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雪ノ滓  作者: 日向灯里


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2/2

蒼に焦がれる

 駅を飛び出て古びた自転車に乗り、チェーンの錆びを鳴らした。

 口から洩れる白い息が顔に張り付き、冷えた頬を温める。だが、どれだけ吐いても胸の奥に残る衝撃は、色濃いままだった。

 錆びついた自転車は家を前に限界を迎え、チェーンがはじけ飛んだ。急に軽くなったペダルにバランスを奪われ、冷たい地面に飛び込んでしまう。

 すり減った膝が涙を溢したことに気がつけなかった。

 

 古びた階段を駆け上り、震える指で鍵を刺し込み、軋む部屋へと飛び込む。

 鍵をかける音が、自分だけの空間へと閉じ込めてくれた。

 

 肺に残る冷たさを感じながら、暗い部屋を歩く。

 明かりはつけられなかった。

 着ていた外套を脱ぎ捨て、足元のゴミをどかし佇む。

 ――もう1度、会えたら。

 だが、彼女の眼差しを思い出し、肩が小さく震えた。

 拭えない何かから隠れるため、布団へと潜り込んだ。

 

 布団に沈み、光を閉ざす。

 沈黙した部屋を、鼓動の音が埋めていく。吐息がゆっくりと、零れた。

 

 暗闇の中で、あの瞳を求めた。


 息が届かず、溺れる。

 息苦しさに飛び起きると、汗で濡れた体に服が張り付いていた。

 視界の隅で遅れてスマホが光り震えだす。窓から伝わる冷気が、体の線を撫でた。

 喉が渇きを訴えていた。

 

 肌寒さで身震いをしながら布団を這い出た。

 ぼんやりとした足で台所に立ち、水を飲み込む。

 もう一度寝ようと布団へ向かったが、踏みつけたざらつきで、足が止まる。

 足元を見て喉元が絞めつけられた。

 「……掃除、しなきゃ」

 近くのゴミごと、それを握り締めた。


 広くなった床に、橙に染まる光が差している。

 外を歩く子供の無邪気な笑い声が部屋に入り込み、つられて胃袋が小さく鳴いた。

 腹を撫でながら開けた冷蔵庫には、冷気しか残されていなかった。

 乾いていたグラスを掴みとり、水を押し込む。

 だが、胃の騒がしさだけが膨らんでいく。

 「――外、か」

 ボロボロの靴を履き、やけに重い扉を押し開けた。

 

 閑散とした町には、シャッターの灰色だけが残る店が並んでいる。

 町の景色を横目に、道の端を歩いていく。

 ぼんやりと歩いているうちに駅へ向かう道を逸れていた。そこは見覚えのある通りだった。

 立ち止まると、どこかから流れてきた砂糖の焦げた匂いが、鼻先を掠める。

 懐かしさを感じ、誘われるまま辿り着いたのは、小さな木造の店。

 店を前に入るのを躊躇ったが、腹の音が体を押しだした。

 

 からんからんと、乾いた音が歓迎を鳴らした。

 静かに流れるクラシック、カップとソーサーの触れる音。

 店内は、高校時代と変わらない空間のままだった。

 追想に浸りながらも平静を装い、周りを見渡す。

 店の奥にいた白髪交じりの女性店員と目が合い、出迎えてくれた。

 少しだけ老けた懐かしい記憶の人。

 「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」

 彼女の柔らかい声に頷くと、カウンター席へと案内された。

 そこは、よく座っていた隅の席だった。

 

