確かにあの時卵石だった御主なら、評価なしの術式しか載らぬ、か。しかし使用する前に情報を集めなかったのか?」
顔に手を当てた蒼天さまが、古沼の底を見る眼差しを向ける。
視線の鋭さにあたしの背筋が自然と伸びた。
「すみません、その必要がわかりませんでした。研究が趣味の師匠なら当然かもしれません。でもその為の『智』じゃないですか」
「『智』の情報は孵化した時のものだ。実際の状況が変わり、正しくないこともある。それに、構造や弱点が気になるではないか」
気にならないあたしは、師匠の様子を確認する。
人に似たこの方の姿は、魔術研究にもってこいなのだそう。
だけど正直、あたしには話しづらい。
あたしの手のひらでおさまるくらい小さいのだ。
それに一定すぎる表情は、温度がみえなくて苦手だ。
山脈としての存在感はそのままだから、もう少し大きい姿でも問題ないんじゃないかな。
「知らないまま使うのは、恐ろしくないのか」
首を傾げた師匠の声は穏やかだ。
「普通は使えたら、なんでもいいみたいですね」
「……そうか」
表情を変えずに、声がわずかに小さくなった。
まつ毛が長い。
深緑の瞳に雷影が濃くおちていた。
師匠の細く白い顔立ちは山脈の印象そのものだ。
『蒼天山脈に気をつけろ。心あるものみな焦がれ、目を奪われて滑落する』
隣山の主から聞いた人間たちの焚火歌が不意に脳裏をよぎった。
彼女は彼の視線をうけるだけで鼓動が速くなると、声を蜜の甘さにして延々と語っていた。
今なら分かる気がする。
鼓動が速い。
息が浅くて胸の奥が熱くなった。
急に視線をどこに向けていいのか分からなくなる。
身の置き場を失って上半身が揺れた。
だめだ、調べず使ってごめんなさいと今すぐ喚きたい。
師匠から漏れる山脈の魔術にあてられていた。
我にかえってこらえた衝動を、深呼吸と一緒に呑みこむ。
今考えるべきは穿孔の魔術だ。
あの魔術が禁呪とは知らなかった。
それでも穴をあけたのは、あたしだ。
師匠はふと視線をあげ、ひとつ咳払いをして問いかけた。
「少なくとも説明を読めば、一筋縄ではいかないと分かっただろう?」
「完全に土木、工作系だとばかり思ってました」
「なるほど――」
ざわ、と突風が吹く。
風圧にかき消され、小さすぎる声はあたしまで届かない。
「では御主、今ならこの『穿孔』をどう見る」
「上位魔術として制約が必要でした。今後は初めて使う魔術の情報は不足してるものとして、師匠や詳しい方に話を伺ってから使います」
即座に返す。
師匠はあたしの目を見て、ひとつ頷いた。
「ふむ……まぁ良しとしよう。さて此度はどう収拾をつけるか」
*
ふと何かに気づいた様子で、蒼天さまがあたしを凝視した。
「な、なんですか?」
「そのまま、口を開けておけ」
肩越しに髪をなびかせ、こちらに迫る。
そのまま口を開きかけたあたしを制し、下顎に足をかけた。
鼻先をぐいと持ちあげて、口腔をのぞきこんだ。
「なに、を!」
長い胴がびたんびたんと暴れる。
だけどあたしは所詮個の山だ。
束ねる山脈に勝てるはずもない。
「陣は、そこか。また面倒くさいところに書いたな。まったく、御主はいつも勝手に、事を厄介にしよる」
「うぅ――ふみまへん」
蒼天さまから、ため息がこぼれた。
あたしの口内から、山深い清浄の香りがする。
足を踏み入れた師匠のにおいは、すがすがしいのにほんのり苦い。
風が空を渡った。だけど蒼天様に牙が当たりそうで、たてがみ一本も動かせない。
そもそも魔術陣なんて紙は風で飛ぶし、岩は消し忘れる。
ここなら必ず持ち歩けて、問題も入りにくい。
