第6話 厄災の魔女(6)
空気が張り詰めた。
数百年前の男が課したものと同じ構造を持つ問いを、ヴァレリアは究極の選択として私に向けてきた。
でも、私は一瞬も迷わない。
「なら、私が残ります」
私の顔に迷いはない。それどころか唇の端は不敵な笑みすら浮かんでいたと思う。
ヴァレリアの片眉が上がった。
「残念だけど仲間の誰かという言葉に、あなた自身は含まれないわ」
ヴァレリアの試すような声色の奥に、刃のような意志をヒシヒシと感じる。
「もう一度チャンスを与えてあげる。さあ、下の階にいる誰かの名前を言いなさい。でないと、永遠にここから出られないわよ?」
言葉が終わると同時に、手元の水晶球から音が溢れた。
轟音。破砕音。石と石が激突するような、重い羽ばたきの音。
『囲まれたか』
リョウの声だ。
『ローゼ、ここは我々にお任せを!』
ヴィレッタの声が続く。
塔の下層で、壁という壁から石造りのガーゴイルの大群が湧き出しているのが音だけで想像できた。
無数の翼と爪が、薄暗い空間を埋め尽くしている。
私は水晶球を握りしめ、ヴァレリアを見つめた。
「何度でも言います」
声が震えることはない。これが、私だから。
「私が誰かを犠牲に選ぶなら、私を選びます。……ですが」
そこで私は白銀の杖を構え、こう告げる。
「死ぬつもりは、毛頭ありません!」
私の叫びに呼応するように水晶球の向こうから、リョウの気合いが弾けた。
『ローゼ、俺たちは一切気にするな! やりたいようにやれ!』
『ローゼ、迷うことないわ! みんな、一匹残らず叩き落とすわよ!』
『当然です! 姉様! そっちも頑張ってください!』
『倒して食べ尽くしちゃうよ~!』
『いや、クリスさん、食べないっすからね?』
『守備はわたくしとフィーリアにお任せを!』
ベレニスの精密なレイピアが弧を描き、レオノールの双剣が閃き、クリスの炎が嵐のように広がり、フィーリアの援護が的確に仲間を繋ぎ、ヴィレッタの防壁が固く展開し、リョウの漆黒の剣が圧倒的な力でガーゴイルの群れを蹂躙していく音が、水晶球を通して私の耳に届く。
私の胸に温かいものが満ちていく。
どんな場所にいても、あの仲間たちが共にいる確信が、私の全身を貫く魔力の源泉になっていた。
ヴァレリアの表情から笑みが消え、真剣な光が赤紫の瞳に宿る。
「……本当に、可愛くない魔女ちゃんね」
彼女の華奢な右手に、おぞましいほどの魔力が収束し始めた。
室内の花々が一斉に枯れ落ちて灰と化し、テーブルの上の紅茶が瞬時に蒸発する。
窓から差し込んでいた午後の陽光すらも、彼女の手から溢れ出す漆黒の魔力の渦に飲み込まれ、部屋全体が夜の底のような暗闇に沈み込んでいく。
ヴァレリアの魔力が押し寄せてきた瞬間、私の脳裏に彼女の夫の迷いが消えた目が浮かぶ。
昨日まで愛していた人間が一秒で敵になる速度を、私は全身で受け取っていた。
それでも、私は一歩も退かない。
杖を両手で強く握り締め、胸の奥底から最高位の炎の魔力を練り上げる。
漆黒の闇を切り裂くように、白銀の杖の先端に灼熱の光が灯った。
両手に伝わる杖の確かな重み。顔を灼くような炎の熱量。
私の炎は彼女の闇とは違う。孤独から生まれたものではない。
ヴァレリアは問うた。人を殺すことはいけないことか、と。
私はまだ、答えを持っていない。
でも、この問いを抱えたまま前に進むと決めたのだから、答えの出ない問いを力に変えることくらいはできる。
「どいてください」
燃え盛る炎を前に押し出し、私は揺るぎない声で告げる。
「私は、仲間のもとへ帰ります!」
放たれた私の極大の炎と、ヴァレリアの放った漆黒の魔力弾が部屋の中央で激突した。
――ッ!
