第41章 決まってしまった未来——それでも離さない
「陛下、これはどういうことです」
ウィルは兄であるエドワード国王へ鋭い視線を向けた。
長旅から戻ったばかりなのだろう。外套にはまだ薄く砂埃が残っている。
それでも、瞳だけは怒りを隠そうともしていなかった。
「婚約者である私が戻る前に、アリスを呼び出し、すべてを決めてしまわれるとは」
低く抑えられた声だった。
だが、その奥に押し殺した感情が滲んでいる。
エドワードはしばらく黙ってウィルを見つめ、それから息を吐いた。
「戻ってきたか」
短くそう言ってから、厳しい表情のまま続ける。
「アリス様には、早めに決断をしていただいた。この国と国民を、一時でも戦火から遠ざけられる可能性があるのなら、その道を選ばざるを得ない」
その声音には、国王としての重さが滲んでいた。
「……お前にも、分かっているはずだ」
ウィルの眉がわずかに寄る。
アリスは、早めに決断したのは自分なのだと伝えようと口を開く。
「あの、ウィル様……国王様は……」
エドワードがアリスへ首を横に振り、その言葉を遮る。
「これは、トルシア国王としての判断だ。お前に納得してほしいとは言えない。だが……ここは堪えてほしい」
苦しげな声音だった。
ウィルはしばらく何も言わず、やがて怒りを押し出すように深く息を吐く。
どうにもならないことくらい、誰より分かっている。
だからこそ、この苛立ちは自身に向けたものだった。
アリスはウィルの険しい横顔を見つめていた。
――ウィル様に苦しい思いをさせていると思うと、胸が痛い。
それでも。
――私のために怒ってくれた。
その想いがどうしようもなく嬉しかった。
だからこそ、これ以上望んではいけない。
「ゼリアからの迎えが来るのは2日後だ」
エドワードが告げる。
「あちらの使者へアリス王女を引き渡すことが、こちらの返答となる」
「……あまりに早すぎる」
ウィルが悔しさを滲ませるように呟いた。
「こちらの動きを見越しているのだろう」
エドワードは苦々しい表情を浮かべる。
二日後。
その言葉に、アリスは息を止めた。
その短い時間の先に、自分がゼリアへ向かう現実がある。
決めたのは自分なのに、こうして期限を突きつけられると、急に足元が崩れていくような不安に襲われる。
知らず知らずのうちに、指先が震えていた。
ウィルは隣に立つアリスを見つめる。
青ざめていく顔は、不安を押し隠そうとしているのに隠しきれていなかった。
その姿に、一瞬だけ苦しげに目を伏せた。
そして再びエドワードへ向き直る。
「……話が終わりでしたら、私たちは退席いたします」
「あぁ、構わない」
エドワードが頷く。
「それから、アリスには、ゼリアの迎えが来るまで、私の屋敷へ滞在させます」
エドワードは一瞬だけ目を細め、了承した。
「分かった」
アリスは驚いたようにウィルを見上げる。
するとウィルは、先ほどまでの険しさを和らげ、穏やかな表情を浮かべた。
「では、帰りましょうか」
そう言って、腕を差し出す。
「……はい」
アリスは頷き、エドワードへ深く礼をした。
「失礼いたします」
それから、そっとウィルの腕へ手を添えた。
その温もりに触れた瞬間、張り詰めていた心が少しだけ緩みそうになり、アリスは唇を噛み締めた。
―――――――――――――――
馬車へ向かう間、お互いに会話はなかった。
それでも、ふと視線が合うたび、ウィル様が気遣ってくださっていることだけは伝わってきた。
それだけで、胸を締めつけていた不安がほんの少し和らいだ。
馬車へ乗り込んだ後も、私の左手を握ったまま、ウィル様は何も言わなかった。
その横顔が、とても苦しそうに見えた。
――きっと、ご自分を責めている。
私は膝の上で右手をギュッと握り締める。
これ以上、ウィル様を傷つけたくない。
「あの……」
「私は大丈夫です。だから、ウィル様も――」
最後まで言い切る前だった。
「あ……」
突然、握られていた左手を引かれて、気づけば、ウィル様の腕の中へ閉じ込められていた。
「頼むから、無理しないでくれ」
それだけだった。
その言葉だけで、必死に押さえ込んでいた感情が、一気に崩れていく。
視界が滲む。
次の瞬間には、涙が溢れて止まらなくなっていた。
「っ……う……」
嗚咽を堪えようとしても、うまく息ができない。
ウィル様は、幼い子どもをあやすように、ゆっくりと髪を撫で続けてくれる。
その手が優しすぎて、余計に涙が止まらなくて――。
ただ、泣き続けた。
少しずつ呼吸が落ち着いてきた頃、ウィル様の左手が私の頬を包み込むように触れ、俯いていた私の顔をそっと上へ向けた。
指先が頬を伝う涙を優しく拭う。
「……っ」
至近距離で視線が重なり、熱が一気に頬へ集まっていく。
「えっと、……」
うまく言葉がまとまらない。
「今、泣いて……ひどい顔で……その……」
泣き顔を見られたくなくて、顔を逸らそうとする。
けれど、頬を包む温かな手は離れない。
次の瞬間、伝う涙へ触れるような口づけが落ちてきた。
「……っ」
驚いて目を見開く。
視線を逸らすこともできないまま、そっと唇が重なった。
初めての口づけに、頭の中が真っ白になる。
唇が離れても、ウィル様はじっと私を見つめていた。
恥ずかしくて、思わず視線を泳がせる。
「あ、あの……」
そのまま、再び温かな腕の中へ抱き寄せられた。
「どこにいても、オレの姫だ」
呟くような低い声だった。
――嬉しい。でも、苦しい。
何を返せばいいのか分からない。
ウィル様は少し不満そうに眉を寄せる。
「返事は」
どこか催促するような声音だった。
そっと顔を上げると、翡翠の瞳と目が合う。
せめて、今だけでも――ウィル様の姫でいたい。
「……はい」
この瞬間があまりにも幸せで、ウィル様の胸元へと顔を寄せた。
泣きすぎたせいか、ここ二日ほど眠れていなかったせいか、温かな腕の中が心地よくて、少しずつ瞼が下がっていく。
そんな私の様子に気づいたのか、また優しく髪を撫でてくれる。
「あの……私……」
眠りたくなくて、なんとか口を開く。
ウィル様の表情がふっと和らいだ。
「目を閉じていろ。眠れていないのだろう」
「はい……あまり……」
そう答えたところまでは覚えている。
次の瞬間には、私の意識はゆっくりと遠のいていった。




