最初の翅音
この作品に目を止めていただき、ありがとうございます。
『雪ノ滓』は、過去を抱えて生きる一人の青年の物語です。
失ったものは戻らず、過去も消えることはない。
消えない枷に囚われても、それでも生きていく。
そんなことを考えながら書きました。
実際に読んでいただいた後、心にほんの少しでも残るものがあれば幸いです。
『最終のご案内です――』
重たい体を引きずりながら歩き、ホームに立つ。アナウンスの声は響きながら遠くへ流れていく。口を隠したマスクを取ると、夜風が汗ばんだ肌を撫でた。
電車を待ち、駅のホームで柱に背を預け、聞き飽きた電子音のこだまが今日も耳を埋める。
取り出して覗いたスマホには、知らない人達の楽しそうな写真ばかりが映し出される。画面に触れる指は、徐々に重くなる。下ろした手の中で、見ることを止めた画面だけが光を放っている。
遠くから鉄の擦れる音が耳に触れ、顔を上げると光が目を眩ませた。繰り返す電子音が声色を変えて、電車の到着を知らせた。
柱に預けていた重たい体を起こし、到着した電車の入り口に立つ。開いたドアから流れ出た湿った空気が微かに鼻を刺激した。だが、鼻腔に残る腐臭と比べれば心地良いものだった。
擦り切れた布地に腰を下ろして息を吸い、俯きながらゆっくりと目を閉じる。背もたれに体を預けるとじわりと疲れが抜け落ちていく。
閑散としたホームでは未だに電子音が寂しそうに流れていた。
電車の出発を待ち、ぼんやりとした意識の中へ音が入り込んできた。小さく掠れた足音。
こだましていた電子音は薄らぎ、ふいに湧いた冷たさが首筋を覆う。背を撫でるように鳥肌が立ち、思わず瞼を上げる。
視界の隅に、黒いヒールがいた。
黒の輝きに目を向けると、耳元で自分の浅い息が響いた。感じていた音や匂いは徐々に褪せていき、飲み込んだはずの唾は喉にへばりつき呼吸を遮る。
視界は、深海のような蒼光に浸食されていく。
滲みだす蒼を辿り、顔を上げた。
彼女はそこにいた。
流れるような黒い長髪は光を吸い込み、窓に映る背には一瞬、羽があるように見えた。
こちらを見ていない彼女に目を奪われ、眼が乾いて瞬きを求めても、瞼を動かせなかった。
彼女の視線がこちらを見ようとしてようやく自分の体は動き、慌てて顔を下げた。顔には熱が張り付き、背中に浮かんだ鳥肌はいつの間にか汗へと変わっていた。
ポケットのスマホを掴み、意識を逃がそうとした。だが、取り出したスマホを触る指は震え、まともに持っていられなかった。それでも指先は意味も無く消えた画面を撫で続けた。
自分の鼓動が耳を覆っていた。胸を叩き続ける音の気持ち悪さから離れようと体を持ち上げる。だが、彼女の影を跨ごうとした足は地から離れることが出来なかった。
静寂に包まれた車両で画面の消えたスマホを見つめ、何も映さない黒に逃げ場を探した。
少ししてホームに発車の合図が響き渡る。彼女の世界に迷い込んだまま、街の喧騒から離れていく。
スマホを見ることを止め、横目で夜の色で染まる街を眺めていた。彼女が映らないように目を逸らし、彼女に映らないよう息を潜めた。
鼓動がゆっくりと流れだした頃、先頭の唸るような音に驚いた体は微かに跳ね、窓に頭をぶつけてしまう。思わず漏れ出た声を塞ぐように、口元に手を当てた。
すると、転がる鈴の声が耳に触れた。
「君、せわしないね」
声のする方へと視線は無意識に向かってしまった。
切れ長の目があった。彼女がこちらを見ていた。
だが、目を見てすぐに気がついてしまった。
その瞳には、自分がいなかった。
顔を伏せることしかできなかった。
声を、出せなかった。
最寄り駅に到着するアナウンスを電車が呟いた。
顔を伏せてからも、見られている感覚は拭えずにいる。
それなのに、自分は映っていない。
静かに動く車窓から覗く町は、暗がりに沈んでいた。その中で街灯だけが、静かに光を放っている。
ゆっくりと、電車は速度を落としていく。
顔も上げずに席を立ち、彼女の蒼に背を向けた。
もう、一度触れたい。
だが振り向いたところで、二度目はないのだろう。
扉が開き、外気が入り込むより先に、逃げ出した。
飛び込んだホームの冷たさで、頬は刺されるような痛みを抱える。改札を抜け吐いた息は、ざわめきを薄くしていく。この鼓動が満たされることはないと知っていた。それでも振り返ってしまった。
だが、電車はとうに通り過ぎていた。
口から洩れた白い熱を追いかけ、視線を誤魔化す。力が抜けたまま歩き出そうとした時だった。反対ホームが目に留まり呼吸が静かに消える。
暗がりに消えていく彼女がそこにはいた。
沈むはずの鼓動が息を吹き返した。
彼女を通した自動ドアは閉まり、自分の姿を反射する。
翅が、生えていた。




