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女子高生仮面 見参

 外観こそ築数十年は経とうと思われる古めかしさではあるが、美しい木材がふんだんに使われた内装は手入れが行き届き、歩んできた時間相応の、何とも言えない色艶を醸し出していた。それを更に上品に演出する間接照明の柔らかい光が、この喫茶店の流れる時間をゆったりとしたものにしている。


 壁際の奥まった席に、一組の男女が座っていた。

 女はティーカップを努めて静かに受け皿に置くと、口角に僅かに力を入れた。

 テーブルを挟んで対面している男は、これから女が口にすることを半ば確信しているのであろう。うつむき、手元にあるくしゃくしゃになったストローの殻を心許なくいじっていた。


「――別れましょ」


 思った通りであった。

 いつもとは違う、そこはかとない女のよそよそしさを、先程駅前で待ち合わせしたときから男は気づいていた。

 だが、予想が当たったからと言って納得のいくものではない。顔を上げると男は、「――僕の何がいけないんだ……僕は今まで真面目に、真剣に君と交際してきたつもりだ。もちろん裏切ったことだって無い……。どこが不満なんだ?」と、尋ねた。


 食い入るように、そして懇願するがごとく身を乗り出して聞いてくる男から視線を外すと、女は溜息をついてみせる。


「――真面目なところ」


「――え?」


「あ、別に真面目なのがだめって言ってるわけじゃないの。――ただ、あなたは真面目なだけじゃない」


「だって君も僕のそう言うところに惹かれたって――」


「一面しか見てなかったってこと。まさか真面目なだけとは思わなかった。――そう、そこは私にも責任があると思う」

 女は男が言い切るのを遮るようにして言った。


「責任って……」


「無駄な交際をさせてしまった責任。お互いもういい年なんだし、将来を意識しない交際は無駄でしかないじゃない。私が交際を受け入れた結果なんだから、私にも責任があるってこと」


「……」


 男も、将来のことは考えていた。

 今年で三十一歳になる身であり、そろそろ結婚を――目の前にいる恋人こそが――と胸を弾ませていたのである。


 女はすっと男の目を見つめると、「あなたの今後のために、教えといてあげる」と言った。

「あなたは真面目だし、正義感も人一倍。今時珍しいくらい、とても清い心を持ってるし、それは本当に素晴らしいことだと思う。――でも人はね、それだけじゃだめなの。ユーモアがないと。それがないと、ただのつまらない堅物でしかないの」


 男は返す言葉もなく、ただじっと、焦点の定まらない目で瞬きもせずに、その言葉を聞いていた。

 女は鞄を手に取ると、財布から千円札を出してテーブルに置き、コートを掴んで立ち上がった。


「言いたいのはそれだけ。三ヶ月の付き合いだったけど……うん、楽しくなかった」


 女はあえて正直に言った。

 ――楽しかった――世辞でもそう言うべきかとも思ったが、それで男にまだやり直せる希望を持たせるのも酷であると、そして未来の恋人と長続きするための参考になればと、判断したのだ。


「もう連絡してこないでね。おつりもいらないから」


 そう言うと、女は男の後ろを通ってドアへと足早に去る。

 ほのかな香りが、去りゆく女から届くわずかな風に乗り、男の頬を撫でて、消えて行った。


 ――そんなの、分かっているさ――


 男は心の中でそうつぶやく。

 いつもと同じ理由の、別れであった。

 この男とて、ユーモアのセンスを磨こうと努力をしてこなかったわけではない。過去の交際相手から同様の指摘をされてからは、チャンスとあらば面白いと思える――少なくとも男にとっては――発言をしてきた。だが、その結果得たものは冷たい場の空気と、白けた、刺すような視線のみであった。


 人には得手不得手がある。この男は実直にして誠実、そして学のある身ではあるが、人を和ませ、笑顔を与える才には全く恵まれなかったのである。



「くそ……」


 翌朝、通勤の途にある男は否応もなく昨日の出来事を思い出し、つい悪態をついてしまう。

 さすがに失恋のショックというものはそうそう慣れるものではないらしい。

 元交際相手を恨む気持ちも無いわけではないが、それよりも面白味のない己を再認識してしまい、自己嫌悪から来る怒りがつのる。


 男の名は永瀬祐介といい、創立百年以上を誇り毎年国立大学に多数の合格者を出す、いわゆるお嬢様学校である聖ルイ女子高等学校に、英語教諭として勤務していた。今年で九年目になり、辛いこともあれど、生徒たちと笑顔で向き合う充実した日々を送っている。


「先生、おはようございまーす」


 不意に声をかけられて、永瀬は振り向く。


「あ、ああ。おはよう」


担当クラスの生徒である宮村由香であった。


「あれ?」

 宮村は永瀬の前に来ると顔を下から覗き込み、「なんか、顔色良くないですよ?」と尋ねた。


「え? あ、いや、ちょっと風邪気味でね」


 本当は悔しさで眠れなかったことによる睡眠不足であったが、そんなこと、とても生徒に言えるわけがない。永瀬は取り繕うようにいささか早口になって言うと、咳込んで見せた。


