16
次の日の日曜日、凪沙はリビングで母親に促されながら、購入した洋服の詰まった紙袋を開いて一つ一つ取り出し、並べていた。
「あら、本当にたくさん買ったのね。あっ、これ凄く可愛いじゃない! いいセンスしてるのね、凪沙。」
「ほとんど選んで貰ったから……。あたしが選ぶと、どうしても黒とかばっかりになるし……。」
母親は薄いターコイズブルーの、ふわりとした袖口がシースルーの素材で出来たトップスを手に取ってそう言った。それを凪沙はゆるく首を振りながらも否定する。
陽子の顔を思い浮かべながら。
「そうなの? じゃあ、凪沙のことを良く分かってる子なのね。あら、なんて名前だったかしら……。」
ええと、ここまで出てるんだけどな。
母親は首元に手を当てながら考え込み、雪子だの加奈子だの、凪沙の小学生時代の同級生の名前を次々と並べていく。
子しか合ってないよ。
服を一通り広げながらそう思い、母親にその友人の名を再度教えようとした時、凪沙ははっとする。
陽子と居る時、名前を呼んだ記憶がない。
「……、あ、……。」
手で広げていた、あのダークグレーのタックスカートがぱさり、と床に落ちた。
あたし、どう呼んだらいいのかな。
「どんな名前だっけ?」
そんな凪沙をよそに、母親はなんの気もなくそう尋ねる。
名前は分かっているのに。ちゃんと、覚えているのに。
凪沙は、彼女のことを心の中でもどう呼んでいたのか分からなかった。
呼んでいなかったのかもしれない。無意識に、呼んでいたのかもしれない。
ただ凪沙は、彼女の名前を呼んだ記憶がないことに、言いようのない不安を感じていた。
彼女は何度も何度も自分の名前を呼んでくれているのに。
綺麗な名前だと、褒めてくれたのに。
元々対照的な二人ではあるが、あのバスの中では確かに共通点も見つけられていた二人なのに。
こんなところでも真逆だなんて、そんなのは嫌だ。
凪沙は自分を責めたくなったが、それ以上に、腹の底から湧いてくるような望みを叶えたかった。
彼女の名前を呼びたい。
「……陽子ちゃん、だよ。」
人の名前を呼ぶことなど小さな子でも出来ることだというのに、凪沙の唇は震えていた。
これからはきちんと名前を呼んで会話をしようと心に決めて迎えた月曜日、二人はいつものように挨拶を交わした。
まだだ。まだ名前を呼ぶのは早い。
思えば、凪沙は陽子の前では名前を呼ぶこともしなければ笑顔を見せることもあまりなかった。たまに見せる表情も、陽子の満面の笑顔に比べたら無表情も同然だった。
自分から話題を提供することも滅多にしないし、それどころか話し掛けることすら数える程しかしていない。
凪沙はここの所、今まであまり経験したことのない感情が心の中をじわじわと支配し始めていることに気付いている。
けれどまるで不良品の精密機械のように、頭と心がきちんと繋がっていない。何処が接続不良なのかが分からない。
何処でエラーが発生しているのかを探れば探るほど新たな障害が発生する。
何度心の中を探っても、どんな回路を辿っても、胸の鼓動が寂しい、と訴える。
こんなのは、おかしい。
「今日さ、私、違う子にお昼誘われちゃってさ……。」
四限目が終われば、陽子は申し訳なさそうに、けれど凪沙の反応を気にする素振りは見せずに言った。
弁当を片手に迷うことなく立ち上がる陽子を、凪沙は睨むように見上げる。
陽子にとって凪沙は友人であり、凪沙にとっての陽子も同じく友人であるが、それは必ずしもイコールではなかった。
陽子には数多くいる友人の一人。
凪沙には、たった一人。
たった一人でなければ、何か変わるのかな。
凪沙は考えていた。
けれど凪沙に話し掛けてくれる人なんて、ここには陽子しかいない。
凪沙の中に自分から声を掛けるという選択肢はなかった。
受け身で、情けない程他力本願で、その上無自覚だ。
なんて質が悪いのだろう。
「隣のクラスの子なんだけどさ、前から仲良くて。中学が一緒だったから。だからちょっと、その子のところに行こうかなって思ってるんだけど……。」
凪沙は、前に母親と一緒に行ったスーパーで見掛けた小さな子どものことを思い出す。
お菓子コーナーの前で駄々をこねる子どもと、またか、と言うような顔でそれを放置してカートを引いていく若い母親。
そして欲しいものを与えてもらえないことへの不満の涙から、無条件で愛してくれる、絶対的な存在である母親が自分の元から離れていこうとする絶望の涙に変わる。
子どもは泣き叫び、自分の存在をこれでもかと主張する。母親にも、そして周りにも。
甘えたくて、受け入れて欲しくて、自分を見て欲しくて。
凪沙はあの時こそ子どもの泣き声を鬱陶しく思ってしまっていたが、今なら分かる。
あの時そう思ってしまったのは、あの子が羨ましかったからだ。自分の内面に棲む幼い自分を外に出してやれないから、大人になり切れないからあの子が羨ましくて、妬ましかったのだ、と。
行かないで、と言えたら。
あたしと一緒にいて、と我儘を言えたなら。
「だからさ、凪沙ちゃんさえ良ければ一緒に行かない?」
凪沙は忘れていた。陽子はいつも自分が思っている斜め上を行くことを。
心の殻に大きく亀裂が走る音が聞こえる。心臓に直接シナプスが繋がってしまったような衝動。考えるより先に言葉が口から零れ落ちる。
「行く。」
向かった先に知らない人が何人居ようと、その中で苦しい程の疎外感を味わわなければならなくとも、凪沙はただ、陽子の傍に居たかった。