いらなくなったら、削れば解決。
それでいいはずだった。
「まずい。まだ終わってない」
鼻先を持ったまま、師匠は虚空より鏡を取り出した。
あたしの口腔内が映る。
頬裏の陣には、まだほのかに魔術が通っていた。
体内の流れの誤差になりそうなくらい、微かな灯り。
目を凝らして見なきゃ、動いているなんてわからない。
「うごいて、る?」
頬の裏でちらちらと不穏な光が揺れる。
ちゃんと終了の記述まで指定した。
だけど終わってない。
冗談でしょ。
完了しないものの終わらせ方なんて、知らない。
師匠は興味深そうに目を輝かせ、言葉をこぼした。
「珍しい。山を呑み込み、力を得たな」
蒼天山脈の主は手を離して、全身を洗浄した。
無事に顎が閉じて、あたしは胸を撫で下ろした。
……今朝ちゃんと歯磨きした、よね。
だから、そんなに臭くなかった、はず。
師匠はすぐまた思案に深く沈んだ。
にじむ魔術の圧が強まってそっと胸をおさえた。
この方のことだ。また無意識だろう。
身体に力を入れ、魅惑の魔術に抗った。
どこか遠くから木の葉のさざめきが響いていた。
待って。力を得たって――魔術が?
唐突に師匠の言葉に違和感を覚えた。
原則魔術で破壊されたものは、破壊したものに帰属する。
けど今回破壊したのは山の主だ。
あたしのものだから何も変わらないはずだ。
「師匠。力を得たって、魔術がですか?」
「そうだ。穿孔の魔術が自律をはじめた。終了記述で魔術が完了しなかったから、対象が取り込まれたのだ。ただ終わるには記述に格が足りなかったのだろう」
「格が足りない……?」
あたしの言葉に、師匠はこちらをちらりと見かえした。
「滅多に起こることではない。高密度高難度の割に、終了文言の価値の比重が足りない。そんなもの、普通は魔術陣として成立せん」
相当の例外らしい。
説明する声に呆れるような調子が混じる。
「だがこれは禁呪だ。それにしては終わりが軽すぎる」
「軽い」
頷く師匠の髪が風に揺れる。
「ああ。過重積載ならではの現象だ」
「かじゅうせきさい――実行魔術が重過ぎる?」
師匠の言葉は頭で噛み砕いても、難しい。
理解できているか自信がない。
「そんなところだ。無茶でも成立してしまえば、魔術は陣に繋がれつつも、自我を持ちはじめる」
「まさか」
『智』は知識の泉。『世界を支える柱』たる主が、頭の片隅に持って生まれてくるものだ。
陣の基本形はそこに記される。
そこに条件を追加して陣をつくる。
収納より仮構築用の図面手帳を取り出し、『智』から陣をかきおこした頁をめくる。
魔術を打ち消す手帳だ。
陣の記述確認に重宝してる。
「終いのここ。分かるか?」
「……これで完成ですよね」
条件も多いし、四行もあったら十分では。
師匠の目が鱗の隙間に突き刺さる。
声は低く地の底を這っていた。
「最後の記号。以前、資料は渡したが」
「ああ、あの巻き物ですね」
以前山の鉱脈の問題解決に失敗し、寸手のところで師匠に助けてもらった。
あの時の原因は記号の読み違いだった。
その失敗のおかげで、あの記号だけは身体に刻み込むように覚えた。
けれど、全部は無理だった。
使用頻度の低い記号は他にも沢山ある。
意味が細かすぎて、読み方が幾つもあるような類が山ほど。
そういう情報は『智』にも載りきらない。
正解はひとつじゃない。
複数の解釈があり、ひとつ違えば誤作動を起こす。
だから資料を頂いた。
あまり得意じゃない。
巻き物は読みたいところに中々辿りつかないのだ。
できたら製本の形が良かった。