「えー、大丈夫ですか? あまり無理しちゃだめですよ」


「ああ。ありがとう。――宮村さんはなんかご機嫌だね」


 いつも笑顔を絶やさない宮村ではあるが、今日はそれにも増して、今にもこぼれてしまいそうなほどである。


「え? 分かっちゃいますか?」


 照れくさそうに、顔を赤らめる。


「今日、彼氏と初デートなんですよー」


「そ、そうなんだ……」


「彼氏ちょーかっこいいんですよー。優しいしー」


 デートという言葉を聞いて永瀬の表情が一寸曇るが、宮村はそんなことには気づかず、止めどない彼氏自慢をしていった。


「それは良かったね」

 ――しまった――永瀬は自身の発した言葉が、つい素っ気ない言い方になってしまったのを感じるが、変わらぬ調子で「でしょ!? 先生もそう思いますよね!」と応える宮村を見てほっと胸をなで下ろした。


「それにしても、宮村さん今日は早いんだね。いつもはぎりぎり、遅刻も多いのに」


「眠れなかったんですよー。デートが楽しみすぎて!」


「そ、そうなんだ……」


「それでー、もうベッドに入っててもしょうがないんで、ご飯食べて出てきちゃいました」


 早く時間が過ぎて放課後になるのを楽しみにしているのであろうか、次第に早足になる宮村であった。


「あ、英語の宿題はちゃんとやったかな?」


 これ以上のろけ話を聞きたくなかった永瀬は、突として話題を変えた。それが功を奏したのであろう、宮村は「あ!」と声を出すと、驚いたような、そして懇願するような表情を永瀬に向ける。


「やって……ないんだね?」


「やりました! やったんですが、置いてきてしまいました!」


「本当は?」


 あまりにも古典的な言い訳に、永瀬はやれやれといった笑みを含めて尋ねる。


「――忘れました……」


 宮村はお世辞にも成績の良い生徒ではなく、遅刻もしょっちゅう、宿題もあまりやってこない生徒ではあるが、素直な性格を持ち合わせており、生徒のみならず教員からも評判の良い生徒であった。


「ホームルームまでまだ時間があるね。あ、今日は朝礼があるから……あと四十分! 頑張ればできるよ!」


「そ、そんなー! 先生お願い! 今日私を指さないで!」


 宮村は両手を合わせると、祈るように永瀬を見つめる。


「今日は……二十三日か。宮村さん、出席番号は何番だっけ?」


「――二十三番です……」


「よし、頑張ろう!」


 永瀬がとびきりの笑顔を見せて言うと、宮村は「えっと、ほら! 十月なので十番で行きましょうよ!」と両の手を大きく使ってアピールして言った。


「ダメです。例外は認めません」


「そんな~~」


 絶望の色をにじませて、がっくりとする。


「ほら! 早く教室行って始めた方がいいよ」


「はーい……」


 諦めが付いたのであろう、宮村は学校に向けて走り出すと、途中で振り返って「先生また後で!」と大きな声を出す。


「気をつけるんだよ!」


 宮村との会話で昨日の出来事を一寸忘れることができた永瀬ではあったが、宮村の背中が遠ざかるにつれ、次第にそれを思い出してしまい、大きなため息が、一つ漏れた。 



 校長の話は長く、そしてそれを聞く者が陰鬱とした表情を見せるのは、もはや学校に置ける伝統なのであろうか。

 今、大ホールで行われている朝礼でもご多分に漏れず、校長が延々と話し続けており、生徒達は下をうつむき、ある者は足で床に半円を描いたり、ある者は指を何となくいじり続けている。


「続いて学校生活に関してでございますが」


 しかしながら、永瀬はそんなお話をありがたく拝聴できる男であった。永瀬にとっては長年教育の現場を歩んできた先輩の言葉であり、これ以上なく大切な勉強でもある。


「最近下校時に制服を着たまま」


 だが――集中している時くらい嫌なことは忘れたいものではあるが、人間というものはそううまくはできていないらしい。いつもは心に染み入る校長の話は右から左へと抜けて行き、どうしても心にある黒いもやに神経が行ってしまい、思わず、唇を強くかみしめる。


「長いねー……」


 ふと、目の前に並んでいる生徒達の私語が耳に入って、永瀬は我に返った。


「そろそろまた品位とか言い出すんだよ。学費が高いだけの学校のくせにねー」


「いつも最後になるとこれだもんね」


 馴染みのある、校長の締めの言葉が始まっていた。


「――皆さんには聖ルイ女子高等学校の生徒としての自覚と品位を持ち、清く正しく、そして美しく日々を過ごして頂きたいと、願っております」


 ――いつもの校長の言葉――のはずであった。

 それが唐突に、心の中で何かと結びつくのを、永瀬は感じる。


――あなたは真面目だし、正義感も人一倍。今時珍しいくらいとても清い心を持ってる――


 昨日元交際相手から言われた言葉、そのものであった。今この場で言われたかのように鮮明に、そして力強く、耳元で響く。


 ――清く正しく美しいのが女子高生なのであれば……


「――僕も…………女子高生ということなのか……」



 永瀬は今日ほど集中力を保てない日はなかった。

 職員室で放心しているところを同僚に肩を叩かれ、気づけば始業時間を五分も過ぎてしまっていたり、授業では解答や解説の誤りをいくつも犯してしまい、教師としての自尊心をずたずたにするには十分な勤務であった。


