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優しい蛮族  作者: zan
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エピローグ

 あの長い夜から10日ばかりが経過していた。

 御曹司のリットは邸宅の客間で紅茶を味わっている。のんびりしている場合ではないが、いくらかは気分が休まった。


「おかわりはいかがですか」


 アーシャがにっこり笑って、ポットをかまえている。リットはにんまりして頷き、おかわりをもらった。

 彼の腰かけるソファに、横になって寝ている者がある。ヤズマだ。

 蛮族の姫、ヤズマは邸宅でぐっすり休んでいた。猫のようにまるまって、リットの太ももに頭をのせて気持ちよさそうに寝ている。それ以上言いようがなかった。午睡の真っ最中なのだ。

 御曹司のリットは彼女の頭をかるく撫でながら、口を開いた。


「アーシャ、君は一体どう思う。私とヤズマさまのことについては」

「まあ。リットさまはこれからずっと、ヤズマさまと暮らしていくのでしょう。ヤズマさまだって、きっとその気でいらっしゃいます」

「そうだろうな」


 他人事のように、リットは呟く。

 この態度はあまりアーシャにとって面白いものではなかった。彼女としては二人に結婚してもらい、自分はその家庭に雇われたいのである。いつまでもヤズマのそばについて、お世話をしたいのだから。

 それに世間ではもう二人は結婚するべきものとして扱われている。

 あの夜、熱烈にヤズマのことを弁護し、どれほど彼女が素晴らしい存在であるかを語り聞かせた御曹司のリットはすっかり、ヤズマの夫として認知されてしまっている。

 クルミー族の若者たちですらあの熱弁には感心したようで、最終的にはヤズマをよろしく頼むと肩を叩いてきたくらいである。万事、うまくいったのだ。リットの思惑通り、とはいえないが、とにかく事態を必要以上に荒立てないですんだ。

 もっとも、クルミー族の若者、特にダズマを納得させることができたのはリット一人の力によるものではない。リットとヤズマをくっつけるべきだと判断したユマが、気を利かせてクルミー族の心に響くように言葉を『意訳』したおかげでもある。

 とはいえ熱く語るリットの態度や声が皆の心を動かしたのは間違いないのであって、彼の功績はいささかも減じるところがない。

 彼とて、英雄である。

 分裂しかかっていたカタロニアの人々をまとめた。向かうべき方向を示した。

 まさしくもって、『御曹司』の呼び名にふさわしいことをしたのだ。賓客として迎え入れるクルミー族の姫を娶るにも十分な功績だ。

 その賓客、クルミー族の姫であるヤズマの功績に関しては、もう語る必要もない。若き指導者である御曹司の家に入るに十分な功績である。


 つまり、あとはリットとヤズマが婚姻に至れば全く、問題はない。

 大団円だった。


「結婚か」


 その一点こそが実は最重要課題である。

 リットは、以前にも結婚をしようとして失敗したことがあるのだ。オフィリアに逃げられ、『御曹司』という呼び名が皮肉めいたものとなってしまった苦い事件である。

 しかも、バリュクのいうことを信じるのなら、オフィリアとの結婚に反対している者がカタロニアにもかなりの数いたのだという。彼らの暗躍によって結婚は妨害され、オフィリアは自分から離れてしまったのだとか。

 であれば、今回も結婚も邪魔されないとどうしていえようか。

 それにまだ、ヤズマの気持ちは確かめられていない。確かにあの夜以来、こうしてくっついてくることは多くなり、以前よりも親しみを向けてくれているということはわかる。

 自分だって、心が変わっている。利用してやろうとかいう利益追及の心もなく、蛮族だといって蔑むような気持ちも、あるいは恐れるような気持ちもなくなった。いま彼女に向けられるのは、慈しみの心と、尊敬、愛情だけだ。

 もちろん、今だってすやすやと眠る彼女を抱きしめたくて仕方がない。リットは周囲からの声もあってこの邸宅に寝泊まりするようになっていたが、いまだに寝室は別だった。それでも鍛錬に励む彼女を見守ったり、手料理を味わったり、仕事に出向くときには見送ってもらったりと、夫婦らしいことはしているが、果たしてヤズマはこれをどう考えているのだろうか?

