第1話 落ちこぼれの船出と、遠すぎる彼女
なんだこれは……。
思わず声に出そうになったのを、ぎりぎりのところで飲み込んだ。
喉の奥に詰まった言葉が苦くて、息苦しい。
目の前に広がる光景は、俺がこれまで生きてきた人生のどこにもなかった。
煌めくシャンデリア。
漆黒の床に映る無数の革靴。
ホテルの大広間を埋め尽くす、完璧なスーツ姿の男女たち——全員が自信に満ちた笑みを浮かべ、まるで“勝ち組”の定義をそのまま形にしたような雰囲気を纏っている。
ここは、大手総合商社「安宅興商」の入社式会場。
俺の名前は青島直人。
Fラン大学、しかもほぼ留年寸前で卒業。
人事ミスか神様の気まぐれか、奇跡のようにここへたどり着いた凡人中の凡人だ。
「……マジかよ、これ」
小声で呟いた言葉は、会場のざわめきにあっさりと呑まれた。
周囲にいる“それっぽい”奴らの会話が耳に入ってくる。
「俺、TOEIC950だったから、海外駐在確定だわ」
「親父が役員やってるからさ、とりあえず部門希望は通るよね」
まるで別の言語みたいに、彼らの言葉が俺には遠く聞こえた。俺は……間違いなく場違いなんだ。
例えるなら、初期装備の村人が魔王城の玉座前に連れてこられたような、そんな感覚。いや、まだ武器すら持ってない。
不意に背後から、嫌な予感のする声がした。
「おい、お前、名前なんて言うんだ?」
振り返ると、光沢のあるスーツを着こなし、完璧に整った髪型の男が立っていた。
目つきも鋭く、笑みは挑発的。名札には『長嶋啓二』とある。たしか、東大法学部出身、学生起業経験あり……だったか。
「あ、青島直人です」
声が上ずったのを自分でも分かった。緊張で汗がじわっと滲む。
長嶋は俺を見下すようにして、小さく鼻で笑った。
「青島? どこの大学?」
「……城東工業大学です」
その瞬間、彼の表情が明確に変わった。
ニヤリと軽蔑の笑みを浮かべる。
「はっ。城東工業? 聞いたことねぇ。よく受かったな、こんなとこに。あ、裏口か?」
ズキリ、と心に何かが突き刺さった。
何も言い返せない自分が惨めで仕方ない。
「ま、せいぜい足を引っ張るなよ」
そう言い残し、長嶋は同じような“勝ち組”の輪の中へと戻っていった。
俺は、壁際に逃げるように移動し、息を吐いた。いきなりこんな洗礼。
先が思いやられる。
そのときだった。
「あの……君も、もしかして……居心地悪い?」
おずおずとした声に振り向くと、丸眼鏡に柔らかい表情をした青年が立っていた。
胸元の名札には『枦谷優斗』とある。
彼もまた、どことなく不安げでキョロキョロと周囲を見渡していた。
「うん、まぁ……俺、完全に浮いてる感じ」
「俺も……地方国立なんだけど、周りすごすぎてさ」
俺たちは思わず笑ってしまった。
味方を見つけた安心感。
戦場の中で偶然出会った同士みたいな連帯感が、そこにはあった。
そして、地獄のような新人研修が始まった。
初日からグループディスカッションでは、長嶋や、私立トップ大卒で英語ペラペラの長谷川浩紀が中心となり、完全に主導権を握っていた。
俺は頷くことすら遅れてしまい、発言どころか、存在感すら失っていく。
美人すぎる新入社員として注目を浴びていた長峰幸は、容姿だけでなく仕事の腕も一流だった。
プレゼンでは誰もが唸るような切り口を見せ、資料のビジュアル構成まで完璧。隣にいた大沢葵も明るく元気なムードメーカーで、チームを一気に活気づけてくれる。
——俺が、パワポで図形の配置を間違えてアタフタしてる間に、だ。
「青島、お前のとこ、まだできてないの?」
長嶋の鋭い声が飛ぶ。
「す、すまん……今やってる」
「もういい、俺がやる」
無造作にノートPCを奪われた瞬間、心の中で何かが崩れた。
研修後の帰り道、枦谷が横でぼそりと呟いた。
「……青島、大丈夫?」
「わかんねぇ。でも、もうヤバいかも」
枦谷はしばらく黙ってから、ぽつりと続けた。
「俺さ、入社できたとき、少しは人生変わるかなって思ったんだ。でも、変わったのは“周囲”だけだったな」
「だよな。努力が報われる場所かと思ったけど……なんか、違う」
お互い、気休めすら言えなかった。けれどその夜、寮の部屋で一人考えた。
——このまま、俺は埋もれて終わるのか?
そんな中、予想外の出来事が起こる。
次の日のグループ発表で、俺が担当することになったのは、サプライチェーンの事例紹介。
資料作成は長嶋とペアになった。
「青島くん、パワポのレイアウトは私やるから、内容だけちょっと調べてもらえる?」
彼女の笑顔は、太陽みたいに明るかった。でも俺は戸惑った。
なぜ、長峰幸が俺なんかに笑ってくれる?
「……分かった。やってみる」
覚悟を決め、俺は徹夜で資料を読み込み、初めて“自分の言葉”でまとめあげた。
発表当日、長峰は俺の原稿をちらりと見て、ふふっと微笑んだ。
「青島くん、これすごく分かりやすいね。安心して、発表は任せて」
そして彼女は、俺の作った原稿をもとに、堂々とプレゼンを展開してくれた。
誇張なしに、会場が静まり返るほどの完成度だった。
終わったあと、彼女がこっそりと耳打ちしてきた。
「ありがとう、青島くん。君のおかげだよ」
——あの一言で、救われた気がした。
その夜、枦谷に報告すると、彼は満面の笑みを浮かべて言った。
「よかったじゃん、青島。お前の番が、やっと来たな」
でもその直後、彼は真顔になって、ぽつりとつぶやいた。
「……俺も、がんばらなきゃな」
俺たちの戦いは、まだ始まったばかりだ。
けれどこの日を境に、ほんの少しだけ、心の奥で“希望”の芽が膨らんだ。
——たとえFラン大卒でも、這い上がってやる。
——いつか、あの太陽みたいな彼女の隣に、堂々と立てる男になるために。