「はー……」


 アパートに帰宅すると、スーパーで買った食材の入ったビニール袋と鞄とをテーブルに置き、床にどかりと座り込むと、ネクタイをゆるめてそのまま大きく寝転ぶ。

 ため息だけしか、出てこなかった。

 何でこんな事になってしまったのか、どこで間違ったのか、解答のない自己問答だけが頭を支配する。


 ぼんやりと蛍光灯を眺めていると、鞄に入っているスマートフォンがメールの着信を伝えた。

 しばしの間の後、ようやく永瀬はゆっくりと立ち上がると、めんどくさそうに鞄からスマートフォンを取り出した。


〈同窓会のご案内〉


 そんなタイトルのメールであった。

 差出人は大学時代の親友である岡崎であり、永瀬はほんの少し、顔を和ませる。


 永瀬はしばしメールを眺めると、電話をかけた。


『おす!』


 ほんの数回の呼び出しで、懐かしい声が耳に入ってきた。


「――もしもし、僕だけど」


『おう、久しぶりだな! メール読んでくれたか?』


「ああ、是非参加させてもらうよ」


『まじかー! 遠いからお前参加できるのか不安だったんだけどよ、まじ良かったぜ! あ、飛行機代は自腹だけどな!』


 電話の向こうから、学生時代には毎日のように聞いていた、豪快な笑い声が響いてくると、

 ――あの頃からやり直せたらな――


 一瞬、そんな叶いもしない願望が頭をよぎる。


『――んで、どうしたんだよ』


「え?」


『声聞きゃあ分かるんだよ。悩み事、あんだろ?』


 岡崎は、悪く言えばデリカシーに欠ける男であった。普通は言いにくいことでも、この男は何のためらいもなく口からぽんぽんと出てしまう。当然それを嫌がる者もいたが、それはむしろ岡崎の、友人への優しさから来るものだと言うことを永瀬は知っていた。


「――ああ……よく分かったな」


 何も変わっていない親友の心遣いに、永瀬はつい声を上ずらせてしまう。


『電話嫌いのお前がメールで返さないでわざわざ電話してくるわけねーしよ? 話してみろよ』


 一寸の沈黙が訪れた。永瀬は岡崎に相談をするかするまいか、それを迷っていた。おかしいことを口にすることは、永瀬自身が何より分かっていた。だが、それでも確認したいのだ。


 永瀬は決心し、つばを飲み込んだ。


「――岡崎……」


「おう」


やっと口を開いた永瀬の言葉に、今までにない重みと、そして永瀬が追い詰められているのを、岡崎は感じた。

 例えどのような滑稽な、少なくとも岡崎にとっては取るに足りない悩みであろうとも、決して冷やかしたりはすまいと、岡崎は自身に言い聞かせる。


「――僕は……」


 一言一言を確かめるように、ゆっくり声を出す。


「……女子高生なのか?」


『――何言ってんだお前』


 目に涙を溜めているのを伺わせる永瀬の沈痛な声に、決してふざけているのではないと岡崎は悟った。

 だがそれでも、これ以外の言葉が出てこなかったのである。


「答えてくれ! 僕は、女子高生なのか!?」


『――いや、違う……』


「せやせや! あんちゃんは女子高生や!」


 岡崎が言い終わる前に、永瀬の背後から大声が聞こえた。

 慌てて振り返る。


 そこにはラクダの上下に腹巻きという、絵に描いたような、頭がすっかりはげ上がった小太りの男が立っていた。

 顔が赤いのは酒のせいであろうか。部屋いっぱいに、酒臭い吐息が充満していくのが分かった。

 永瀬は手にしているスマートフォンを落とし、声が出ないのか、口をぱくぱくとさせる。


「ワイが保証したる! あんちゃんほどの女子高生はそうはおらへんで!」


 そう言いながら床に落ちたスマートフォンを拾うと、電話の向こうから呼びかけている岡崎を無視して通話を切り、永瀬の手の平に乗せた。


「――え……えっと……」


「ん? なんや?」


 男は永瀬の顔に付きそうなほどに、耳を寄せる。

 酒だけではない。たばこと加齢臭の交じった体臭が、永瀬の鼻腔にまとわりついていった。


「うぶぉ!」


 思わず、永瀬が嘔吐する。


「何してくれとんねん! ワイの一張羅が!」


 男はステテコの裾に跳ねた嘔吐物を、永瀬の胸から引っ張ったネクタイで拭いていった。


「けったくそ悪いのー。ちぃと待っとれ」


 男はトイレに入りトイレットペーパーを持って来ると、「これで拭きなはれ」と差し出し、永瀬はそれをおそるおそる受け取ると、フローリングに撒かれた自身の嘔吐物を拭いていった――。