 ここまできておいて、ヤズマの気持ちはまだわかっていないのだ。

 どういうわけか、ヤズマが了解するのはわかりきっている、とばかりに話が進んでいる。彼女の気持ちをほとんど差し置いて、すべてが進んでいるのだった。もちろん、リットと結婚するという方向にだ。

 レイの演説のせいだった。彼女が「ヤズマはリットと結婚するために功績を積もうとしている」などと感情豊かに演説し、人々の心を揺さぶった。そのため、『ヤズマがリットと相思相愛』というのはもはや常識となり、誰もがこれに異議を唱えられない状況である。

 リットの大熱弁は実のところ、冒険者や兵士たちに対して結婚を認めさせる決定打とはなっていない。なぜなら、大熱弁以前からの常識だったからだ。彼らはそれを確認し、場の勢いに流されて感動したにすぎない。


「ヤズマさまもリットさまのことはお好きだと思います。結婚してもよい、ときっと思っていらっしゃいます」

「楽観的だな」


 少しだけ眉を寄せて、口元だけで笑いながらアーシャを見やる。

 この娘はヤズマに近くありすぎて、その楽観的な性格に多少の影響を受けつつあるようだ。だがアーシャがそういうのなら、と思わなくもない。


「むぅ」


 少し大きな声で話していたせいか、それとも髪を触っていたせいか、ヤズマが目を開けた。

 リットはあわてて人差し指を口元にあてたが、アーシャはそれを無視し、あくびをしようとしているヤズマに声をかけた。


「おはようございます、ヤズマさま。今、ちょうどお話をしていたところです」

「話?」

「ヤズマさま。私はずっと、ヤズマさまのおそばでお仕えしたいと思っています。ご結婚なさっても、私をそばにおいてくださいますか?」

「おう、いいぞ。アーシャ、ずっと私のところにいてほしい」


 にっこり笑って、ヤズマは簡単に受け答えした。将来の確約だ。

 続いて、アーシャはさらなる言葉をかける。


「ありがとうございます。ところでヤズマさまは、リットさまとご結婚なさるのですか?」


 泡を食ったのは、御曹司のリットだ。今その質問をしていいものか、彼にはわからなかった。

 しかしヤズマはいつものように悩むこともなくこたえる。


「わたしはそうしてもいいと思ってる。リットはどう思ってるのかわからない」

「大丈夫です! リットさまはヤズマさまのこと」

「待つんだ、アーシャ」


 慌てたリットは、手のひらを見せてアーシャを制した。何もかもを子供に言わせてしまっては、名折れだ。

 せめてプロポーズは男が自分で、と思ったのだ。

 ところがリットがそれを口にするよりも早く、呼び鈴が鳴って来客を知らせた。

 間の悪い時に、と口をとがらせるリット。アーシャが客の応対をするために部屋を出ていく。すぐに彼女は戻ってきた。来客は心やすく、親しい人物だったのだ。


「ヤズマさまに、お客さまです」

「そうか、私は席をはずしておこう。用事を済ませてくる」


 ヤズマに客と聞いて、リットは自分の仕事を片付けることにしたらしい。客間を出て、書斎に向かってしまった。

 それを見送り、ヤズマは客を迎えることにする。


「急にきてすまない、やっと時間がとれたもんだからさ」


 杖をついてはいたが、元気そうなサフィーが客間に姿を見せた。さすが10日では折れた足は元に戻っていないが、彼女はそんなことを気にもしていないらしい。

 その後ろにはユマもいる。彼女はクルミー族の集落に戻らず、カタロニアにとどまっていた。ヤズマに何かまた危害を加える輩が出ないかという監視と、同時に下界言葉により精通するためである。