「『比重の重い終了文言を、範囲指定付きで複数重ねること』。え? これでも足りないんですか」
「そうだ。過重積載の終了記述は、あまり省略出来ぬ。ゆえに、陣法内に階層を構築して記述する――」
強く吹いた風は熱を奪っていく。
比重が増えたら、総重量は増す。
つまり支払いの対価もかけ算で増える。
「ごほんっ……本題に戻ろう」
更に語りかけ、師匠は我に返って咳払いをした。
あたしはこっそりほっと息を吐いて、巻き物を虚空に放り込んだ。
「柱の『智』は、卵の内で熟して渡される。禁呪となれば、相応の扱いとなる。本来あるはずがないのだ。禁呪の綴りまで保持するなど……いや。この件、わしは気づいて然るべきか」
ため息をついた師匠は、視線の鉾先を穴に向けた。
その鋭さは問いを許さない。
「あの事件が起きたのは、卵石の御主の目の前。『智』が陣を写してもおかしくない状況だった……その可能性を見落としたわしの責も軽くない」
異常を観察して出た唸り声は、地鳴りに近い。
言葉の背後に、苛立ちが透けて見えた。
「穿孔は――穴の奥か。身を隠したようだ」
「身を隠した?」
師匠は黙って、あたしの首根っこをつかんだ。
そのまま、頂近くの崖上に飛びあがった。
全体を見渡す為の尖り岩の先へ降り立つ。
「よく見よ」
様変わりした山を見下ろす。
変わったのは景色だけじゃない。
ひとつ隣の層から見ているみたいに、すべてが遠い。
まさか。
隣にあったはずの馴染んだ鼓動が急に遠のいた。
胸の奥で今なにかが静かに千切れた。
それが縁だと理解するまで三呼吸かかった。
気付くなり、置かれた状況を魔術の視点で観察した。
「つながって、ない?」
あたしを縁づける糸が、音もなく途切れていた。
補佐役も、木々も、岩の精も。
結んだはずの縁が無残に千切れている。
山を構成するあらゆる存在との縁が、薄く途切れつつあった。
探しても見つけられず、気づくことができなかったのはそのせいか。
みんな山に居たけど認識するだけの縁が、残っていなかった。
もし分かっていたら――助かったものもいたかもしれない。
「耳は澄ませてみたか」
言われるがまま、眼を閉じる。
ふっ、ぷ、ぷち、はら――
無音と思った意識の奥で静かに糸の千切れる音がした。
山のものたちとの目に見えぬ縁の糸が、自重で途切れていく。
ちょうどあたしを中心に、円を描く。
――つまり、穿孔する形で。
「山と縁をえぐり落とした?」
言葉が口からこぼれた瞬間、凍りついた。
なにか音がしたら、それだけで粉々に砕けてしまいそう。
緊張感のなかで静まりかえった場は、いっそ穏やかだった。
主は司るものを凝らせ、魔術を生み出す。
でもそれじゃただ魔術は大気に漂うだけ。
人や獣をはじめとした生物が、魔術を取り込んで体内で撚り合わせ放出して、はじめて魔術が世界は巡るのだ。
なのに縁が切れた。
あたしの魔術は誰にも取り込まれず、世界を巡ることはなくなった。
巡らないものなど、どんなものでも過去になる。
山の主はただの力の大きい、はぐれものだ。
山もまた大地より突き出た、ただの大きな突起にすぎない。
「でも、なんで縁が」
「穿孔の魔術は、結果を先にうがつ」
騒ぐ風を抑え、声がうたう。
「けっかを、さきにうがつ――あ」
抑揚のない言葉に、思考が止まった。
胸の奥が冷えて沈む。
『智』に記載された、よく分からなかった一文の意味を、突然と理解した。
結果を先にうがつ。
対象に穴をあける未来から逆算し、現実を変える。
条件がなければ早いやり方をとるのが魔術だ。
つまり破壊する。
