幽明境 一
あれから何度かエンカウントがあったが、特に苦戦することもなく、順調にダンジョンを攻略していった。道中では何も特別なことは起こらなかった。警戒していた阿閉による襲撃もなく、肩透かしを食らった気分だ。
何度かの休憩を挟みながら、R-mintは十九層に到達する。
ここまで来ても、十分に余力を残した状態で、紅羽も含め疲労しているメンバーはいなかった。休憩中もカメラの前で和やかに雑談する余裕もあり、配信としても上手くいっているのではないかと思う。
それでも二十層からは気を引き締めてかからなければならない。伊達に難関だと言われている階層ではないことは、これまで繰り返し行なってきたダンジョンハックで嫌というほどわかっている。
二十層はひときわ血亢状態を引き起こす芳香の濃度が高くて下手に立ち止まることができない。耐性がある人間でも空気を吸い過ぎれば錯乱状態を引き起こす。時間との勝負になるだろう。加えて、血に飢えた野生動物たちも多く屯しているので危険度も高い。
十九層での休憩が最後の息継ぎになるだろう。
「セツナ? どう?」危険はないか、と尋ねる。
「んー? 今んとこ、大丈夫そう。喜憂なんじゃない?」アサルトライフルのスコープを覗いて遠くの景色を見ているセツナが答えた。
「何もないのが一番いいんだけどね」
「もう、とっくに遠くの方に逃げてるんじゃない? ま、阿閉古谷じゃなくても狙われる理由はあるから、警戒はするけどさ」
「よろしく」
「おっけぇ」
セツナの側を後にして、最近仲がいい二人組に近寄る。木に寄りかかって、ムシャが紅羽に講釈を垂れていた。少し遠くからドローンのカメラがその様子を捉えているが、二人は気づいていないらしい。
「生態系におけるトップの肉食動物ってのは、実はその中でも一番立場が低い生き物なんだ」
「え? それって、逆なんじゃないですか? えーと、たしか、一番下に生産者がいて、それを食べる虫とか小動物とかがいて。その上に、肉食の動物がいるわけじゃないですか」紅羽はムシャの目の前で正座をしながら首を傾げていた。
中学生が小学生にものを教えているように見えて、微笑ましい絵面だった。この光景を壊すのは忍びないと思い、気づかれない位置で立ち止まって話を聞く。
「生態系のピラミッドを思い浮かべればすぐに気づくと思うけど、食物連鎖の下の階層にいる生き物ほど、豊富な食料やエネルギー源に恵まれているんだ。単純に生きる上では、カーストが低い者ほど食べることに困ることはない」
リラックスした姿勢でムシャは語る。アカデミックな会話を好むことはなんとなく察していたが、これまでは語る相手がいなかったのだろう。なんだかイキイキとしているように見えた。
「それは、そうかもしれませんけど……なんだか納得がいきません。だって捕食者は、その恵まれた彼らを食べて殺してしまえるわけでしょう? 生殺与奪の権利を持っているのは上にいる肉食動物たちです」
「人間に置き換えて考えてみればいい。食べるのに困らないということは財産を持っているということだ。肉食の動物は、狩りという重労働をしなければ命をつなぐことはできないが、草食動物たちはそうではない。どちらが恵まれているのかは明白だろ?」
紅羽は手に顎を乗せて考え込んでいる。
「立場が弱いというのは、生きやすさという観点での話ですか?」
「その通り。生きてる当事者からすれば、それが一番大事なことだ。明日をも知れぬ我が身の奴よりも、安定した未来のある奴の方が強い」
「でも、それは、食物連鎖のサイクルに入っている生物から見た話ですよね? そのサイクルからもう脱した人類からすれば、違う話なのでは?」
「これは比喩表現だが、人間は人間を食って生きている」
ムシャの言わんとしていることが、なんとなく伝わった。人間社会全体を生態系のピラミッドに例えたのだろう。
「貨幣制度とか、社会制度の発達によって、共食いの関係性はかなりマイルドになってるけど、本質的には変わりゃしない。あらゆるモノが金銭に換算されることになって、今じゃ価値の押し付け合い、押し売り、強要、洗脳と色々な手段でやりとりされている。食うか食われるほど単純じゃなくなったけど、弱肉強食の原理は変わっちゃいない」
「だとすれば、ますます納得できなくなりました。それなら、圧倒的に搾取する側が強くなるのではないですか? 生産者よりも、経営者が強い時代がずっと続いているじゃないですか」
「そう。歪なんだよ。だから荒廃を繰り返している。生物が生きる上でもっとも自然な形は、個人主義だ。人類は、組織になることで脆弱性を生んでいると言える」
「はあ……つまり何が言いたいんですか?」
「別に何も」
「あえ」
「なんでそんな話になってんの?」
話がひと段落したようなので声をかけてみた。
「あん? ああ。この森で一番厄介なモンスターは虎だろ。滅多に遭遇しないから、心配すんなって話になって、生態系の話になった」
「そんな頭が痛くなるような会話をしてて、休憩になる?」
「こんなのただの雑談だろ」
「ムシャの心配はしてないよ。紅羽に言ってる」
紅羽は眉間にシワを寄せて、まだ考え込んでいるようだった。
「あ、悪いな。適当に喋ってただけだから気にすんなよ。おれも明日には忘れてるだろうし」