「おう、サフィー、ぶじか。ユマもよくきた」


 ヤズマは友人たちの手をとった。サフィーもその手を握り返してお互いの友情を確かめる。

 ユマはにっこり笑ってヤズマの手を握ったものの、そのあとはあまりしゃべらず、控えめになった。今日はサフィーの用事にくっついてきただけなのだ。そのサフィーはソファーに腰かけたりはせず、立ったまま挨拶をする。


「無事ではないけど、元気さ。うちのがあんなことをしでかしたせいで、今は忙しいけどね。おかげで会いに来るのが遅くなってしまって。

 直接お礼を言いたかったんだ。ヤズマ、本当にありがとう」


 ぺこりと頭を下げ、サフィーはしっかりと謝意をしめした。


「わたし、やりたいようにしただけ。礼なんていらない。レイか、ユマに言うべき」

「もちろん彼女らにも言うさ。でも、一番活躍したのはあんただから」


 サフィーの言うことはあたっている。

 あの夜、一番功績をあげたのはヤズマだ。囚われの身から脱出しただけでなく、一番の怪物、一番の強敵であるバリュクを直接打倒したのだ。これを褒めないで何を褒めろというのか。

 奇跡的に一人の死者も出なかったあの戦いの中でも、それなりに重傷者はある。骨折したものも多い。だというのに、途中から参加したとはいえ、ヤズマはほとんど無傷。クルミー族の若者たちですらけが人があったというのに、かすり傷程度しか負っていない。これは特筆するべきことだ。ヤズマは最前線に立って、強敵と戦い続けていたのに。

 しかも、サタニック・サイクロプスを討伐してからいくらも経っていないのだ。

 真実、ヤズマの戦いはあれほどの冒険者、クルミー族の中でも抜けている。


「寝癖がついてるよ、ヤズマ。お昼寝でもしてた?」


 ユマが”下界言葉”で指摘した。

 ヤズマが午睡にふけるというのは珍しいことだ。集落にいる時を思い返せば、昼間はだいたいいつも訓練をしているか、狩猟をしているか、来客の接待をしているかだった。休んでいるところなどは見たことがない。

 そもそも寝癖という言葉自体が、集落には存在しないような言葉だ。髪を整えるようになって初めて、意味のある言葉だからである。集落では常に髪は乱れっぱなしで、乱雑になっているほうがむしろ勇ましいという風潮だったので寝癖などという言葉に意味は持たせられない。

 わずか10日でユマもカタロニアの風習になじみつつあったのだ。


「おう、ユマ。少しだけ寝てた。

 夜遅くまで、リットが離してくれないから」


 そう。リットはヤズマに色々と教えている。

 カタロニアの風習や常識について、これ以上の誤解やいざこざが起こらないように、必死で教えている。無論言葉も、それから冒険者たちの用語などもだ。ついつい熱が入って深夜に及ぶことも多かったから、ヤズマが昼間に眠くなってしまうのも無理はない。

 そういう意味での受け答えだったのだが、サフィーとユマは全く別の意味にとった。


(相思相愛なのはわかるけど、見せつけなくてもいいだろうに。まあ、英雄が思い人と睦まじいのは問題ないからいいんだけど)


 と、サフィーは苦笑する。

 一方ユマは、


(オンゾーシのやつ、もうヤズマに手を付けたのか!)


 生々しい想像をしてしまい、真っ赤になった。さらには事情を知っているはずのアーシャでさえなぜか赤面して、うつむいている。これが誤解に拍車をかけた。

 いやらしい沈黙が流れかけたが、サフィーはついに話の続きをしはじめる。


「それから、報酬とお詫びのことも話しておかないと。

 何しろあんなところに詰め込まれた上に、町全部を救ってもらったようなものだから。本当は金貨なんかじゃ支払えないくらいなんだけど」

「何かもらえるのか?」

「うん、まあね」


 サフィーは半ばあきれながらこたえる。どこまで無欲な人なのだろうか、と思ったからだ。

 このやりとりを見ているユマは、口を挟もうとも考えない。彼女はこの10日間でヤズマが投獄されるに至った経緯も詳しく知り、そのあたりをヤズマがまるで理解していないことも知っている。しかし、そのあたりをヤズマに教えようという気にもならなかった。