「すみません。――ありがとうございました」


「そんなんやめてーや。困ったときはお互い様やろ?」


 一通り処分が終わり、永瀬が頭を下げて礼を述べると、男は照れ臭いのか、ぶっきらぼうに言った。


「――あの……」


「ん? なんや?」


「――どちら様……でしょうか?」


 永瀬が疲れ切った声で尋ねる。


「ワイか? ワイは……そうやの、ノンベエとでも呼んでくれなはれ」


「ノンベエさん……ですか」


「さんなんか付けんといてや。呼び捨てでええで」


「いえ、目上の方にそれはできませんので……」


「んまあ、好きにしたらええわ」


「――ノンベエさん……先程、私が女子高生と仰ってましたが……どういう事でしょうか……?」


「何言うとんねん。自分で『僕は、女子高生なのか?』って言うてたやろ?」


「それはそうですが……」


 確かに、自分は女子高生であるような気がしたのは確かである。だが、確信はできていない。どこか腑に落ちないのだ。

 だから、岡崎に確認してみたのである。


「しけた顔しとんのー。ええか? ワイが保証したる! あんちゃんは立派な女子高生や!」


「そう……なのでしょうか?」


「なんや? まだ納得いかんのかい」


「――やっぱり、根本的に……男で女子高生って――」


「っかーー!」


 永瀬が言い終わるのを待たずして、ノンベエは頭を抱えてうなり出した。「あんちゃんそれでも先生か!? 考えが古いのー」


「え?」


「ええか? 今や車掌はんやパイロットはんでも女性がおる時代や。スポーツでも、昔は女性にはできない言われとったスキージャンプや重量挙げの選手がおるんや。男女雇用機会均等法やで!」


