蒼に焦がれる
駅を飛び出て古びた自転車に乗り、チェーンの錆びを鳴らした。
口から洩れる白い息が顔に張り付き、冷えた頬を温める。だが、どれだけ吐いても胸の奥に残る衝撃は、色濃いままだった。
錆びついた自転車は家を前に限界を迎え、チェーンがはじけ飛んだ。急に軽くなったペダルにバランスを奪われ、冷たい地面に飛び込んでしまう。
すり減った膝が涙を溢したことに気がつけなかった。
古びた階段を駆け上り、震える指で鍵を刺し込み、軋む部屋へと飛び込む。
鍵をかける音が、自分だけの空間へと閉じ込めてくれた。
肺に残る冷たさを感じながら、暗い部屋を歩く。
明かりはつけられなかった。
着ていた外套を脱ぎ捨て、足元のゴミをどかし佇む。
――もう1度、会えたら。
だが、彼女の眼差しを思い出し、肩が小さく震えた。
拭えない何かから隠れるため、布団へと潜り込んだ。
布団に沈み、光を閉ざす。
沈黙した部屋を、鼓動の音が埋めていく。吐息がゆっくりと、零れた。
暗闇の中で、あの瞳を求めた。
息が届かず、溺れる。
息苦しさに飛び起きると、汗で濡れた体に服が張り付いていた。
視界の隅で遅れてスマホが光り震えだす。窓から伝わる冷気が、体の線を撫でた。
喉が渇きを訴えていた。
肌寒さで身震いをしながら布団を這い出た。
ぼんやりとした足で台所に立ち、水を飲み込む。
もう一度寝ようと布団へ向かったが、踏みつけたざらつきで、足が止まる。
足元を見て喉元が絞めつけられた。
「……掃除、しなきゃ」
近くのゴミごと、それを握り締めた。
広くなった床に、橙に染まる光が差している。
外を歩く子供の無邪気な笑い声が部屋に入り込み、つられて胃袋が小さく鳴いた。
腹を撫でながら開けた冷蔵庫には、冷気しか残されていなかった。
乾いていたグラスを掴みとり、水を押し込む。
だが、胃の騒がしさだけが膨らんでいく。
「――外、か」
ボロボロの靴を履き、やけに重い扉を押し開けた。
閑散とした町には、シャッターの灰色だけが残る店が並んでいる。
町の景色を横目に、道の端を歩いていく。
ぼんやりと歩いているうちに駅へ向かう道を逸れていた。そこは見覚えのある通りだった。
立ち止まると、どこかから流れてきた砂糖の焦げた匂いが、鼻先を掠める。
懐かしさを感じ、誘われるまま辿り着いたのは、小さな木造の店。
店を前に入るのを躊躇ったが、腹の音が体を押しだした。
からんからんと、乾いた音が歓迎を鳴らした。
静かに流れるクラシック、カップとソーサーの触れる音。
店内は、高校時代と変わらない空間のままだった。
追想に浸りながらも平静を装い、周りを見渡す。
店の奥にいた白髪交じりの女性店員と目が合い、出迎えてくれた。
少しだけ老けた懐かしい記憶の人。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
彼女の柔らかい声に頷くと、カウンター席へと案内された。
そこは、よく座っていた隅の席だった。
「ねぇ、もしかして藤君?」
椅子に腰かけると店員が話しかけてきた。
「はい、――お久しぶり、です」
5年という歳月を経て足を運んだ、思い出の場所。
とっくに忘れられているものだと、思っていた。
「そうだよね、良かった」
答えを聞いた店員は胸に手を当て、頬を緩める。
先ほど出迎えてくれたときよりも、表情が柔らかかった。
彼女は、少し上を見ながら指を折っている。
「5年ぶりぐらいよね。 すっかり大きくなって」
「そうですね、そのぐらいかと。……えりさんも、元気そうで」
「えぇ、前より全然皺が増えちゃったけどね」
隣に腰かけたえりさんはこちらを懐かしそうに見ていた。