 「ねぇ、もしかして藤君?」

 椅子に腰かけると店員が話しかけてきた。

 「はい、――お久しぶり、です」

 5年という歳月を経て足を運んだ、思い出の場所。

 とっくに忘れられているものだと、思っていた。

 「そうだよね、良かった」

 答えを聞いた店員は胸に手を当て、頬を緩める。

 先ほど出迎えてくれたときよりも、表情が柔らかかった。

 彼女は、少し上を見ながら指を折っている。

 「5年ぶりぐらいよね。 すっかり大きくなって」

 「そうですね、そのぐらいかと。……えりさんも、元気そうで」

 「えぇ、前より全然皺が増えちゃったけどね」

 隣に腰かけたえりさんはこちらを懐かしそうに見ていた。

 「藤君は、少し痩せたかしら」

 えりさんが頬に触れようと、手を伸ばしてきた。

 だが彼女は触れることを躊躇い、机に置いた自分の手のひらにそっと重ねてきた。

 彼女の体温は冷たい。

 「あ、ちょっと待ってね。――あの人呼ばなきゃ」

 えりさんは誰かを呼ぼうと立ち上がり、そばを離れてしまう。

 小さい後姿は、思い出のまま。

 ふいに背中を隙間風が掠める。

 手のひらだけが、机の上に残されていた。


 「ほら、藤君だよ。昔うちによく来てくれてた――」

 戻ってきたえりさんは奥にいたマスターを連れてきた。

 増えた白髪に伸びた髭。昔と変わらない掘りの深い顔。

 無表情のまま、こちらを真っ直ぐと見る目は少し凄みがあったが、不思議と怖さはなかった。

 「藤……あぁ、大きくなったもんだな」

 マスターの低い声が、透き通っていた日々を思い出させてくれた。

 えりさんと他愛のない話をして、視界の隅には無言のマスター。

 コーヒーを注ぐ後ろ姿をいつも見ていた。

 

 「――お久しぶり、です」

 何も言わずただこちらを見つめるマスター。

 その真っ直ぐな視線に、なぜか体が縮こまる。

 昔ならそんなことはなかったのに。

 

 それでも、久々の再会で頬が緩みそうになった。

 そんな時だった。

 突然ポケットが揺れ出し、スマホを手に取ると画面に文字が浮かんでいた。

 

 荒木。

 

 ただの文字なのに、手が震えだし、吸い込んだ息を吐けずに肺を膨らませ続けた。

 「――どうしたんだい」

 マスターの一言が耳に触れ、飛びつくように顔を上げた。

 視線の先のえりさんが先ほどの笑顔を少し曇らせ、こちらを見ていた。

 彼女と目が合い、思わず視線を逸らした。

 「あ、いえっ……何でもない、です。ちょっと職場から。すみませんまた……」

 椅子から立ち上がり、帰ろうとすると視界の端で手が伸びてきたことに気がついた。

 だが、触れられる前に背を向け歩き出した。

 「ふじく――」

 気遣う声に気がつかないふりをして、息を止め店を出た。

 

 地面を見つめて歩き続け、家の玄関に飛び込んだ。

 扉を勢いよく閉めると、靴棚の上に置かれた写真立てが揺れ落ち、音を鳴らしてガラス片を撒き散らした。

 割ってしまった写真立てに視線を落とすと、散りばめられた凶器の中に埋まる写真と、目が合った。

 残された唯一の家族写真に手を伸ばし、ガラス片を振り払い、拾い上げたそれを握り締めた。

 「父さん……母さん……」

 もう一度会いたい。会って話したい。優しく微笑んで欲しい。

 

 ずっと、一緒にいたかった。

 

 顔を上げたときには、外の夕焼けは鮮やかさを失っていた。

 何も持っていなかった手は、床に散らばる透明な破片をいつの間にか握っていた。

 煌めく破片は赤く染まり、首筋が冷たい。

 針の音だけが鳴り続ける。

 

 抜け落ちたように手を下ろした。

 肌に当てたそれをどうしても振り抜けず、投げ捨てた。

 スマホから溢れだす悪意へ目を向ける。

 ――あぁ、やっぱり。

 続く不在着信の履歴。

 その後に残された数件のメッセージ。

 言葉が凶器に姿を変え、牙を剥いていた。

 震えた指で赦しを乞う言葉を贈る。それが届かないと分かっていても。

 贈った言葉は跳ね返され、喉に突き刺さった。

 『俺の手を煩わせる気か?』


 動けないまま、時間だけが流れていた。

 写真を手の中で潰し、薄汚れた靴を呆然と眺めていた。

 ふいに、こつんと静かな靴の音が頭に響いた。

 窓の外から聞こえてきた電車の音が胸の底を揺らす。

 鈴の音が耳を包んだ。

 固まった体が、薄い月明かりに惹かれ、立ち上がる。

 

 あの瞳は、自分を見ない。

 あの蒼に、触れることは出来ない。


 そんなことは、どうでもよかった。

 ただ、溺れたかった。

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