 ノンベエは永瀬の両肩を強く、しっかりとつかむ。


「せやから女子高生だってそうや! これからの時代、男女関係なく女子高生になれる時代なんや!」


「そう……でしょうか……」


 永瀬は勢いに飲まれそうではあったが、まだいまいち納得の色を浮かべられないでいた。


「ほんでな」


「――はい」


「あんちゃん、ワイと契約せえへんか?」


「契約……ですか?」


 ノンベエは腹巻きに手を入れると一枚の紙を取り出し、ぐいと差し出す。


「これ、契約書や。ほなよろしく頼むで」


「ちょ、ちょっと待って下さいよ! そんな意味の分からない契約書にサインなんてできませんよ!」


 永瀬はノンベエから突きつけられた契約書を押し戻すようにして言った。


「あんちゃん!」


「は、はい!」


 ノンベエは顔を引きしめ、鋭い眼光で永瀬の目を射貫く。

 心の底まで見透かしてしまいそうなノンベエの黄ばんだ瞳から、永瀬は目が離せなかった。


「何度も言うけどな? あんちゃんは最高の女子高生なんや。あんちゃんしかおらへん。一緒に悪を成敗する、正義の味方になってほしいんや」


「正義の……味方……?」


「せや。あんちゃんは女子高生の定義はなんやと思う?」


「――清く……正しく……美しく……でしょうか?」


「その通りや!」


 突然の大声に、永瀬は体をびくりとさせた。


「ああ、立ち話もなんやな。好きなところ座ってええで」


「あ、ありがとうございます……」


 促されて、永瀬とノンベエはテーブルを中心に向かい合って座る。


「――ほんでな、正義の味方の定義はなんやと思う?」


「それは…………あ!」


 永瀬が答えに気付いたのを察したのであろう。

 ノンベエは軽く微笑むと、大きく頷いてみせた。


「せや。清く正しく美しく――女子高生と一緒なんや」


「それじゃあ……」


「あんちゃんは最高の女子高生なんや! それは同時に、最強の正義の味方というわけなんや!」


 ――合点がいった――


 元より永瀬はこの世の悪全てを許せないと思っている。

 教師になったのも、子供達に健全に育って欲しい。そのための教育がしたいと思い描いたからであった。

 正義の味方としての力を手に入れれば、教師としての生活では決して成し得ないこともできるかもしれない。


 ――永瀬の腹は、決まった。


「分かりました! この永瀬祐介、女子高生となって正義のために戦います!」


「やってくれるか! そう言うてくれると思ってたで!」


 お互いの目が潤んでいるのが、分かった。

 ここに、共に正義のために身を捧げようとする同士が生まれたのである。

 男泣きに、泣いた。


「――ほな、ここにサインしてや」


 永瀬が渡された契約書を読もうとすると、ペンを差し出しながら、急かすようにしてノンベエは言った。


「あ、まだ約款を読み終わってないので」


「あほんだら!」


「ひっ!」


 ノンベエが怒りの形相でテーブルを叩く。


「あんちゃん今まで契約書にサインしたことないんか?」


「い、いえ、あります……」


「ほんなら、そん時約款見てどう思ったん?」


「え……文字が小さくて、ぎゅうぎゅう詰めで……読みにくかったです」


「それや! 銀行でもなんでもそうなんやけどな? 約款っちゅうんは『読む気を無くさせる』ために小さく書いてるんや。実際、ちゃんと読まんかったやろ?」


 確かに――そう言われてみれば、そうかも知れない。


「せやからな? 約款を熟読するっちゅうんは、『私は空気を読めません』っちゅうとるのと一緒なんや!」


「そ、そんな……」


「分かったなら、はようサインして判子ついてえな」


「せ、せめて口頭で教えて下さいよ!」


「あほんだら!」


「ひっ!」


 再度、ノンベエが怒りの形相でテーブルを叩く。


「あんちゃん約款ちゃんと読まんで、今まで銀行から因縁付けられたんか? ないやろ?」


「――そう……ですね……」


「せやから、約款の内容は知る必要ないんや。言うたら、お飾りみたいなもんや!」


 ――言われてみればそうかも知れない。どうせ常識で判断できることしか書かれていないものだ――


「――わかりました……」


 ノンベエの叱責が怖いのもあったのであろう。永瀬は半ば無理矢理に、そう納得することにした。

 ペンで署名し、最後に捺印する。


「よっしゃ! ほんなら次は契約の儀式を行うで」


「はぁ……うわ!」


 前に差し出されたノンベエの手の平から、まばゆい光がほとばしり、永瀬はたまらず目を背けた。


 ――気がついたときには、テーブルの上に酒の一升瓶が置かれていた。


「こ、これノンベエさんが?」


「せやで?」


「す、すごい……」


「ワイかて妖精なんや。これくらい屁のカッパやねんで」


「え!?」


「なんや?」


 ただのアル中の中年かと思っていたら違ったようである。だが、正直に驚きの理由を言ってもまたどやされるだけであろう。永瀬はノンベエの問いを聞かなかったことにした。


「えっと、それで……このお酒をどうするんですか?」


「杯を取り交わすんや」


「あの、僕お酒飲めないです……」



「一舐めでええわい。無理して飲ませて倒られてもかなんし」


「すみません……」


 ノンベエは台所まで行き、「杯はどうせ持ってへんねんやろ? これでええわ」と、戸棚から持ってきた小さい皿を見せる。


「注いだってや」


 ノンベエが一升瓶を渡すと、永瀬は皿になみなみと注いだ。

 ぐいと飲み干すと永瀬に皿を渡し、今度はノンベエが注ぐ。


「ま、細かい作法は無しや」


「はい。ありがとうございます」


 永瀬は皿を受け取り、舌の先で酒にちょんと触れると、顔をしかめてつばと一緒に飲み込んだ。


「よっしゃ。これであんちゃんは今日から女子高生や! おめでとさん!」


「はぁ……」


「嬉しゅうないんかい」


「いえ、そんなことはないんですが……」


 自身の見た目に何の変化も現れず、女子高生だと言われても実感が沸かなかった。「何か、変わったんですか?」


「ほんなら変身してみたらええんや」


「変身!」


「せや。変身するとすごいで? 力がもりもり沸いてくるし。正義の力や!」


「正義の……力……」


 体が熱くなるのを、感じた。熱い想いがこみ上げてくる。


「教えて下さい! どうやって変身すればよろしいんでしょうか!?」


「お、気合い入ってきたのう! その意気や!」


 ノンベエは膝をぴしゃりと叩くと、勢いよく立ち上がった。


「まずは……」


 そういうと、再びノンベエの手の平から光が溢れる。


「うわ!」


 永瀬は慌てて目をつぶるが、光を直視してしまった。

 ノンベエの「これや」の言葉に、永瀬はしばしばする目をゆっくりと開けていく。


「――これは?」


 ノンベエの手に握られた、ハートや翼の装飾があしらわれた棒を見て、永瀬は尋ねた。


「魔法のステッキや。これを使って変身するんや」


 そう言うと、ステッキを永瀬に差し出す。


「――魔法の……ステッキ……」


 おそるおそる――そんな形容が最も相応しいであろう。永瀬はゆっくりとステッキに手を伸ばしていく。いよいよ正義の力を手に入れることに興奮しているのであろうか。ほんのりと顔が上気していた。


 ――存外に重い――それが最初の感想であった。


「よっしゃ! ノンベエ先生の変身レッスン始めるで!」


「は、はい! よろしくお願いいたします」


「まずはそのステッキを掲げて変身の呪文を唱えるんやけど、なにがええ?」


「え?」


「えやないがな。自分で決めんと」


「そういうものなんですか?」


「せやで? あんちゃんの決めた呪文が、精霊はんとの認証コードになるさかい。あんちゃんの好きなものにしたらええ」


「なるほど……」


「ああ、もちろんかわええのがええな」


「かわいいの――ですか……なんか少し恥ずかしいですね」


「あほ。女子高生はかわええを追求するもんや。なんも恥ずかしいことなどあらへん」


「あ――そ、そうですね!」


 そうなのだ。自分は今、女子高生なのだ。己の置かれた立場を失念していたことにこそ、永瀬は恥を覚える。


「では……」


 癖なのであろう。永瀬は右の人差し指を唇の横に当てて考え始める。「うん、決めました」


「もう決まったんかい。ちゃんと考えたんかいな」


「はい。これで、いきます」


「さすが先生やなー。頭ええのう」


 ノンベエはそう言うと、永瀬から距離を取って「ほな、早速いってみよかー。体験した方が早いで」と告げる。


「は、はい!」


 いよいよである。ついに、正義の力を授かるのである。永瀬の体を武者震いが駆け抜けていく。

 深呼吸をして自身を落着かせると、真っ直ぐ正面を見てステッキを高く掲げ、最後に息を大きく吸い込む。


「エバーラスティングー! ハッピーフラッフィーラブパワー!」


 呪文を叫ぶや否や、永瀬の体から光があふれ出し、宙に浮き上がっていく。


「うわあ!」


 初めての感覚に驚きの声を上げると、服が末端から細かく破れていった。


「え、ちょ、ちょっと!」


「すぐに新しい服が出てくるで!」


 当然と言えば当然のことである。これは変身であり脱衣ではないのだ。思わず焦りの声を上げてしまったことに、永瀬は頬を赤らめる。


「あれ?」


 突然体が回転し始めたことに気づいた。


「今や! 腕を色々な角度にしたりウィンクしたりして、お嬢ちゃん達や大きなあんちゃん達を虜にするねん! どんどんかわいさアピールするんや!」


「は、はい!」


 永瀬はあくまでも客観的に、どうすれば他人から見てかわいいと感じるかを懸命に考えながら、体勢を変えていく。


 ――最後の決めポーズの前は……投げキスだ!


