魂の残滓、静かに見届ける
アルバネーゼ公爵家エドモンドとして生まれ替わった事に気が付いたのは、彼が五歳の時だった。だが、勉強以外はたいした取り柄の無かった私の自我を、快活で好奇心旺盛な少年にあえて出す必要は感じなかったため、まどろむような意識の中で、そっと彼の成長を見続けていた。
初恋とは言えないような幼い恋心や、楽しげに庭を走り回るのを眺め、少し大きくなってからは、普段は物静かでありながら、時折見せる激しさも微笑ましく、勉強熱心で知識欲が豊富なところも好ましかった。やがて成人した彼は、心優しい令嬢と恋に落ち、結婚。そして可愛い娘にも恵まれた。娘の成長を、溢れんばかりの喜びを感じながら見守るエドモンドの意識の傍ら、私自身もその成長を見守り続けた。
最愛の夫人を亡くした時の嘆きは大きかったが、愛娘が彼を支えた。
そんな彼の生涯は、私が出る必要など感じられず、このまま過去の魂の残滓として、再びの人生の終わりを迎えるものと思っていた。
そう、あの手紙を受け取るまでは。
それを見た瞬間、一気に意識が覚醒した。まさかこんなことが起きているなんて思いもしなかった!彼の大事な一人娘が死に瀕している!!
しかも、ここは、かつて読んだ事のある小説『ラブ・クライマー』の中だと漸く気付いた。あの話は無料で読める小説サイトに書かれていたものだが、コミカライズもされていて、「成り上がりと溺愛好きな読者」には評判がよかったが、私の好みではなかった。
しかし、あの女はこの手の話が大好きだった。同じクラスだった、あのくず女。
私の通う高校には、女王様のような生徒がいた。チアリーディング部の部長で、ファッション雑誌の読者モデルにもなったことのあるきれいな子だった。おまけに成績も上位で、男女ともに人気があったのだが、あのくず女はそんな彼女を羨み、妬み、しょっちゅう陰口をたたいていた。もっとも、ほとんど誰にも相手にはされていなかったが。
そのせいだろう。高貴な令嬢が、庶民や身分の低い少女にすべてを奪われる漫画を好んで読んでいた。その中でも、『ラブ・クライマー』は特にお気に入りらしく、他の子たちに布教じみた≪お勧め≫をしていたのを覚えている。
そのくせ、チアの部長が読者モデルとしてスカウトされた駅ビルの周りを、派手な格好で頻繁にうろついていることを私は知っていた。私の通う予備校がその駅ビルに入っていたからだが、ある日ばったりと鉢合わせした時、狼狽えたあの女を見て、鼻で笑ったのがまずかったのだろう。それからというもの、あの女は私の事も、やたら目の敵にしてくるようになった。
あの日も歩道橋の上で「まじめに勉強するしか能のないネクラ女が、偉そうに!」などと訳の分からないことを言いながら絡んできたため、その手を振りほどこうとしたら突き飛ばすような形となってしまった。しかも、あの女が咄嗟に私のカバンを掴んだせいで、一緒に落ちてしまい、そこからの記憶が無いところを考えると、恐らくその時に私は死んでしまったのだろう。
できれば、私だけが死んだのではないことを祈ろう。
だが、まさかあの小説の中に転生したとは思いもしなかった。しかし、これは好機かもしれない。
あのくず女が好きだった、このくだらない小説を、木っ端みじんに砕いてやるいい機会だ!私は小説『ラブ・クライマー』の記憶を、エドモンドの記憶として流し込んだ。
後はこれまでのように、唯見ているだけで良かった。娘を、そして孫娘を愛する彼が奮闘してくれるのが判っていたからだ。
ただ、気づいたのが遅かった。それだけが、悔しくてならない。結局、彼の愛娘を救う事は出来なかった。彼女が生きている間に屋敷に到着できれば、何とかなると思っていたのに、そうはならなかったのだから。
あの朝生まれた愛らしい赤ん坊は、彼ら夫婦の喜びだった。彼女の成長こそが、彼等の幸せだったのに。
娘を亡くした事を嘆く彼の想いに寄り添いながら、私は前世の両親の事を思い出していた。
特に仲がいい親子という訳ではなかったが、それなりに可愛がられて大きくなったという自覚はあった。彼らも又、私を失ったことを嘆いたのだろうか?ならば、悪いことをしたと思うと同時に、愛されていたことを喜ぶ自分も居て、その身勝手さに苦笑する。いまさら願っても叶うはずなど無い人達に、会いたいと思った…
しかし、そのことを除くと、全て上手くいったと言って良いだろう。エドモンドの奮闘の結果、ヒロインは身分の低い従僕の娘として生を受け、黒幕だった側妃は死を迎えた。ふふっ、あのときは愉快だったな。
エドモンドの訴えにより、拘束されたあの女は、審理の場でも
『伯父様、私が伯父様の命を狙ったり、クレリアを死に追いやるなんて、そんな事するはずがありません!変な言い掛かりは止めてください!』
などと平気で嘘をついていたが、エドモンドが証拠の数々を見せていくと、黙りこんだ。婿のライモンドが隠し持っていた密書や、取り上げた毒物。なにより、ミラベラが送って来た証拠の数々を見せられた時のあの女の顔ときたら!特に、会話を記録していたとは、思いもよらなかったのだろう。
≪あなたに誘惑してほしい男がいるの。あぁ、難しく考えないで良いわ…≫
≪ライモンドの愛人になれたら、今の仕事は…≫
