第1話 お人好し商人が路地裏で拾ったもの
この世界には「属性」というものがある。
生まれつき持つものもあれば、後天的に刻まれるものもある。炎の属性を持つ者は火に強く、風や水の属性を持つ者は嵐でも平気だ。冒険者ギルドでは冒険者証に属性が明記されていて、雇用の際の参考にされる。
ジェルバ商会の若主人ラオトの属性は、生まれた時から「無」だった。ごく普通の、どこにでもいる商人。それで充分だったし、これからもそのつもりだった。
少なくとも、あの朝までは。
「……っくしゅ!」
朝からくしゃみが止まらない。
昨夜遅くに調合していた薬草に、微量の魔力粉が付着していたらしい。ラオトの鼻は早朝から警報を鳴らし続けていた。ラオトの身体は、稀少な竜から僅かに発せられる魔力粉に対して、過剰な免疫反応を起こしてしまうのだ。付着すると、決まって風邪に酷似した症状が出る。
いつもなら自家製のポーションで抑えるのだが、今回はどうやら飲むのが遅すぎたらしく、効き目が鈍い。湿らせた布で鼻を覆ってはいるものの、一向に落ち着かなかった。
(あぁ、もう早く効いてくれ……そうしないと今度は――)
そうこうしている内にも、激しいくしゃみが調合室に響き渡る。このままだと涙で目が開かなくなってしまう。一刻も早い薬効を願いながら、ラオトは棚の引き出しから乾燥した薬草を取り出し、乳鉢に入れてすり潰した。そこに数個の鉱石の欠片を混ぜ合わせると、細かな美しい光が弾け、鈍い色をしていた薬草の粉末が鮮やかな青色へと変色した。
完成したポーション粉を見て、ラオトは小さく息をついた。これは今朝の分だ。三代目になってからというもの、父や祖父の調合帳を読み込んで改良を重ねてきた、自家製の抗免疫反応薬。市販品では体質に合わず、気づけば自分で作るしかなくなっていた。苦みが強いのだけが玉に瑕だが、背に腹は代えられない。
ラオトはその粉末を純水に溶かす手間すら惜しみ、そのまま手のひらに取って口に放り込むと、仕入れ用の荷物を肩に担いだ。
(今日も市場に行かないと。薬草と鉱石の補充、忘れてたな)
鼻をすすりながら扉を開ける。快晴の開放的な空気に、ラオトは思わず背伸びをした。
* * *
朝の市場通りというのは、どこの町でも似たようなものだ。
威勢のいい声、荷車の軋む音、焼きたてのパンの匂い。昨日からのくしゃみのせいで匂いは半分もわからないが、それでも活気だけは肌を通じて伝わってくる。
仕入れを終えた帰り道、ラオトは路地裏に入った。いつもの近道だ。大通りを行けば時間がかかるが、ここを抜ければ自宅兼店舗まですぐだった。今日は荷物が重かったこともあり、迷わず足を踏み入れた。
と、水たまりのそばで、それを見つけた。最初はただの石ころだと思ったが、僅かに動いた気がしてしゃがみ込む。覗き込んで、ようやくそれが生き物だと気づいた。危うく蹴飛ばすところだったと、ラオトは胸をなでおろした。
手のひらにすっぽり収まるほどの小さな何かが、ぐったりと横たわっている。鱗は青みがかった金色で、細い尻尾の先が小刻みに震えていた。片方の前足が、不自然な角度に折れ曲がっている。
(……トカゲか。珍しい色をしてるな)
綺麗だと思ったが、それ以上に可哀そうだという感情が勝った。ラオトは昔からそういう人間だった。財布の中身は常に予定より減っているし、先月は行き倒れの旅人を三日も泊めた。母親に「あんたはどこかおかしい」と呆れられたのは、もう何度目か分からない。
とりあえず荷物を脇に置き、その生き物に触れた、瞬間。
「っくしゅ!」
凄まじいくしゃみが出た。
(え……なんで。さっき薬を飲んだばかりなのに)
おまけに、今度は目まで微かに痒くなってきた。手の甲にまでじんましんが出始めている。おかしい、と首を傾げながらも、目の前のトカゲを見つめる。前足は明らかに捻挫か打撲をしており、水たまりのそばで今にも力尽きそうだ。
放っておく理由が、見つからなかった。
「ちょっと待ってろよ」