 精霊からのサービスであろうか。

 永瀬が二本の指を唇から離すと、ピンクのハート型の物体がそれに合わせて飛んでいき、途中で消滅した。


「か、かわええで……あんちゃん! 思った通りや! ワイの目に狂いはなかった! あんちゃんはほんまもんやで!」


「ノンベエさん……」


 新しい服をまとい、変身ももはやクライマックスである。最後はとっておきのポーズで決めなくてはなるまい。

 永瀬は優雅に、そして力強く両腕をクロスさせ、両の脚を内股にすると、次いで小首をかしげてウィンクして見せた。

 誰に言われずとも見事なまでにこなしていく永瀬に、ノンベエは目を丸くする。


 光が収まり、決めポーズを取る永瀬はブレザーの制服を着用しており、その姿は正しく、女子高生であった。

 その見事な変身を見たノンベエは感極まったのであろう。ハンカチを片手にむせび泣いていた。


「でも……ノンベエさん」


「なんや?」


「正義のために戦うのはいいのですが……具体的には何をしたらよろしいのでしょうか?」


「あー、それな。それはワイに任しておけばええねん」


「え?」


 ノンベエは床に座ると、腕を組んで目を瞑った。

 眠っているかのように微動だにしないその姿に永瀬はいぶかしさを覚えるが、口からよだれを垂らし始めたところで、ノンベエは目を大きく開く。


「あっちや!」


 北北東に向けて指を指す。「三キロくらい先の公園やな」


「えっと……そこに何が?」


「おなごの悲鳴が聞こえたで。一大事や!」


「え! 早く助けに行かないと!」


「ワイは先に行くで! あんちゃんも早う来てや」


 そう言うや否や、ノンベエの体は柔らかく光り、頭頂部から徐々に消えていく。

 途中肉はもちろんのこと、骨や血管や内蔵の輪切りを見ることになった永瀬は吐き気を催すが、すでに足しか残っていないノンベエの「急ぎなはれ!」の一言で我を取り戻した。


「は、はい!」


 玄関の鍵を閉め、駆け出すと、周囲の人々が異様に遅いと感じた。


 ――いや、そうではない。自身の速度が異様なまでに速いのだ。


 永瀬はそれに気づくと、正義の力を手に入れたのだという実感が沸いてきた。



「あんちゃんこっちや」


 永瀬が到着したのは、郊外にある広大な公園であった。遊具などはないが、サイクリングコースが整い広々とした芝生があり、市民の憩いの場として愛されている。

 その公園を囲うようにして植えられている低木の陰から、ノンベエが体勢を低くしながら声をかけた。


「ノンベエさん」


 永瀬がノンベエの横まで来て膝をついて座ると、ノンベエは「あそこや」と、指をさした。

 暗くて見づらかったが――なるほど、林の陰に人影があるのが、わずかに分かった。

 猿ぐつわでもされているのであろうか、時折くぐもった声が聞こえる。


「はよ行ってくるんや!」


 ノンベエは激励するように背中を叩くが、永瀬はそこから動こうとしなかった。


「何しとんねん。間に合わんくなるで!」


「で、でも……」


「心配することあらへん! あんちゃんは最強なんやで? ヒグマでもぎりぎり倒せるくらいや」


「――僕、人を殴ったこと無いんです」


 先程の俊足の体験から、ノンベエに言われずともそこいらの人間には負けない身体能力を得ていることは、永瀬自身でも分かっていた。だが、永瀬は喧嘩とは一切無縁の生活を送ってきた。