 現状でうまくいっているのだから、藪をつついて蛇を出すこともあるまい、と考えているのだ。それに今ヤズマはみんなからの支持を集めて、慕われている。皆が認める伴侶まで得ようとしている始末。余計な騒動を起こして、すべてが台無しになってしまえば一族にとっても大きな損害だ。黙っているのが一番いい。


「金貨なら別にいらない。サイクロプスのせいでいえの壊れたひとのためにつかってほしい」

「毎度毎度それじゃこっちが突っつかれるんだよ、ヤズマ。それにそっちのほうは前に寄付してもらった2000金貨で十分さ。他には何かないのかい。

 例えばもっと大きい家に住みたいとか、きれいなドレスとか、強力な武器とか、贅沢な食事とか」

「家はここでも広すぎるくらい。十分。ドレス、きょうみない。武器は、ユマがいるからいらない。食べ物は、アーシャが料理を教えてくれるから、今はいらない」


 いらないばっかりか、とサフィーは嘆息する。おおよそこういう結果になるかもとは思っていたが、本当にそうなるとは。


「そうはいうが。今度のことは結構な大事になっているんだ。何しろギルドマスターが町を丸ごと敵に回して色々とやらかしていたんだから。余罪の追及だけで何か月かかることやらってんで、本部からも悲鳴があがってるくらい。何度も言うけど、そんなのを解決したあなたに報酬がないっていうんじゃ、私が怒られるんだ。何かしてほしいこととかないのかい」

「そうだ。こんど、わたしのつくったもの食べてほしい」

「無欲な。それに、それじゃ私ばかりごちそうになって、あべこべじゃないか」

「わたし、カタロニアの料理習い始めたばかり。たぶん、おいしくないから味見してほしい。それではだめか?」

「そんなのはお安い御用だけど、報酬のうちにはいれられないよ。また考えておいてよ、アーシャちゃんもさ」


 急に話を振られて、アーシャは首を振った。


「わ、わたしはヤズマさまのおそばにいられればそれだけでいいんです!」


 彼女としては余計なことをおねだりしてしまった結果、ヤズマと離されるのが一番怖い。だから、とにかく要求を最低限にしてそれだけは守ってもらおうと必死なのであった。


「食べてもらっていいのか。なら、さっそく今からつくる。アーシャ、てつだって」

「あ、わかりました」


 手料理を食べてくれるとなったヤズマは、善は急げとばかりに厨房へ向かう。

 サフィーは早くも今から料理が始まるのかとびっくりしたが、時間はまだ遅い昼食として間に合う程度だった。特に問題があるわけでもない。


「それじゃ、ここで待っていればいいのかな」


 ここはごちそうになっておこうと腹を決め、ソファーに腰を下ろす。サフィーはふとユマにも目を向ける。


「そういえば、あんたたちの一族にも報酬がいるっけ」

「ああ、でも私たちの目的はもう説明した通り」

「移住するってやつね。クルミー族に敵意がないのはわかったから、問題なさそうなんだけどさ」


 クルミー族の移住問題について、すでにサフィーは知っている。もっとも、それがヤズマに与えられた使命であった、というところまでは知りえなかった。それでも一族にとって重大な問題であることはわかるので、できる限りの協力を約束している。


「ヤズマの2000金貨で町はずれの土地はそちらに譲渡できる。家を建てるのは任せていいっていうんなら、それで終わりさ。

 あとはみんなが受け入れるかどうかだけだね。冒険者たちは割と早く適合するだろうけど、いくら英雄ヤズマの一族といったって、ああいう格好でウロウロされる限りはなかなか打ち解けないかも」