「あたしの水の魔術で穴があいたのかと思ってました。工作や土木系魔術じゃないんですね」
「そうだな。事象系魔術は概念や存在すら、対象になる」
「事象系――それにしては、消費が小さくないですか」
「上位魔術のなかでも禁忌の特徴だな。初回は魔術陣の稼働分。実費は後払いだ」
魔術は大体ふたつに分けられる。
対象にのみ力を発揮する下位魔術と、対象を足がかりに概念や存在、下手をすると世界法則にまで影響を滲ませる上位魔術。
上位魔術は大仰すぎる。
その上の禁忌なんてとても触れるべきものじゃない。
何が起きるかわからないし、責任がとれる気もしない。
領地なら下位魔術を重ねて使えば、大抵は再現できる。
まず事象系なんて使わない。
『智』に情報があっても、あたしには関係ないもの。
他人ごとでしかなかった。
「あ、後払い」
「とはいえ未完のせいか、通常とは言い難い動きをしているな」
師匠は吹く風に身をまかせながら、穴の奥の穿孔に透徹な眼差しをむける。
山脈そのものであるからこそ、あたしより見える階層が深い。
「興味深い。恒常稼働の一種としての振る舞いか。呑み込んだ際にそちらで精算したな」
風が師匠の髪を揺らし、わずかに目を細めた。
「全体を分析するには材料が少なすぎる。だが――おそらく下手をしたら御主、魔術に還っていたぞ。支払いがそれだけで済んだのは運がよかっただけだと思え」
『魔術に還る』――生物で言う死。
首の鱗が逆立ち、尾の先が冷たくなる。
稼働分だけで身が焦げたのだ。
実行された魔術の対価はこの身すべてで支払っても足りるとは思えない。
きっと近隣や師匠に迷惑をかけるところだった。
あたしは寝所に小さな滝が欲しかった。
木の実くらいの小さな穴をあけるだけ。
ただそれだけだったはずなのに。
「始点と作用点が、統べるものとその領地とはな。穿孔にとって、確実に手に入るいい餌だ」
あたしは魔術陣をもつ術者で対象は山。
魔術は失敗したら術者に戻り、成功すれば対象を呑み込む。
しかも山とあたしは主と本体。
根幹が同じであるからこそ最終的に同じ結果になる。
師匠の眼差しに興味がにじむ。
「こいつは既に隠れるだけの知性をもつ。最初に覚えたのは欲、か。このままならいずれどちらも飲みこもう。――この山と御主だけで終わるなら、それでも如何ようにも納められたのだが」
いいながら蒼天さまは視線の圧を強め、三日月形の山を睨みつける。
「御主と繋がっているとはいえ存在し続けるには魔術がいる。陣の頸木がなくなれば次の獲物を探して、辺りを呑み込み続けるだろう」
師匠は山の穴から目を離さない。
その瞳の奥に強い雷光が見えるのは気のせいだろうか。
「まさかそんな長続きするなんて」
「人間がそういって練り上げたおかげで『穿孔』は禁呪になった」
師匠は平らな声で告げると、眉間に皺を寄せて後ろを向いた。
すっと向けられた背中に断ち切られるものが見える気がした。
「ど、どうすれば」
「陣を消せば魔術は完全に独立する。万が一の手綱として残すべきだ。強いて言えば――今なら、御主の魔術が尽きればあるいは強制終了するか」
上司の背は揺らがない。
意識が思考に集中している。
「尽きたら――あたしが魔術に還りますよね?」
「まぁ、な」
吹き抜ける風のなかで呟く声がした。
彼の視線がわずかに揺らぐ。迷いを振り切るかのごとく。
「だからこそ次の策だ」
もう一度こちらを向いた時には師匠のなかでなにかが終わっていた。
風に揺れる木陰の下、瞳が複雑に色を変えていく。
切り出し磨いた深い色の緑柱石を傾けたような、静かな変化に息をのんだ。