「藤君は、少し痩せたかしら」
えりさんが頬に触れようと、手を伸ばしてきた。
だが彼女は触れることを躊躇い、机に置いた自分の手のひらにそっと重ねてきた。
彼女の体温は冷たい。
「あ、ちょっと待ってね。――あの人呼ばなきゃ」
えりさんは誰かを呼ぼうと立ち上がり、そばを離れてしまう。
小さい後姿は、思い出のまま。
ふいに背中を隙間風が掠める。
手のひらだけが、机の上に残されていた。
「ほら、藤君だよ。昔うちによく来てくれてた――」
戻ってきたえりさんは奥にいたマスターを連れてきた。
増えた白髪に伸びた髭。昔と変わらない掘りの深い顔。
無表情のまま、こちらを真っ直ぐと見る目は少し凄みがあったが、不思議と怖さはなかった。
「藤……あぁ、大きくなったもんだな」
マスターの低い声が、透き通っていた日々を思い出させてくれた。
えりさんと他愛のない話をして、視界の隅には無言のマスター。
コーヒーを注ぐ後ろ姿をいつも見ていた。
「――お久しぶり、です」
何も言わずただこちらを見つめるマスター。
その真っ直ぐな視線に、なぜか体が縮こまる。
昔ならそんなことはなかったのに。
それでも、久々の再会で頬が緩みそうになった。
そんな時だった。
突然ポケットが揺れ出し、スマホを手に取ると画面に文字が浮かんでいた。
荒木。
ただの文字なのに、手が震えだし、吸い込んだ息を吐けずに肺を膨らませ続けた。
「――どうしたんだい」
マスターの一言が耳に触れ、飛びつくように顔を上げた。
視線の先のえりさんが先ほどの笑顔を少し曇らせ、こちらを見ていた。
彼女と目が合い、思わず視線を逸らした。
「あ、いえっ……何でもない、です。ちょっと職場から。すみませんまた……」
椅子から立ち上がり、帰ろうとすると視界の端で手が伸びてきたことに気がついた。
だが、触れられる前に背を向け歩き出した。
「ふじく――」
気遣う声に気がつかないふりをして、息を止め店を出た。
地面を見つめて歩き続け、家の玄関に飛び込んだ。
扉を勢いよく閉めると、靴棚の上に置かれた写真立てが揺れ落ち、音を鳴らしてガラス片を撒き散らした。
割ってしまった写真立てに視線を落とすと、散りばめられた凶器の中に埋まる写真と、目が合った。
残された唯一の家族写真に手を伸ばし、ガラス片を振り払い、拾い上げたそれを握り締めた。
「父さん……母さん……」
もう一度会いたい。会って話したい。優しく微笑んで欲しい。
ずっと、一緒にいたかった。
顔を上げたときには、外の夕焼けは鮮やかさを失っていた。
何も持っていなかった手は、床に散らばる透明な破片をいつの間にか握っていた。
煌めく破片は赤く染まり、首筋が冷たい。
針の音だけが鳴り続ける。
抜け落ちたように手を下ろした。
肌に当てたそれをどうしても振り抜けず、投げ捨てた。
スマホから溢れだす悪意へ目を向ける。
――あぁ、やっぱり。
続く不在着信の履歴。
その後に残された数件のメッセージ。
言葉が凶器に姿を変え、牙を剥いていた。
震えた指で赦しを乞う言葉を贈る。それが届かないと分かっていても。
贈った言葉は跳ね返され、喉に突き刺さった。
『俺の手を煩わせる気か?』
動けないまま、時間だけが流れていた。
写真を手の中で潰し、薄汚れた靴を呆然と眺めていた。
ふいに、こつんと静かな靴の音が頭に響いた。
窓の外から聞こえてきた電車の音が胸の底を揺らす。
鈴の音が耳を包んだ。
固まった体が、薄い月明かりに惹かれ、立ち上がる。
あの瞳は、自分を見ない。
あの蒼に、触れることは出来ない。
そんなことは、どうでもよかった。
ただ、溺れたかった。