音が消えた。いや、あまりの轟音と衝撃に鼓膜が麻痺したのだ。
塔全体が大きく傾くほどの振動が走り、頑強な黒石の壁に亀裂が入っていく。
圧縮された炎と闇が空中で拮抗し、互いを喰らい合おうと凄まじい火花と魔力の乱気流を撒き散らしていた。
熱風と冷気が交互に吹き荒れ、床の石畳が次々と捲れ上がっていく。
「逃げる人生なんでしょう! なら、我が身可愛さで逃げなさいな!」
荒れ狂う魔力の嵐の向こうからヴァレリアが叫び、漆黒の闇が私の炎を押し返してくる。
絶望の重圧が、骨がきしむほどの力で私を圧し潰そうとしていた。
「ええ、逃げます! でもそれは、運命なんていう他者からの干渉から逃げるだけ!」
私は奥歯を噛み締め、両足で崩れゆく床を踏みしめる。
杖に全魔力を注ぎ込み、押し返してくる闇に向かって魂を削るように叫んだ。
「私は……私と仲間たちに振りかかる理不尽を、黙って受け入れるつもりはありませんッ!!」
瞬間、杖の先端から爆発的に膨れ上がった真紅の炎が、ヴァレリアの漆黒の闇を真っ二つに穿った。
絶望の闇を焼き尽くし、未来を切り開くための絶対的な熱量。
「……それは逃げると言わないわ」
炎がヴァレリアに迫る刹那。
彼女の呆れたような声が鼓膜を打った。
「立ち向かうと言うのよ」
その言葉を最後に、全てを飲み込む轟音が私たちを包み込んだ。
炎の赤と魔力の黒が完全に融合し、やがて視界の全てを塗り潰すほどの眩い閃光となって炸裂する。
吹き荒れる暴風の中、私とヴァレリアは光の奔流に飲み込まれ、いつしか世界は完全な静寂へと帰していった。
***
「……ローゼ! 無事か!」
リョウの声が聞こえ、瞼を開くと南部の空が視界に入る。
雲の少ない、どこまでも続く乾いた青だ。
私はゆっくりと身を起こし、周囲を見渡した。
塔は、なかった。
あの天を衝く黒石の巨塔が、影も形もなく消え失せていた。
蜃気楼も、霧も、何もない。
ただ、どこまでも続く砂漠の砂と、乾いた風だけがそこにあった。
南部諸国特有の熱を孕んだ風が私の髪を揺らした。
「全員無事だよ~。なんだったの、一体~?」
クリスがぽつりと言った声は穏やかだったが、どこか遠くを見ているような目をしていた。
「蜃気楼が見せた幻だったのでしょうか……?」
レオノールが眉根を寄せながら呟いた。
「冗談じゃないわよ」
ベレニスがため息をつきながら、自分の腕を揉む。
「体力はしっかり削られてるじゃない。幻だろうが何だろうが、こっちの消耗は本物よ」
フィーリアが手の中の水晶球を見下ろし、首を傾げた。
それはもう、ただの透明なガラス玉に戻っていた。
魔力の欠片も宿っていない、何の変哲もない球体。
ヴィレッタは立ち上がり、ゆっくりと私たちを見渡し、誰も怪我をしていないことを確認して安堵のため息をついた。
すると乾いた砂漠の風に乗って、私の耳だけに届く声が響いてくる。
あの声だ。若く、美しく、温度のない、どこか遠い場所から届く、薄い贈り物のような声。
『精々足掻いて、苦しみながら前に進みなさいな。……偉大な魔女ローゼちゃん御一行さん』
声は砂粒に溶けるように消え、私はしばらく、風の中に立ち尽くした。
呪いだろうか? それとも数百年を一人で過ごした魔女が、同じ魔女に送った不器用でささやかなエールだろうか?
答え合わせしたい欲求をぐっと抑える。
今はわからないことも、答えの出ない問いも、全部を抱えたまま前に進むのだと、今までの旅路で決めてきたのだから。
南部の太陽が、高く、明るく、容赦なく照り付けている空を見上げる。
ふっと、笑みがこぼれた。
「さあ、行こっか」
私の声は、砂漠の風よりも清々しく響いたと思う。
リョウがフッと笑みを浮かべ、馬車の御者席に乗る。
フタエゴとバラオビは相変わらず呑気にしているが、こいつらも私たちと無事に塔から戻ってきてホッとしているみたいだ。
馬車に乗り込む私たちの背中に、南部の太陽が降り注いでいった。




