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第40章 手放す前に


部屋の中には、リリスが淹れた紅茶の香りが広がっていた。

アリスは椅子へ腰掛けたまま、ぼんやりと窓の外の暗闇を見つめていた。


エドワード国王から話を聞かされた時は、ただ、ウィルとの別れが寂しくて苦しかった。

けれど、時間が経つごとに、ゼリアへ行くという現実も胸へ沈み込んでくる。


国賓というのは、あくまで表向きの理由なのだと、アリスにも分かっていた。

噂を確かめるために呼ばれたのだとしたら、自分にはいずれ良くない運命が待っているのかもしれない。


ふと、矢に射られそうになった恐怖が、脳裏をよぎる。


――もしかしたら、いつか……。


胸の奥へ、ゆっくりと不安が広がっていく。

無意識に首元のネックレスへ手が伸び、指先に触れた鈴蘭の飾りを、ぎゅっと握りしめた。


早く、決心を話さないと、余計なことを口にしてしまいそうで……。


アリスは少しだけ目を閉じてから、立ち上がる。


「……ウィル様が戻られる前に、返事をしないと」


自分に言い聞かせるようにつぶやく。その言葉に、リリスの手が止まる。


「……え?」


アリスは視線を落としたまま続けた。


「護衛騎士へお願いして、国王様へ面会を申し込んでくるわね。……ゼリアへ行く、と」


そう言って扉へ向かおうとした瞬間だった。


「お待ちください……!」


リリスが慌ててアリスの前へ回り込み、そのまま扉の前へ立ち塞がる。


「どうしてですか? どうして、ご自分の幸せを手放せるのですか?」


叫びに近いような声だった。


「私はアリス様に幸せでいてほしいんです。何より、ウィル殿下はアリス様のことをとても大切に思われています。」


「お願いですから、殿下にはアリス様の本当のお気持ちをお話しください」


その言葉に、アリスの胸が痛む。


「……選ばせるわけにはいかないの」


つぶやくような小さな声だった。


「え……?」


聞き返すリリスへ、アリスはわずかに目を伏せる。


「ウィル様は私にとてもお優しい、でも、ご自身にはとても厳しい方だから」


そして、両手を痛いほど握りしめてから、言葉を続けた。


「――ただ、苦しめてしまうだけだもの」


最後の方は絞り出すような声になった。


「あなたにも分かるでしょう?」


まるで、自身へ言い聞かせるように言葉を続けた。


「最初から、選択肢なんてないことが」


リリスはどうにもならない現実に唇を噛み締めた。


「ねえ、リリス。私、この数か月、本当に幸せだったの」


アリスは幸せそうに微笑んだ。けれど、その笑みは今にも泣きだしそうな儚さを帯びていく。


リリスの目が揺れる。


「だって、ウィル様が、ひとときでも私に心を割いてくださったんですもの」


アリスは一瞬目を伏せてから、リリスをしっかりと見つめた。


「だからこそ、この返事は、ウィル様が戻られる前にしなくてはいけないの」


それ以上、リリスは何も言えなかった。


ただ苦しそうに視線を落とし、それからゆっくりと身体を横へずらす。


「……わかりました」


「ありがとう、リリス」


アリスはリリスの腕へそっと手を添えた。


―――――――――――――――


翌日、夜。


「ゼリア国へ行くことを決めました」


アリスは、早めの面会を許してくれたことへの感謝を述べたあと、自分の決心をはっきりと言葉にした。


エドワード国王は、複雑な表情のままアリスを見つめていた。


せめて、ウィルと話をしてからにしてほしい、そう思っていたのだが——。


結論は変わらないのかもしれない。


だが、言葉を交わせば、未来に希望を持てる可能性だってある。


何より、たとえ奪われても、ウィルが諦めるはずがない。


それでも――彼女の目は、もうどこも見ていなかった。


諦めることが当たり前。


それが、アリス・ミルバーグという王女の人生だったのだと、改めて思い知らされる。


エドワードは深く息を吐き、国王としてではなく、ウィルの兄として口を開いた。


「……ウィルと話をしてから決めてほしいと、個人的には思っていたのだよ」


言い聞かせるような声だった。


「明日には戻ってくる」


その言葉にも、アリスは首を縦には振らなかった。


「お気遣いいただき、ありがとうございます。でも、これは私自身の問題ですから」


アリスはまっすぐエドワードを見つめた。


「ウィル様とは関係ありません」


その言葉に、エドワードは内心深くため息をついた。


――とても、ウィルには聞かせられない言葉だな。


だが同時に、国家としては、彼女の判断は正しい。


「アリス様。このような結果になってしまったこと、本当に申し訳ないと思っています」


エドワードは、苦しげな表情でそう告げた。


アリスは首を振る。


「いえ、大丈夫です。私には……」


言葉を続けかけた、その瞬間だった。


謁見の間の扉が、勢いよく開かれる。


「ウィル様……」


アリスの声が、かすかに震えた。


「アリス!!」


息を切らしたウィルが、そのまま謁見の間へ踏み込んでくる。


ウィルはアリスだけを射貫くように見つめた。


エドワードは思わず目を閉じる。


――間に合ったか。


わずかに肩の力が抜けた自分に、苦笑したくなる。


どこかで、間に合ってほしいと願っていたのだから。

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