「始点と作用点を切り離す。対象を見失えば、実行に足場を必要とする。少しは時間が稼げるはずだ」
「蒼天さま?」
空雷が微かに轟き、指先が冷えていく。
言葉の意味が呑み込めない。脳裏で警報が鳴っている。
なのに呼びかける以外なにもできない。
「御主を追放する。山の主の称号は剥奪、名も封印だ」
日が陰った。
静けさのなかで一瞬、躊躇った声だけが届く。
冷たい風は全身の熱を奪った。
抑揚のない言葉はいっそ優しく響いた。
あたしの中でなにかが音もなく勝手にほどけていく。
許されたように軽くて、一瞬勘違いしそうになる。
「嫌です!」
気づいたら叫んでいた。
勢いにどう、ひゅるりと空気が逃げた。
孵化する前は爺の声以外の記憶はない。
だけどずっとその言葉を胸に生きてきた。
爺代わりに名をくれた師匠が居たからここに居た。
他のところなんか知らない。
ここじゃない、爺や師匠の縁すらないどこかでなんて生きたいと思わない。
「ここは、あたしの……っ」
山を治める主のくせに吠え猛る。
正面切って怖がられるのが嫌でみんなの前に出られない臆病者。
それでもあたしにはここしかない。
読めない視線があたしを捉える。
「御主がいては守れん」
静かな声。
雷宿す瞳が揺れて陰った。
髪に目元が隠れる。
今の色、銀緑の髪は早春の山より鮮やかで。
「いや――この山の主は御主で、苦労をするのもまた、御主であるべきか。どうしてもこのまま、山と最後までありたいというのなら止めぬ。他に害が及ばない限り目を瞑ろう。だがわしにできるのはそこまでだ」
師匠はこの山脈を統べるもの。
災害の種を放置するなど許されない。
被害が出るまで目を瞑るなんてもっと駄目だ。
山脈の秩序を守るべき主に破らせる訳にはいかない。
ならばとるべき行動はひとつ。
胸の痛みを無視して苦い息を深く吸い込む。
あたしは爺の後任の山の主で、蒼天様の弟子。
誰よりも己を厳しく律してきたこの人にあたしのせいで掟を破らせるわけにはいかない。
「――師匠」
「なんだ」
声よ、震えるな。
「山をお願いできますか」
「他の山もある。絶対とは言い切れぬ。だが――善処しよう」
ここまで散々尻拭いをさせ、迷惑をかけてきた。
あたしはこれ以上この人に辛い思いをさせてはいけない。
「お願いします」
「分かった。いいか? あくまで、御主の代理だ」
突風の名残りがざわ、と通り過ぎる。
「出来るだけ遠くへいけ。離れるほど穿孔は大きな足場を必要とする。それだけの余裕があればこの地を束ねる主として、御主の持ち場くらい守りきれよう」
蒼天さまの吐き出した息が震えている気がした。
そんな顔、はじめて見た。
何か言おうとしたけど喉が動かない。
声に出せば胸の中で壊れてしまう。
「――御主まで、手が届かなくて、すまぬ」
微かに硬く冷たい声は張り詰めている。
なのにその言葉の奥に躊躇いがあった。
小さな声で隣を柔らかい熱がすり抜けていく。
あたしは返す言葉に詰まった。喉が固まって動かない。
胸の奥で何かが崩れた。失敗したのはあたしだ。
彼を知らない者が見てもきっと分からない。
声色でただあたしに別れを告げて、切り捨てた。
そう思うだろう。
だけど。
強張りと低くなりきれない声。
間、ためらい。届かぬ、と告げた音の刹那のゆらぎ。
ただ無情に切り捨てたのだとは思わない。
ここまで過ごした時間があたしにそう感じさせる。
「機は巡る――生きろ、ミリア」
「――はい」
師匠の言葉を胸に刻む。
爺の語録の横に声ごと大事に掲げた。
こんな何かがにじむ声。
師匠のそんな色、はじめてだ。
本当に?