「大丈夫です。あ、でも、ちょっと、歩いてこようかな……」
紅羽はよろよろとセツナの方へ歩いていった。セツナと一緒にいれば余計なことを考えなくて済むだろう。
「襲撃されるという前提で話すけど、ムシャならどこで狙ってくる?」
そんなに頭脳労働がしたいならもっと実用的な知見を見せて欲しい、と質問する。
「敵が一人だと仮定するなら、次の二十層」すでに想定していたのか、すぐに答えが返ってきた。
「集団だったら?」
「その可能性はねぇよ。敵が徒党を組んでるなら、黎明麗華」ちらりとドローンの方を見る。「さまが、対策を立てているだろう」
「なる」ほど。
「やけに拘ってんな。そんなに襲撃されるって確信があるのか?」
「実はそう」
「なんで?」
理屈ではなかった。勘でもない気がする。自分でもよくわからない。無意識のところで、警戒しろ、と叫んでいる自分がいるのだ。
「たぶんだけど、奇走老師のせいだと思う」
「ああ、話でしか聞かないけど、変数みたいな存在みたいだな。その奇走ってのは。不安になるのもわかる」
迷ったが、素直に相談することにした。
「強さってなんだと思う?」
「さあ? さっきも話してたけど、見方次第だろ、そんなもん」
「もし、奇走老師が襲ってきたら……わたしたちが束になっても勝てないと思う。それくらい絶望的な差があった」
おそらく、あの人は、生涯を己の研鑽のためだけに使ってきた人間だ。その熱意も、密度の濃さも、これまで見てきた人間の比ではない。
「おれの持論だが、狂気が理性を上回ることはねぇよ」首に下げていた鎖分銅を弄りながらムシャが言う。
「本当に?」
「ああ。だから、ミオが見たのが本当に狂気だったのか、って話になる。もしかしてだが、理性的に狂気を受け入れていたのだとしたら、おれたちに勝ち目はないのかもしれない。そういう手合いはカレッジでも見たけど、張り合ったり関わったりすると大抵ロクなことにはならない」
「がっつり関わってしまったんだけど」急に寒気がしてきた。
「それはご愁傷様」
そこでリストバンドが振動した。休憩時間が終わった合図だ。セツナと紅羽の方でも動き出す気配があった。
「ま、あんま心配すんなよ。保険はかけておいたからさ」
「保険?」
「ほら! ぐずぐずしてないで行くよー!」セツナが既に歩き出しながら声をかけてくる。わたしとムシャは慌ててその後を追いかけた。
◯
そこには、奇走老師に抱えられて渡った橋よりも、はるかに大きな橋がかかっていた。
「うわ! すげぇ! 途切れてる!」第二環境域の果てを見て高い声を出してセツナがはしゃぐ。
二十層を越えた先にある幽明境。わたしにとっては二度目の光景だが、他の3人には初めての光景だった。
本来であれば幽明境を渡った先には、安全に休むことができる宿泊施設がある。正規ルートであるこの大橋の先を進めば見えてくるはずだった。
奇走老師のたどったルートは表立ったものではなかったのだろう。なんとなく、あの老人が現れるような気がして周囲を警戒してしまう。
「とりあえず、ここでゴールか」ムシャの呟きが聞こえた。断崖には興味を示さず、リストバンドを気にしている。
「なに見てるの?」
「いや、別に」
紅羽とセツナは地べたに体を横にして、断崖の底を見ようとしていた。
「なにか隠してない?」ムシャの動きに不審なものを感じたので問い詰める。
「なにかって?」惚けるようにムシャは目を逸らした。
これは絶対に隠し事をしている目だ。
「ねぇ、なにを……」
「警戒して!」
突然、セツナの緊迫した声が聞こえた。見ると、混乱する紅羽を無理やり立ち上がらせている。
ムシャとの話を中断した。こうしてセツナが声を張り上げることは初めてではない。そしてそんな時は決まって、危険が近づいている時だった。
「方向は?」
「わからない! 全域よ! あたしは後ろに下がる! ……っ、死なないで!」
そう言い残してセツナは森の方向へ駆け出していった。
「死なないで? あいつがそんなこと、今までに言ったことがあったか?」驚いた表情でムシャが言う。
「紅羽! こっちに! 戦闘準備!」離れていた紅羽を呼び寄せる。
鉈を抜き、周囲に目を凝らす。セツナの余裕のなさから鑑みれば、今までにない脅威が近づいているようだった。
紅羽は状況が飲み込めないながらもハルバートを構える。ムシャは既に目を閉じて、周囲の空間を支配下に置く準備をしていた。
悪い予感が当たったらしい。
それが最悪の方ではないことを祈りながら、警戒を続ける。
「ひっ」紅羽から悲鳴らしき声が聞こえた。
彼女の見ている方向に目を凝らす。
何もない。いや、景色が、歪んで、
反射的に鉈で斬りつける。空を切るはずのその一太刀は、金属音を響かせて強かに弾かれた。
偽装が解かれる。
阿閉であってくれ、という祈りは、打ち砕かれた。
「あ」
「はははははははは!」
大笑する声が響く。
「3、いや4か? 全員、わしが食ろうてやろう。さあ! さあ! 剣を抜け! 我が名は奇走! 捨てられた民の怨嗟はまだここに残っておるぞ! 貴様ら地上の者どもに地獄を見せてやるわ!」
狂気を宿し、血走った目をした老人が目の前にいた紅羽に剣を向けた。