「その2000金貨は、つかわない。ヤズマ一人の稼ぎに頼って移住するのは、きっと一族が反対するから。

 たぶん、私のほかに何人か追加で来る奴らがいるから、彼らと稼いで土地を買う。移住したらしたで、カタロニアの風習になれるには時間がかかるだろうけど、仕方ない」


 ユマの返答は真摯なものだった。一族らしい態度だ。

 うん、とサフィーは頷いた。特に問題はない。あとは、こちらが受け入れる準備をするだけだ。

 おそらくラトフ・ガディもクルミー族の受け入れに反対はしないだろう。何しろバリュクたちが薬をばらまいた影響で仕事は有り余っていて、しかもいざとなればドレロの畜産農場で働くという手もある。雇用は十分にあって、受け入れは可能だ。

 言語の問題はあるが、ユマくらいに言葉が通じるなら大丈夫だ。


「いつまでも通訳が必要じゃ困るからな。ユマ、クルミー族でカタロニアの言葉がわかるのはどのくらいいるんだ?」

「たぶん、話ができるのは私とヤズマだけ」


 この返答にサフィーはびっくりした。


「え、なんだって。それじゃ今集落にはカタロニアの言葉がわかる人間は一人もいないのか?」

「そう。でも、私ももう少し言葉がうまくならないと、かえってみんなに教えるには不安」

「それはそうかもしれないが、いいのか。旅人たちと話すのに困るんじゃないか?」

「いい。いままでヤズマにまかせっきりにしてたバツだ」

「なるほど。ところで、ヤズマは何の料理を作っているんだろうか?」


 少しばかりいいにおいが漂ってきたので、サフィーは気になったらしい。聞かれたところでカタロニアの料理に詳しくないユマはこたえられなかったが。


「わからないけど」


 と、厨房の様子に聞き耳を立ててみると、アーシャとヤズマの奮闘している様子が伝わってくる。


「ハイ。そろそろ火からあげましょう。そっちのを少し入れてください」

「わかってる。このくらい入れるんだった?」


 何やら教えられながら、ヤズマが料理をしているようだ。

 ふと気になって、訊ねる。


「ヤズマは料理できるのかい?」

「できる、一人で猪でも熊でも解体してシチューにする。でも、それはカタロニアの料理とは違う」

「ふむ。じゃあ、少し楽しみにしようじゃないか」


 じっくり待とうとサフィーが考えたその瞬間、ごほごほと咳き込む声が聞こえてきた。どうもヤズマのものだ。

 いったいどうしたのか、と思わず立ち上がって厨房を見やる。


「大丈夫ですか、ヤズマさま!」

「ごほ、ううっぷ」


 アーシャに背中をさすられ、ごみ入れに顔を近づけるヤズマ。

 どうやら試食しかけたところで咳き込み、吐き戻してしまったらしい。どうしたのか?

 いったい何があったのか?


「まさか」


 とサフィー。


「いやいや」


 とユマ。


「つわりだろ?」


 サフィーは折れない。ヤズマの様子を左手で示し、同意を求めている。

 つわり。

 聞きなれない言葉に、ユマはそれを翻訳しかねた。

 そもそも、クルミー族の女性はつわりを経験しても体調不良としか考えず、それを特別扱いして名前を付けるなどということはなかった。ゆえに、クルミー族の言葉に「つわり」に該当するものがない。中にはつわり事態を経験することなく出産する気丈な女性も多かった。

 つまり、どう頑張ってもユマは「つわり」というものを理解できない状態にある。

 だというのに、彼女は「つわりとは何か?」と聞き返せなかった。

 サフィーが「まさか」と言ったとき、その先の言葉を「大病を患っているのでは」と予想したから彼女は「いやいや」と答えたのである。知らない単語が出てくるなんてことは想定していなかった。