 人を傷つけることで自身の心が傷つくのが、怖かったのである。

 正義のためと嬉々として受け入れた力ではあったが、いざこれから自身がその力を振るうと思うと、心に迷いが生じた。


 ――それを、永瀬はノンベエに伝えた。


「――あんちゃん」


 ノンベエは永瀬に向き直ると、努めて柔らかい声調で話しかけた。


「――はい」


「確かに、暴力はあかん。人として絶対にやったらあかんことや」


「……」


「だがの? 悪は別や。悪は制裁せなあかんのや。それに――」


 永瀬を抱きしめ、頭をなでながら、ノンベエは続ける。「そのおかげで救われる人もおるねんで? 今もそこに、危機迫ってるおなごがおるんや」


「――はい」


 先程は嘔吐したノンベエの加齢臭の交じった体臭が、今は何故か、心地良かった。

 大切なことを失念していた。これはただの暴力ではないのだ。ただ悪を懲らしめるためだけの力ではないのだ。


 ――この力で、救える人もいる――


 ならば――

「――行ってきます」


 永瀬は立ち上がると、胸のリボンの傾きを直しながら言った。


「頼んだで。――ああ」


「もちろん、かわいくですね?」


「ちゃうで」


「え?」


 ノンベエのセリフを先取りしたつもりであったが、あっさりと否定されてしまった。


「あんちゃんはもうこれ以上なくかわええんや。戦いは余計なことは考えんでええ」


「そっか……」


 言われて思い出した。子供の頃夢中になって観た、ヒーロー達のテレビ番組を。

 彼らの正義のために戦う必死な姿に憧れたものだ。

 そこには己の姿など気にしない、たとえ泥を舐めようと、無様をさらそうと、一心不乱に悪に立ち向かって行く、ヒーロー達の姿があった。

 その姿が、何よりかっこよかった。


 ――僕も行こう。ただひたすらに。正義のために――



「悪党ども! そこまでだ!」


 突として声をかけられたことに驚いたのであろう。

 下着姿の少女を囲んでいた二人の男達は体をびくりとさせ、振り向く。


「だれだてめえ!」


 男達は林の中から出てくると、前方にいる人影に向かって威圧的な声をかけた。


「悪人どもに名乗る安い名など持ち合わせてはいないが、それを知らぬまま地獄へ行くのもまた不憫」


 一歩、また一歩と歩を進めながら永瀬は言う。


 雲の間から現れた月に照らされ、男達は僅かながらもその姿を確認した。


「あーん? おん……いや、男か?」


「教えてやろう。――とう!」


 永瀬は体を回転させながら空を舞うと、男達を飛び越えたところにある街灯下の電話ボックスの上に着地した。


「私の名は、女子高生仮面!」


「仮面かぶってねーじゃねーか!」


「てめ男だろうが! 女子高生ですらねーじゃねーか! ああん!」


 最高の決めポーズを披露する永瀬に、男達から野次が飛ぶ。


「ふん」


「あん? んだこら」


 鼻で笑ってみせる永瀬であったが、男達はそれが気にくわなかったらしい。更に声にドスを利かせて永瀬を威圧しようとする。


「悪人は心が汚いだけでなく、狭いらしいな。そんな些細なことを気にする度量しか持ち合わせていないから、女性に相手にされない。相手にされないから、欲望を満たさんが為に女性に牙を向く」


