第六十一話 灰色の世界
ー前回のあらすじ
犬飼 魔虎と二階堂 千智が、聖与を去った。
そして、二人で魔戒を討伐していく。
翌日。
雨は上がっていた。
だが空は依然として厚い雲に覆われ、陽の光はほとんど差し込まない。湿った空気が地面にまとわりつき、わずかな風が吹くたびに、冷たい水気を含んだ匂いが鼻を掠めた。
荒れた舗装路の端。
崩れかけたガードレールのそばに、千智は腰を下ろしていた。
指先でスマホを操作している。
無機質な画面の光が、曇天の下でわずかに浮かび上がる。
その視線は真剣だったが、どこか落ち着かない。
打ち込んでは止まり、少し間を置いてまた指を動かす。
その繰り返し。
――……
短く息を吐く。
ほんのわずか、肩の力が抜けた。
その時。
「二階堂」
背後から声が落ちた。
「っ……」
小さく肩が揺れる。
反射的にスマホの操作を止め、画面を伏せるように持ち替える。
振り返ると、すぐ後ろに魔虎が立っていた。
足音はほとんどなかった。
いつの間にか距離を詰められている。
「どうした」
魔虎が訝しげに目を細める。
千智は一瞬だけ言葉を探す。
だが、すぐにいつもの表情に戻した。
「いえ、少し時間を確認していただけです」
「そうか」
それ以上、魔虎は追及しない。
興味がないのか、それとも必要ないと判断したのか。
どちらにせよ、その態度は淡白だった。
魔虎はそのまま視線を前へ戻す。
遠くまで続く荒れた道路。
ひび割れたアスファルトの隙間には、雑草がしぶとく根を張っている。
人の気配はない。
ただ、静寂だけが広がっていた。
「そろそろ行くぞ」
低い声。
休息の終わりを告げる一言。
千智はゆっくりと立ち上がる。
「……はい」
短く返事をする。
足元の水たまりを踏み越え、魔虎の隣へ並ぶ。
その横顔を見る。
変わらない。
いや、変わっている。
感情の起伏が削ぎ落とされたような、冷えた表情。
視線は前だけを見ている。
――やっぱり……
言葉にはしない。
ただ、歩き出す。
数分後。
空気が変わった。
わずかに、肌を刺すような気配。
魔虎の足が止まる。
「来るな」
その直後だった。
空気を裂く音。
黒い影が視界の端から飛び込んでくる。
上戒。
異様に長い腕が振りかぶられ、一直線に振り下ろされた。
速度は速い。
常人なら反応すらできない。
だが。
魔虎は一歩、横にずれた。
それだけだった。
紙一重。
爪が通過した軌道に、風圧だけが残る。
地面が抉れ、破片が飛び散る。
魔虎はそのまま間合いへ踏み込む。
距離が一瞬で詰まる。
上戒が咆哮する。
次の攻撃へ移ろうとするが、遅い。
あまりにも遅い。
「遅いな……」
淡々と呟く。
右腕が熱を帯び、蒼炎を纏う。
そして、内側に圧縮された力が収束する。
拳を握る。
「烈掌……」
振り抜かれた。
ドンッ――。
空気が潰れる。
衝撃が一点に叩き込まれる。
上戒の胴体が歪む。
内側から破裂するように崩壊した。
黒い塵となり、音もなく消えていく。
静寂が戻る。
あまりにも短い決着。
千智はわずかに息を止めていた。
――やっぱり……
強い。
それだけでは足りない。
圧倒的すぎる。
以前の戦い方とは明らかに違う。
無駄がない。
迷いもない。
ただ、最短で終わらせるための動きだけが残っている。
魔虎が手を下ろす。
何事もなかったかのように。
そのまま歩き出そうとする。
「犬飼さん」
千智が声をかける。
ほんの一瞬、迷いを挟んで。
「少し休んだ方が……」
言葉を選びながら続ける。
「ここ一日で、かなりの数を討伐しています。蓄積は確実に――」
「いや、いい」
遮られた。
間髪入れずに。
魔虎は振り返らない。
足も止めない。
ただ前を見たまま言う。
「問題ねぇ」
その声は静かだった。
だが、揺らぎがない。
千智は一歩だけ遅れて歩きながら続ける。
「ですが――」
その言葉も、途中で止まった。
魔虎が、わずかに視線を下げたからだ。
ほんの一瞬。
だが、その瞬間に空気が変わった。
「霊閻って奴を殺すまで」
低く、押し殺した声。
「休むわけにはいかねぇ……」
その言葉は、地面に落ちる雨粒のように重く沈んだ。
怒り。
悲しみ。
どちらとも違う。
ただ、固まった意志だけがそこにある。
千智は何も言わない。
言えない。
――止まらない……
それでも、視線は逸らさない。
「……分かりました」
静かに返す。
それ以上は踏み込まない。
踏み込めない。
魔虎の隣を歩く。
同じ速度で。
同じ方向へ。
ひび割れた道路の先。
曇天の下、終わりの見えない道が続いている。
風が吹く。
湿った空気が流れる。
その中で、魔虎がぽつりと呟いた。
「……まだ足りねぇな」
誰に向けた言葉でもない。
だが確かに、何かを求めている声だった。
二人の影が、静かに遠ざかっていく。
灰色の世界の中へ。