「そうかも」


 ついにユマはあいまいに答えてしまった。

 サフィーは我が意を得たりとばかり、大きく頷く。


「やはり、ずいぶん前から御曹司とヤズマは親しかったんだろう。めでたいことだな、皆にもそれとなく知らせよう。

 あんな事件の後だから、明るい話題がほしいところだ」

「うん」


 頷きながら、ユマは何が何だかわかっていない。

 なんだか縁起のいいことのようなので、否定することもできない。かといってあらためて質問したら、なんだか間抜けだ。ここは適当に話を合わせておくしかない。


「よし、私は今のうちにこれを知らせてくる」


 我慢できなかったのか、サフィーが邸宅を出て行ってしまう。

 もう取り返しがつかなかった。ユマは茫然と彼女を見送る。

 やがて、厨房にいるヤズマは口元をぬぐってこうつぶやいた。


「すごい味だった」

「当たり前ですよ、お酢はあんなに入れるものじゃないです。むせるのも当然で」

「次からは少しずつ入れる」

「そうしてください」


 この会話がサフィーにとどいてさえいれば、このような誤解はなかったというのに。 

  


 さらに一か月が経過したころ、カタロニアの酒場では詩人が集い、競ってクルミー族のヤズマをたたえる歌を歌う。

 この歌が後世に残り、その歌から歴史が語られることになるとはこのとき誰も予想だにしない。

 歌の大意は次の通りである。


 田舎町の住まう貴族のリットは、狩猟に出た折りに出会った蛮族の姫君、ヤズマと惹かれあう。

 人目を忍んで逢瀬を繰り返すうち、二人は愛し合うようになるが、貴族のリットと蛮族のヤズマは結ばれるはずもない。

 そこでヤズマはカタロニアへと単身で参じ、冒険者として町への貢献を積む。

 愛する御曹司のリットと結ばれるため、彼女はたった一人で戦う。

 ひどく強力なオーガ、町をも滅ぼそうという巨大なサイクロプス、それらを討ち果たすヤズマ。

 しかし町の者は蛮族であるからとヤズマを手荒く扱い、敵と戦って疲労した彼女を投獄してしまう。

 御曹司は怒りに燃え、冒険者たちを説得してついに彼らを動かす。

 蛮族だからとヤズマを迫害していた町議会、冒険者ギルドを相手に御曹司と冒険者は戦い、ついにヤズマを取り戻す。

 救出されたヤズマは身勝手な理論を振りかざすギルドマスターをも相手に戦い、勝利をつかみ、町の人々の支持も得て、ついに御曹司との結婚に至る。

 身勝手な理由で差別し、他人を迫害するものには災いあれ。

 身分に関係なく真実の愛を育む二人に幸あれ。

 優しい蛮族に、幸あれ。


 事実歪曲も甚だしいが、こうした歌こそが案外と人々の記憶に残りやすかった。

 中には歌こそが正しいと判断するような者も当初から存在したくらいである。

 が、もちろんリットにとってはあまり気分のいい歌ではない。勝手に事実が捻じ曲げられ、それが真実扱いされているのだから当然である。

 彼はヤズマにももっと憤ってほしいと言い言いしたものだが、彼女はいつものように楽天的だ。


「歌は歌で、わたしはわたし。別に関係ないからもんだいない」


 笑ってそんなことを言う始末である。

 ひよこの世話をするアーシャを見ながら、何が問題なんだと言わんばかりに堂々としている彼女を見ていると、別にそれでいいかという気分になるから不思議なものだ。

 おそらく、自分は一生このヤズマという姫君にはかなわないのだろう、とリットは思う。

 そこで不意に彼はこの女性とどうしても一緒になりたいと強く思えた。自分には彼女が必要だ、と。

 御曹司のリットは、ヤズマを愛している。

 それだけは間違いなく、あの歌と同じだ。であるなら、結婚に至るという部分も真実にしてしまっていいのではないか。

 彼はそう考えて、いまだに決定案が出ていない、プロポーズの言葉を考える作業に没頭していった。

 ヤズマはそれが終わるのを待っている。にっこり笑って、いつになるのかと待っている。

 カタロニアという街の片隅で。

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