「調子くれてんじゃねーぞ! 殺すぞこら!」


 一人がポケットから折りたたみ式のナイフ取り出すと、公衆電話から降りた永瀬に肩で風を切るようにして近づいていく。


「変質者めが」


「女装野郎が調子くれてんじゃねー!」


 ナイフを持ったまま駆け寄ると、そのまま永瀬の腹に刺した――はずであった。


「んなっ!」


 刃は制服すら貫通せずに折れ、アスファルトの地面に落ちる。


「て、てめー、腹に鉄板でも仕込んでやがんのか?」


「女子高生パーンチ!」


「おごっ!」


 顔を上げた男の顎に向けて渾身の一撃が炸裂すると、男は空を飛び、もう一人の男の足下に落ちた。


 気を失ったのであろう。指一本動かせないどころか、うめき声さえも聞こえてこない。


「腹にあるのは、正義への情熱だけさ」


 永瀬はブレザーをめくって見せた。


「てめぇ! きたねーぞ!」


「何がだ?」


 もう一人の男が大声を上げるが、虚勢を張っているのであろう。声が僅かに上ずり、震えていた。


「殴られただけでここまで飛ぶわけねーだろ! 正々堂々勝負しやがれ! 卑怯者が!」


「二人がかりでか弱い女性を襲うクズどもに、卑怯者などと言われる日が来ようとは思わなかったが……ま、冥土の土産だ。強さの理由を教えてやろう」


「な……なんだよ……」


 永瀬が近づいていくと、男は及び腰になりながら後ずさりする。


「私が、女子高生だからだ!」


「わけわかん――」


「女子高生キーック!」


 男がそれ以上の言葉を発するのを、永瀬は許さなかった。

 一瞬にして間を詰めると、男を真上に蹴り上げ、先程のすでに気を失っている男の真横に落下させたのだ。


 ――終わった――そんな安堵の気持と共に息を大きく一つ吐くと、後ろから拍手が聞こえた。


「あんちゃんご苦労さん。上出来やでー」


「ノンベエさん」


「いきなりここまで出来るとはのー。さすがワイが見込んだだけのことあるで」


「ありがとうございます――あ、女性は!?」


 初めての戦闘を経験したことで、少々気が高ぶっていたのかも知れない。被害者の女性のことをすっかり忘れていた。


 女性のいる林の方へ駆けようとすると、ノンベエはそれを制止して「心配いらんで。あそこや」と指をさして言った。


 その先には服を着せられ、ベンチに横たわって眠っている女性の姿が確認できる。


「不幸中の幸いやな。服を脱がされただけのようや。気を失ってるようやけど、心配あらへん」


「そうですか。それは良かった――ん?」


「どうしたんや?」


 いぶかしげな顔をしながら永瀬は女性に近づく。


「宮村さん!?」


「なんや、知り合いか?」


「僕の教え子です。こんな時間まで出歩いてるなんて……ったく」


「まぁまぁ、そういうお年頃なんや。ちゃんと先生が助けたんやさかい、不問でええやろ?」


「ま、――叱るわけにもいきませんからね」


 素行を注意すれば、何故宮村の行動を知っていたのかという話になってしまうが、まさか正義の味方をやっているなどと言えるわけもあるまい。

 せめて明日のホームルームで、子供が夜遊びをすることの危険性を説こうと、永瀬は心に決めた。


「ほな帰るで」


「ちょ、ちょっと待って下さい。彼女をここに置いて行くわけにはいきませんよ」


「――せやな」


「さっきノンベエさんがしたみたいに、他の場所に移動させる事って出来ないんですか? 出来れば彼女の家に送ってあげて頂きたいのですが」


「できるで?」


「じゃ、じゃあそれを是非」


「住所、分かるんか?」


「それは……分かりません……」


 当然ではあるが、学校の教員であっても生徒の個人情報を家に持って帰ることは出来ず、必要であれば学校で調べるしかないのだ。


「しゃあないのー」


 ノンベエは軽くため息をつくと、地面に膝をつき、宮村の額に手を当てた。


「これがまた疲れるんや」


「何をなさってるんですか?」


「嬢ちゃんの記憶を探ってるんや。住んどる家に関する記憶があればええ」


 目を瞑りながら、ノンベエが答える。


「よっしゃ、ここや」


「もう分かったんですか?」


「嬢ちゃんが帰宅する時と、ベッドに寝っ転がって漫画読んどる時の視界が見えたさかい。大丈夫や」


 ノンベエが立ち上がって宮村に向けて両手をかざすと、光に包まれた。


「うえ……」


 やはり人体の輪切りというのはそうそう慣れるものではないのであろう。

 教え子の姿に、永瀬は吐き気を催す。


「よっしゃ。これでええわ」


「はい。ありがとうございます」


「帰るでー」


 今度はノンベエ自身が光を放ち始めるが、永瀬はそれを見ることなく走り出した。



「ええ!? ここに住むんですか!?」


「せや。まさかワイにホームレスになれっちゅうんか?」


「そ、そんなこと言いませんけど、今までどうしてたんですか?」


「妖精の王国におったからのー。こっちに来たの初めてやしな」


 勝手に拝借した永瀬の湯飲みに酒を注ぎながら、ノンベエは答えた。


「そうですか……でもなー……」


「なんや? 不都合なことでもあるんか?」


「このアパート同居禁止なんですよ」


「なんやそんなことか?」


 そう言うとノンベエは湯飲みをテーブルに置いて体を光らせるが、さすがに永瀬も目が慣れてきたらしい。薄目になりながらもその姿を見ていると、ノンベエが次第に小さくなっていくのが分かった。


「これでどや?」


「……」


「かわええやろ?」


 ノンベエはその姿を猫に変えていた。

 今までの印象からほど遠いその姿に、永瀬は目を丸くする。


「――撫でていいですか?」


「ワイは誇り高いんや。そんなんさせへんで。――と言いたいところやけど、今日はあんちゃんよう頑張りはったから、ま、特別に許したるわ」


 元来猫好きなのであろう。永瀬はノンベエの許可を得るや否や、頭を撫でたり頬ずりをし始める。

 ノンベエを横にして腹の柔らかい毛と肉球の感触を楽しんでると、興奮が落着いたのであろうか、永瀬は「そう言えば……ここペットも禁止でした……」と、思い出して言った。


「そんなん黙っとったらええんや。それに猫なら胃袋も小さいさかい、食費もかからんくてええで?」


「ですが……」


 確かに黙っていれば分からないかも知れない。

 本物の猫であれば鳴き声などでばれてしまう可能性はあるが、ノンベエは意思疎通ができる。黙っていてもらえば大家に見つかり、咎められることもあるまい。


 だがそれでも、永瀬は規約に反することへの罪悪感を覚えずにはいられなかった。


「あかんのか?」


「――申し訳ないです……」


「――分かったわい」


 ノンベエはさっと立ち上がると、頭と尻尾をうなだれさせながら、玄関までとぼとぼと歩いていった。


「あんちゃん……ここ開けてぇな」


 金属で出来た冷たい扉を小さな前脚で指して言うと、永瀬は、


「は……はい……」


 鍵を開けて、扉をゆっくりと開けていく。


 ――心が、ちくりと痛む。


「ほんじゃまた明日や。――あ、気にせんでええで? これは仕方のないことやし。規則なんやからあんちゃんは全く悪くないで? 分かっとる。今日は朝にかけて冷え込むらしいけど、仕方ないんや」


 ――だまされるな。アル中のおっさんだぞ。


「ワイはどこぞの軒下で、野良猫らしく風と雨に凍えながら寝るさかい。ほんま、気にせんといてや……」


「……」


「――ほな、さいなら……」


 玄関から一歩脚を出したところで、ノンベエは浮遊感に包まれた。


「――ずるいですよ……」


 永瀬が抱き上げたのである。「しゃべるときは小さい声でお願いしますね?」


「わかっとる。――おおきに」


 ノンベエは永瀬の腕の中に顔を埋めながら言った。

もう4、5年前でしょうか。埼玉県立某高等学校の生徒会に遥か年下の友人がおり、彼女は生徒会長を務めておりました。その友人に生徒会誌へのゲスト寄稿を要請され、その時に書いたのがこの「戦え! 女子高生仮面」でした。“高校生にふさわしくない内容は不可”という条件がございましたが、非常に楽しんで書かせて頂きました。ただその時はページ数の制限などもあり、かなり急な展開を必要としたためにあまり満足のできる仕上がりではなかったため、今回は大幅に加筆した上で掲載させて頂きました。お楽しみ頂けましたら幸いでございます。

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