魔術研究が絡まなきゃいつも無表情だったと思ってた。
気づかなかっただけかもしれない。
でもよく思い返せばかすかに確かな変化があった。
あの時も、あの時も。
そうだ。
蒼天山脈の天候は彼の胸のうちを表す。
だから感情出すわけにはいかなかった。
あたしはずっと彼の感情を見落としていた。
ならばせめてこの先は。
「フルミエさま」
返事はない。
代わりに穏やかな空気が満ちた。
「くれぐれも、この辺りを竜姿でうろつくな。術を刺激する」
少し間をおいてくしゃりと歪んだ顔。
言葉と裏腹に穏やかな声が土のかけらと一緒に遠くへ運ばれていった。
「知恵を使って、手掛かりを探すのだ――御主なら、できる」
絞りだした不恰好な笑みは、この人の精一杯の励まし。
だから言おうとしたことをうっかり忘れてしまった。
「知恵なんてあたしにあるわけないじゃないですか」
言うつもりはなかったのに。つい横を向いた。
ため息が聞こえて肩が強張る。
よそよそしく背中をすり抜ける大気が冷たい。
しばらくして目元にそっと温かさが添えられた。
師匠は宙に立ち、あたしと視線をあわせていた。
「腐るな――世界のどこかにはあらゆる知識を集めた書庫があるという。そこなら、あるいは」
迷いながらも告げられた言葉に、あたしは声をあげた。
「知識を集めた書庫」
「そうだ。なにか手掛かりが得られるかもしれん。御主だからこそ」
「え?」
声がひっくり返った。
『御主には無理だろうが』と言われるかと思ったのに。
つい言葉が口から飛び出した。
「なら情報を見つけたら、すぐ帰ってきて解決しますね?」
「さすがにそんなうまくはいかんだろう」
「そうですか?」
師匠の表情は揺れない。
励ましてるのか、事実だと思っているのか。
「まず書物を解読するのに、てこずる。それから記述言語を覚えだす。御主のことだ。見つけてもこれで合ってるか、長いことひとりで考え込む」
「っ、はい」
「そうだな、どんなに早くても、数百年はかかるだろう」
「あ、あはは、ですよね」
鋭すぎる言葉が心を抉るけど、いつもの厳しさに落ち着く。
「師匠――爺ならなんと言ったか」
穏やかな視線はあたたかい。
あたしが卵殻ごしにしか知らない先代の山の主は、蒼天様にとっては師匠で部下にあたる。
たまにこうして尋ねてくださり、懐かしげに目を細められる。
こんな時間がもっと欲しかった。
あたしが大事にするべきだったのはこういう時だった。
そよぐ風が胸うちの語録をめくる。
「『ほかに手がないなら、まずはやってみろ』ですかね」
まずはやってみなきゃ分からない。
目的は決まった。書庫を探す。
方法を見つけて、穿孔を止める。
守りたい。想いが形を得てやっと息ができた。
「そうだな。失敗してもいい。それぐらいならやれるだろう?」
柔らかい彼の声にひとつ頷いて覚悟を決める。
不意に焦げたような苦い匂いが通りすぎた。
山に刻まれた断面の鉱脈が底に流れ落ちてみえた。
「蠢きはじめたか」
穴の奥で不穏な気配が揺らいでいた。
分厚い層の彼方よりなにかがこちらを覗きこんでいる。
同時に胸の奥で何かが身動ぎした。
師匠の言うとおり穿孔はまだ消えていないようだ。
はやく離れなきゃ。
行こう。行ってから、また考えよう。
「くしゃみには気をつけるんだぞ」
「もうあんな失敗は、しません」
「どうだかな。……さぁ、いけ」
蒼天山脈の主は、それきり、口を閉ざした。
あたしはぎゅっと魔術を畳み、身を削ぎ落とした。
水の鱗がはらはら散る。
そのまま小さなヤマネに身をやつした。
「クルル」
深々と頭をさげる。
『まあ、ぼちぼちやればいい、さ』
違うよ、爺。今あるべき言葉はこれじゃない。
時をつかんだ風が向かうべき方角へと導く。
『まずやってみろ。結果が分かるのはどうせ終わってからだ』
稜線をなぞる声が脳内に響く。
ひとつ頷く。失敗した。
だけど山を守りたい。
それは変わってない。
今度こそ守るんだ。
ここは大丈夫。
頼もしい助っ人がいる。
書庫を探そう。
威厳なんて欠片もない。
しっぽを巻いて、全力で駆け出した。
走った分だけ故郷は遠ざかる。
風はただ静かに、あたしの背を押した。




