7. ぬくもり
何かがずっと、心の中に引っ掛かっていた。
ここ数日間、彼女は見たところ元気で俺が見舞いに行った時も好きな本の話を楽しそうにしてくれた。
だから俺はちょっとだけ安心してしまっていた。彼女がずっと、身体がきついのを我慢して無理して笑っていたことに気づかなかった。
「桜田さんの様態が急変したそうです…!」
副担任の土屋先生にそう告げられた時、自分が大きな間違いを犯してしまったことを知った。
「…神崎、先生はすぐに病院に行く。お前はどうする?」
「俺も行きます」
佐々木先生は俺に午後の授業に残るように強制しなかった。おそらく今の彼女の状態を考えると、最悪の状況になる可能性もあると判断したからだろう。その場合、彼女の恋人である俺には選ぶ権利があると彼は考えたのだ。
「よし。じゃあすぐに先生の車で病院に行こう」
「お願いします」
俺と佐々木先生は急いで校舎から出て車に乗り込む。
「時衣…」
授業中居眠りをしている間に見た夢が何度も何度もフラッシュバックする。夢の中で誰かが「たすけて」と言った。きっとあれは時衣の声だ。
たすけて
たすけて
たすけて…凉
その声が自分の妄想なのか、彼女の心の声だったのかは分からない。けれど彼女が今大変な状況であることだけははっきりしていた。
平日の真昼間なのにいつもより道が混んでいて、佐々木先生の運転する車の助手席に座る俺は、彼女の無事をただひたすら祈るばかりだった。
病院に着いた俺たちは急ぎ足で彼女の病室の前まで向かった。佐々木先生はもう何度も見舞いに来たからなのか、彼女の病室の場所をちゃんと知っていた。
病室の前で一瞬躊躇った後先生と顔を見合わせて頷き合い、コンコンと軽くノックをしてから扉をそっと開けた。
「時衣!」
彼女はいつものようにそこにいた。
ベッドの上で上体を起こし、何もない壁をぼうっと見つめているようだった。
扉を開けるまで、もしかしたら彼女が部屋にいないかもしれないと覚悟していた俺は、彼女の無事を知ってほっと胸を撫で下ろす。
「…先生、凉…」
俺や佐々木先生の存在に気づいた彼女はゆっくりと顔をこちらに向け、淡く微笑んだ。
「病院から桜田の様態が良くないと知らせがあってな。急いで飛んできたが…大丈夫か」
「はい。お昼前にちょっと気分が悪くなって…。さっきまで集中治療室に入れられてましたけど今はもう大丈夫です」
「そうか…良かった。思ったよりひどくはなさそうだな」
「ええ」
いつもと変わらない時衣の様子を見た先生も安心したらしく、俺の背中をポンと叩いた。まるで俺に「良かったな」と言ってくれているようだった。
「じゃあ先生は医師に話を聞いて学校に戻るから、あとは神崎、桜田を頼んだぞ」
そう言って先生は病室から退散しようした。
「あ、先生ちょっと!」
一緒に来たのに一人残されることが腑に落ちない俺は佐々木先生を呼び止めた。
「何だ神崎」
「俺、戻らなくていいんですか」
「ああ。今回は特別に許可するよ」
「でも…」
「神崎、お前は黙って桜田の側にいてやれ。先生からのお願いだ」
「…分かりました」
佐々木先生は二カッと笑って病室を後にした。
二人だけになった病室はいつも俺が彼女を見舞いに来る時と何も変わらないはずなのに、いつもよりどこかよそよそしく感じられた。
俺は彼女のベッドまでゆっくりと歩み寄り、端に置かれていた小さな椅子を側に持ってきて座った。
「時衣…本当に大丈夫か?」
「うん。心配かけてごめんなさい」
「いや、お前が謝ることない。俺がお前の体調をもっと気にしてやれば良かったんだ…」
「凉、それは違うわ。今日は偶々体調が悪くなっただけで、誰も分からなかったことよ。だから凉は、」
「違わないんだっ!」
俺は彼女の言葉をさえぎってつい大きな声を出してしまう。その声に彼女はびっくりしたようで、ビクッと肩を震わせていた。
「あ…いや、ごめん…。俺、今日なんか変だ」
「ううん…私、無神経だったよね…。ごめんね」
彼女はまるで自分に非があるみたいにしゅんとして謝る。
俺は彼女に謝らせてしまった自分が情けなくて、ひどく悔しかった。
「違うんだよ…時衣。お前、本当は今朝…いや、今朝だけじゃなくてここ最近、ずっと体調良くなかったんだろう?それなのに、無理して笑ってくれてたんだよな。俺に心配させないようにしてくれてたんだな…。気づけなくて本当に悪かった」
「凉…」
時衣は切ない表情で俺の名を呟く。
俺のこと、頼りない彼氏だと思っているのだろうか。だけど、そう思われても仕方がない。俺は彼女のSOSにも気づかないぐらい自分のことしか考えていなかったのだから。
彼女を見ると、先程のように切なげな瞳で俺を見ていた。でも、そのうち膝の上でぎゅっと硬く握りしめていた俺の左手に自らの右手をそっと添えてにっこりと笑って口を開いた。
「凉はバカね。私、あなたが悪いなんて全然思ってないわ。確かにちょっと無理してたのは認めるけど…でも、毎日凉と話せて本当に嬉しいの。ちょっとくらい体調が悪くたって、そんなの気にならないぐらい楽しいから」
だから私は笑うんだよ、と彼女は言った。
その言葉に俺がどれほど救われたか、きっとお前は知らないだろう。
彼女の添えられた手から徐々に温もりが伝わってきて、気が付くと俺は泣きそうになっていた。
「ねぇ凉。私、凉と会えてこんなに幸せになれるなんて思わなかった。凉と出会う前は、他人のこと全然信じられなかったから。でも今は、凉と話せることが本当に楽しい。心からそう思ってる。だから…」
俺はどきどきしながら彼女の次の言葉を待った。彼女が紡ぐ言葉を、一つも聞き逃したくなかった。
けれど彼女はそんな俺の期待とは裏腹に、なぜか俺の手から自分の手を離した。同時に彼女の温もりがすうっと引いてゆくのが分かった。
「だから私と……別れましょう」
つづく