≪あら、大丈夫よ。きっと、その頃には邪魔者は誰もいなくなっている筈…≫
≪あなたのような女にかかったら、男なんて…≫
次々に流される、己の企みの証拠を聞かされた側妃は、驚き過ぎて、目玉が飛び出すのではないかと思うほど、目を見張っていた。
『さて、邪魔者とは、一体誰の事かな?』
エドモンドは、追い詰めたネズミをいたぶる猫のように楽しそうだった。
『そ、それは…』
そして極め付きが≪間違いなくクレリアの臨終に立ち会えるようにしろ≫という念押しの手紙だった。
『どうやら、お前が思っているより、あの娘は賢かったようだな』
エドモンドのその言葉が、よっぽど悔しかったのだろう。ギリギリと歯ぎしりが聞こえる。
その後は必死に言い訳をしていたが、元々王家としても持て余していた存在だ。庇う者も居ないまま、公爵が望む最後を迎える事になった。
まだ幼い王子はその身分を剥奪されただけで済まされたが、ガリァーノ侯爵家は領地を減らされ、更に落ちぶれる事になった。尤もエドモンドは妹や甥に対しては手を差しのべる事にしたようで、現侯爵の引退を条件に、幾ばくかの援助を約束していたが。
私は少々悪趣味だとは思ったが、ティジアナの刑が執行される日、エドモンドはその場に立ち会う事にした。
『嫌よ、離しなさい、私を誰だと思っているの!こんな事したら、陛下のお怒りを買うわよ!伯父様、お願いだから、止めさせて!』
牢の中で泣き叫び、慈悲を乞う女の口を、特殊な器具でこじ開け流し込まれた毒は、二時間の間彼女を苦しめた後、その命を終わらせた。
その間、エドモンドはずっと椅子に座り、その様子を眺めていた。彼は吐瀉物と汚物にまみれ、喉をかきむしり、のた打ち回り苦しむ側妃に向かって、
『何ヵ月にも渡って毒を飲まされていた娘に比べれば、楽な物だろう』
と、何度も言っていた。
そして、愛人に現を抜かして妻を亡き者にしようとした婿もまた、死んだ。エドモンドはあの男を簡単には殺したくなかった為、片目を潰した状態で最下層の奴隷として、鉱山で働かせることにしたのだが、わざわざ、定期的に罰を与えるよう仕組んでいた。
もちろん死なない程度にだ。≪生き地獄を味わわせる≫。それこそがエドモンドの願いだったのだから。そして、時々は罰を与えられる様を見に行った。
あの時は、三日間の独房、食事抜きというものだったか。独房の隅でうずくまる男に声をかける。
『いい様だな、ライモンド』
『公爵?!お、お願いだから、こんな事、もう止めさせてくれ。もう、十分だろう?』
『何が十分なんだ?私の娘はもうこの世に居ないのに、お前はまだ生きている。それだけで、幸運だと思うんだな』
すすり泣く声を聞きながら、エドモンドは満足そうにその場を後にした。
しかし、十年目のある日、とうとう事切れたようだった。その姿は枯れ木のようにやせ衰え、髪も間ばらにしか残っておらず、歯もほとんど残っていなかったという。
ようやく彼の復讐が終わったと思った。
そう、すべては過去の話となったはずだった。大きな虚ろを抱え、下手をすると闇に落ちかねない彼が、唯一の光であるロザリアという存在だけを頼りに、再び穏やかな日々を取り戻したと思っていたのに、まさか、ヒロインが登場するとは思わなかった!
しかも、本の内容を知る転生者だ。
そのせいだろう、とんだ勘違い女だった。13年前、男爵家程度が侯爵家や側妃に逆うことなどできなかっただろう事と、ミラベラがよこした証拠が有効だったために、親子共々見逃してもらえただけだというのに、あの娘ときたら、そんな事さえ理解していなかった。
可愛いロザリアに対して、自分の物を返せ等と言って、暴力を振るおうとしたのだ。幸いにも、護衛として雇っていたヴィルフレードが良い働きをしたようで、事なきを得たが。いくらヒロインでも、まさか元王子が護衛に落ちぶれているとは思うまい。彼は身分を失った後、護衛騎士ジノの養子となっており、今では公爵家に忠誠を誓う一騎士に過ぎない。
おかげで勘違い女は直ぐに捕らえられ、牢に放り込まれたが、心優しいロザリアは≪鞭打ちと修道院送り≫だけで許す事にしたようだった。まぁいいだろう。ただ、せっかく薄まっていたエドモンドの闇が、また少し濃くなったおかげで、鞭打ち十回に王都近郊の修道院のはずが、三十回と北壁の修道院に変更になっていた。
恐らく、あの娘が逃げ出すことを、彼は期待しているのだろう。北壁の修道院は、敷地内は結界が張られて安全だが、そこから一歩でも出ると、魔獣の多い森に隣接しているため、大変危険なのだから。
それから三週間後、マリエッラが修道院から逃げ出したとの報告が来た。少し離れた場所から、血まみれの修道服の一部が見つかったとも。おそらくは、もう生きて無いだろう。それもまぁ、自業自得か。おとなしく修道女として過ごしていれば、もう少し長生きできたかもしれないのに…馬鹿な娘だ。
でも、今度こそ、本当に終わったのだ。だから私は再び微睡みの中に戻ることにした。
できれば、懐かしい両親の夢でも見れる事を期待して。
ねぇ、お父さん、お母さん。親の愛ってのは、本当に大きくて、深くて、そして重たい物なんだね…
これで完成です。
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