ラオトはトカゲをそっと布で包み込むと、くしゃみを連発しながら自分の商会へと急いだ。
* * *
物置き代わりに使っている小部屋に、即席の寝床を作った。古い木箱に柔らかい布を敷き、薬草棚から抗炎症作用のある薬葉を取り出してすり潰す。自家製の湿布を作って、折れ曲がった前足に巻いてやった。小さな皿に水を入れ、口が届く場所に置く。
その作業中も、くしゃみは止まらなかった。まともに息もできないため、ひとまず湿らせた布を顔に巻きつける。
「っくしゅ、っくしゅ……くしゅん!」
(なんでだ? なんでこんなに出る? 薬を飲んでから大分経つはずなのに)
目は真っ赤に充血し、猛烈に痒い。鼻の奥がツンと痛む。たまらず、追加のポーション粉をもう一口分、口に放り込んだ。苦い。いつ飲んでも泥のように苦い。
生き物はぐったりとしたまま、時折尻尾の先をぴくりと動かした。金色の目が、かろうじてこちらを見つめている。
「明日には元気になるだろ、たぶん」
ラオトは自分に言い聞かせるようにそう呟くと、仕事に戻った。
それから三日間、ラオトは甲斐甲斐しく世話を焼いた。朝に水を換え、昼に湿布を巻き直し、夜に状態を確認する。二日目には自分で餌を食べて水を飲むようになり、三日目には前足に体重をかけられるまでになった。
一方で、ラオトの症状は三日間、悪化の一途をたどっていた。
くしゃみ、目の充血、止まらない鼻水、そして手のじんましん。追加のポーションをいくら飲んでも、翌朝にはまた激しい症状がぶり返す。
(おかしい。最初の免疫反応の影響は、とっくに抜けているはずなのに……)
原因が分からないまま、それでも毎朝、物置を覗き込んだ。金色の目がこちらを見るたびに、尻尾が嬉しそうに動くようになっていくのが、なんとなく微笑ましかった。その瞬間だけは、自分を苦しめる謎の症状も少しだけ和らぐような気がした。
* * *
四日目の朝。
物置部屋の前に立ったラオトは、廊下で完全に硬直した。扉の隙間から、光が漏れていたのだ。それは神秘的な、青みがかった金色の光だった。
恐る恐る扉を開けると――そこには、部屋いっぱいに広がった巨大な「翼」があった。天井に頭をぶつけ、長い尻尾が棚を直撃したせいで、鉱石の瓶が床に転がっている。その巨体を覆う鱗の色は、紛れもない、あの青みがかった金色だった。
それを見た瞬間。ラオトの生涯で最も激しいくしゃみが炸裂した。
「っくしゅ! っくしゅ! けほっ、っくしゅ、っくしゅ――!!」
目からは涙がボロボロと溢れ、鼻は完全に詰まった。全身が猛烈にかゆい。なぜだ、なぜこんなに。出来ることなら、今すぐあの苦いポーション粉を大量に調合して、全身に塗りたくってやりたい気分だった。
そんなラオトの有様を、天井に頭をぶつけたままの巨大な生き物は、ひどく申し訳なさそうな、困り果てた顔で見下ろしていた。
沈黙。そしてラオトのくしゃみ。また、沈黙。
あまりの衝撃に声が出ないラオトの頭の中に、直接、透き通った声が響いた。
『ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません』
(……頭の中に、声が?)
『私はエデル。竜族第七位、アズライト家の若竜です。三日間の手厚いご看護、心より感謝いたします』
(竜、族……?)
(……竜? 竜!?)
「……あの」
ラオトはかろうじて、掠れた声を絞り出した。
「……落ちた瓶、割れましたか」
『一本は無事です』
「……そうですか」
ラオトはその場にへたり込んだ。浅い呼吸を繰り返すが、やっぱりくしゃみが出る。
(竜がいる。部屋に竜がいる。三日間トカゲだと思って世話をしていたやつが竜だった。なんでトカゲが竜になるんだ。なんで頭に声が響くんだ。なんで――)
もう一度深呼吸。立ち上がり、一度扉をパタンと閉めた。そして五秒後、現実を確認するため、もう一度ゆっくりと開けた。
「足、もう治ったのか」
『はい、おかげさまで完治いたしました』
「そうか。よかった」
ラオトは、どこまでもそういう人間だった。




